25
王女は親友の傍らに立つ二人を見ると、にこりとほほ笑んだ。
「このあいだも会ったね――そうだ、名前を訊いていなかった」
そう乞われて、レジェンとチェリファリネは改めて挨拶をした。ロネウスは馬を下り、丁寧に、ただし女性らしいものではなく騎士のするようなお辞儀をした。
――ああ、もしも昨日会えたなら。
チェリファリネは考えた。もしも昨日の昼、ここで王女と会うことができていたら、こうしてレジェンを見送ることはなかったのではないだろうか。
やがて答えを得る。それは違う。いずれにしてもパリスはここを旅立つと言ったろう。なぜなら、城に彼女の杯がある保証はないのだから。旅立つパリスに頼られて、レジェンが拒めるはずもないのだから。
チェリファリネはただまっすぐ、ロネウスを見つめた。と、ロネウスが口を開く。
「見送りに?」
問いに、レジェンが首を振る。
「チェリファはそうです。しかし、ぼくはパリス様のお供をします」
「そう」
答えに頷いて、ロネウスはレジェンの頭を優しく撫でた。パリスとさえほとんど変わらぬ身の丈は、王女と並ぶとさらに小さく見える。実際に大陸の民と比べれば子どものように小さいのだが、子をあやすようなロネウスの手つきに、劣等感を抱かずにはいられない。レジェンはややうつむいて、一歩退いた。
気にするようすもなく、ロネウスは彼の顔を覗きこむ。
「本当‥‥いいや」
なにを言おうとしたか、考えずともわかる。やめたのは、焦りをあらわに瞳を曇らす親友への気遣いだろうか。
飲み込んだ言葉の代わりに、ロネウスは続ける。
「よろしく頼むよ。パリスは、わたしの一番大事な友だちなんだ」
見つめる藍色の奥に、寂しさと心細さが見える。レジェンは彼女の顔を見つめ返し、力強く頷いた。
それから、彼らは準備に取りかかった。荷物を馬にくくり、チェリファリネは幼馴染に外套を返す。馬は老いていたが、その分大人しく、またパリスにも慣れているようだった。彼女はたてがみを優しく撫で、馬になにかを囁いていた。またロネウスは、路銀にと、数枚の金貨を二人に与えた。
パリスを先に乗せ、レジェンも跨る。不安げに見守る幼馴染に手を伸べると、彼女は応え、互いに強く手を握った。
黙ったまま、頷く。ゆっくりと離れる指先が、わずかに震えた。
「――元気で」
馬は町を出るまで歩き、離れては駆けた。コモードに向けて進むなか、ふと振り返ると、遠く、宙にぽつぽつと浮かぶ光が見える。この暗闇に城の影は溶けても、その輝きはどこまでも照らす。
どんなに小さな灯火も、夜には道しるべになる。
「ありがとう、レジェン」
パリスが言った。土を蹴る蹄の音に、うっかり聞き逃してしまいそうな、小さな声だった。
「このまま二日ほど東に進めば、トリル山があるわ。その山を南から回れば、王軍と会うこともないと思う」
「わかりました」
「‥‥気を遣わないでいいわ」
レジェンに背中を預け、パリスが自嘲気味に言う。それきり、二人は黙りこんでしまった。
馬が走る限りを走り、夜が明けるころ、見晴らしのいい緩やかな丘で、彼らはしばし身を休めた。太陽が真南まで昇るころに再び馬を走らせ、日落ちどきには森に着いた。パリスによれば、この森の奥に山はあるのだという。
二人は夜を、ここで過ごすことにした。レジェンは火を起こし、持ってきた肉をあぶる。馬は木の根元に伸びる草を食み、満足するとパリスのそばに横になった。
星が輝き始める。
乙女のまっ白い肌を、炎の光が赤と黒に塗り分ける。食前のお祈りをして、料理を口許まで運びながら、手はそこで止まってしまう。
婦人の作った朝食を思い出す。彼女のための食事は、食べやすいように料理されていた。レジェンは彼女の食事を取り上げると、より小さく、ナイフで切り分けた。
「ごめんなさい」
「いいえ」
無理やりにほほ笑んでみせると、乙女は安堵したように、強ばった頬をゆるませる。しかしきゅっと唇を噛み、落とした視線からは疲れが読み取れた。慰めるように腕をさする老いた馬の鼻を、彼女はそっと撫でる。
「きっともう、王の軍は城に着いてるわね」
パリスがいないことも、もしかしたらもう気づかれているかもしれない。少なくとも婦人は朝のうちに知ろう。
――チェリファリネは大丈夫だろうか。
島人の片割れがいないとなれば、彼女も疑われるだろう。まして、同じ部屋で休んでいたといえば、気づかなかったとごまかすのも難しいように思われる。
いや、しかし、ウォルドが戻っているはずだ。彼なら、チェリファリネを守ってくれる。レジェンは、よぎる不安をそうしてかき消した。
老馬に体を預け、パリスが目を閉じる。よほど疲れたのか、食事はほとんど減っていない。
「パリス様、食べておかないと、明日の旅に差し支えます」
「‥‥ごめんなさい、食欲がなくて」
薄く目を開き、どこか遠くを眺めて、かすかに首を振る。それから、ちらりと彼のほうを見やって――泣きそうに眉を歪ませ、顔を背ける。
ずっとそうだ。それはもう、十分にわかっていた。
パリスが本当に笑った顔など、一度しか見ていない。すなわち、最初に出会ったコンテネレツァで、彼をガウリスだと勘違いしたときのみだ。あのときの彼女は、心の底からうれしそうに笑っていた。そしてあの日から、見るごとに弱っていった。今、こうして息をしていることさえも、やっとのことに思える。
どんなに顔が似ていても、彼ではだめなのだ。兄でなくてはいけないのだ。
この麗しい人を笑わせるには、元気づけるには。ほかのだれでもない、兄が必要なのだ。
「パリス様は、どうして」
言いかけて、口ごもる。問うて許されることだろうか。
パリスは目を閉じたまま、ゆっくりと肩を上下させている。レジェンは諦めて、パリスの残した食事を皮の袋に収めた。明日の朝ならばまだ食べられるだろう。
荷物のなかから一枚しかない毛布を取り出し、パリスにかける。レジェンはといえば、幸い野営にも慣れている。外套をかぶって馬に寄り添えば、そう寒くも感じなかった。
徐々に小さくなっていく火からは、糸のように細い、白い煙が上がる。やがて炭だけが赤く灯るのみになったとき、どうやら馬は寝たようだった。
「ラセルも、昔からの友だちなのよ」
遠くで鳴く鳥の声のほかなにも聞こえない静けさに、乙女の細い声が不意に響いた。入りかけた眠りから引き戻されて、レジェンは頭をやや起こす。
ラセルというのは、この老馬のことだろうか。
パリスは目こそ閉じているが、まだ起きていた。いいや、きっと――眠れないのだろう。
「ラセルにはすぐにわかったのね。あなたがガウリスじゃないって‥‥ラセルは、ガウリスによく懐いていた」
わたしにはわからなかったのに、と続けて、小さく笑う。寂しげな、自嘲気味なそれは、細かに体を震わせる。
――どんなに似ているからといって。兄弟だからといって。
「どうして愛している人と、そうでない人の違いがわからなかったのかしら」