23
「ご婦人には内密に」
パリスは小さな声で、二人に願った。
パリスを中央に、三人は寝台に並んで腰かけた。パリスは力なくレジェンにもたれ、彼はその背を撫でる。チェリファリネは窓辺に肩を預け、二人をぼんやりと眺めた。
「また、旅に出ようと思うのです。ガウリスを探しに」
死を待つよりは。囁くような声は、決意に満ちていたけれど、部屋の隅を見つめるまなざしは不安げになにかを乞うている。
か細い手が、レジェンの寝巻きの裾を掴む。
「お願いです。もう一度、ガウリスに会いたいのです」
「一緒に行ってほしい、と?」
レジェンが問うと、パリスは一つ間をおいて、静かに頷いた。乙女の潤ませた大きな瞳が、彼に訴える。
先に答えたのはチェリファリネだった。
「わたしたち、ウォルドが戻るまで、ここで待つと約束したわ」
冷たく聞こえた。意図したわけではない、けれど、チェリファリネの視線は、パリスには冷たかった。睨むようなまなざしに気づいて、パリスは口を結んで押し黙る。
嘘は言っていない。けれどレジェンに無言でとがめられて、チェリファリネは悔いた。彼女とて、この十数年ものあいだ、報われぬ想いをガウリスに向けてきた。パリスの境遇に同情はするけれど、嫉妬心が、無意識に彼女を敵視させる。
それでも、今のパリスを正面から拒絶することは、あまりに心無い。どんなに正論であっても。
「‥‥わたしたちだって、ガウリスには会いたいわ。けど」
パリスが声の主に顔を向ける。碧色の瞳が曇っている。哀れみを感じさせるその色に思わずチェリファリネが言葉を切ると、パリスはしばらく考えて、それからうつむいた。
静かな時間が流れる。乙女の顔色は相変わらず優れない。
そう背丈の変わらないパリスの頭を肩に抱いて、レジェンは心臓が高く打つのを感じた。兄の愛したジェイファン王子の婚約者、いずれはこの国の王妃となるべき女性は、うわさに違わぬその美貌を、こうも無防備に彼に近づける。
金色の髪がふわりと香る。ああ、どうしてこのような美女が、兄を思って嘆くだろう。
「パリス様――今までどちらかにお出かけだったのですか?」
ふと、その金糸にからむものを見つけて、レジェンが問うた。乙女はぎくりと口許を強ばらせて、顔を上げる。レジェンが取り上げたそれは、細い小枝だった。
さっきはなかったろう。気づかなかっただけか、いいや、パリスは今日一日、家を出ていないはずだ。
「裏の川辺へ行っていたのです」
「――兄は生きています!」
川辺へ。そう聞いたとたん、ウォルドの言葉を思い出す。続く戦争の最中、愛する人を失った悲しみから、川へ身を投げる人々もあると。今にも倒れてしまいそうな乙女を見れば、自ら死を選ぶ不安を思わずにはいられない。
しかし、乙女は逡巡ののち、わずかに笑った。
「いいえ、違います。わたしも、彼を信じておりますわ」
言いながら、乙女はぎゅっとレジェンの手を握る。
「人と会っていたのです。わたしの、幼いころからの友人です」
目を細め、どこか遠くを見つめながら、彼女は説明した。友人とはいえ、昼に堂々と会うことはためらわれた。パリスは今、王子の手から逃げているのだ。そんな彼女に会っていたと知れれば、友人の身も危ぶまれる。
いいや、それ以上の理由が、彼女たちにはあったのだが。
「彼女にはすべてを説明しました。わたしがデライフの杯を持っていないこと、王城からの使いが来たことも――すると彼女は、わたしに逃げよと言いました。そして、馬を貸してくれると、約束してくれたのです」
パリスは切々と訴えた。
「わたしはここを離れ、ガウリスを探すつもりです。明日の夜に彼女が馬を連れてきます。そのときに、あなたがたにも助けてほしいのです」
控えめなれど、心を決めた乙女の言葉は強い。美貌に甘えられてはつい頷いてしまいそうにもなるが、窓辺で眉をひそめる幼馴染のまなざしに、レジェンは冷静を努める。
だめだ。チェリファリネの言うとおり、ウォルドを裏切れはしない。それに、――魔女の言葉を思い出す。
ブリランテに踏み入れれば、二度と兄に生きては会えまい。
あの言葉を信じれば、どんなに彼女と旅をしても、彼女の望みは果たせない。
黙ってついて行くこともできる。
邪念が浮かぶ。もし、この麗しい乙女と旅ができたら。
レジェンは答えられなかった。
「明日の夜までに、どうぞお考えいただきたいのです。これまで幾度か旅はして参りましたが、二度とこの町に戻らぬとなれば、一人では心細いのです。どうか哀れと思し召して、ご助力くださいませ」
彼の手を握る乙女のそれは、細かに震えていた。細く長い指、ひやりとした柔らかな肌。思わずもう一方の手を重ね、包み込む。
即答できぬ彼を、チェリファリネは苛立たしげに睨みつける。言いたいことはわかる。けれどしばしの沈黙ののち、小さなため息をついて、彼女は諦めたように言った。
拳を握る。
「あなたが行きたいなら行けばいいわ。わたしは、ここでウォルドを待つから」
「――ああ」
パリスには命がかかっている。一人で逃げろなどとは、チェリファリネにはとても言えなかった。
パリスが自身の部屋へ戻ったあとの二人は、今までにないほどに静かだった。先ほどまではデライフの杯を巡って、城にどう潜入しようかを相談していたというのに。決して穏やかなものではなかった、心急く険しいものだったけれど、だからこそ二人同室にあることを心強く思えた。
今は違う。
今案ずるべきは、明日の夜、パリスがうまく逃げられることだ。そのためにレジェンがどうするか――チェリファリネはああ言ってはいたが、本心でないことは顔を見ればわかる。
レジェンがパリスについて行けば、当然チェリファリネは一人になる。ウォルドは近いうちに戻るだろう、それまでは婦人もいる、けれど。
不安なのだ。怖いのだ。明日を終わりに、もう会えなくなってしまうのではないかと思えば。
いつかガウリスが島を去ったときのように。あのとき、どうしてそれが最後だと予見できたろう。
今回もこれきり、最後になってしまうのではないか。ではパリスを見捨てるか、それともウォルドを裏切るか。
二人横になった寝台で、手を伸ばせば届く距離に互いがいるのに、かける言葉はどこを探しても見つからなかった。