21
レジェンの表情の変化を、チェリファリネは見逃さなかった。きゅっと結んだ唇の震えに彼の焦りを読み取る。
乙女の目からは、ついに涙が零れ落ちた。
「パリス様、とにかく今はお休みください。幸い、新月までにはあと七日ほどあります」
乙女の背を撫でながら婦人が言って、パリスが顔を上げる。
――新月。
ラドリアナ教では古くから、これから満ち行く新月は新たな門出にふさわしいとされ、結婚にはこの日が選ばれることが多い。貴族、ましてや王族の結婚となれば、当然に新月を待つことになるだろう。
レジェンたちも、いつかそんな話を聞いたことがある。昨夜見た月はたしかに半月だった。
パリスはしばし考え、やや冷静さを取り戻したようだった。そこへ、チェリファリネが進言する。
「わたし、レジェンの部屋へ移りますわ」
「ありがとう」
婦人がほほ笑んで頷く。乙女もうつむきがちにしながら小さく礼を呟いて、二人は連れ立って居間を立ち去った。パリスのおぼつかない足取りに、婦人は優しく手を引いて。
静けさが戻る。しかし先ほどとは違う。胸がざわめき、気づいた真実に焦燥を抱く。
二人はすぐさま、鞄をひっくり返した。ぼんやりとした明かりのなか、けれどそれがないことは一目瞭然だった。
デライフの杯。ガウリスがハオン島の鍛冶場に残した、パリスの愛の誓い。
いつ、どこでなくしたろう。
「まず、部屋を探してみましょう」
チェリファリネが言って、レジェンは無言のままに頷く。二人は足音を忍ばせて、部屋へと向かった。
くまなく探すも、やはりない。そもそも、ここへ来てから鞄を開けたことはなかった。
落としたのだろうか。考えられなくもない。簡素なつくりの鞄は傾ければ口を開く。
「でも、落としたならすぐ気づく」
言い訳のように呟いたそれに、幼馴染は頷く。ほとんどをともに過ごしていた二人だ、彼女とてその異変に、今まで気づけずにいた。
「困ったな」
恐ろしい考えが脳裏を過ぎる。すなわち、昨夜とどまった王城だ。
いいや、もしあの部屋で落としてきてしまっていたなら、きっともう見つかっているだろう。そうなればウォルドは追究されるだろうし、レジェンのもとにもなんらかの使いが来るに違いない。
だがほかは考えにくい。もしどこか別の場所でなくしたのなら、見つけるにはこれまでの旅路をすべて辿らなくてはならない。いいや、ベローチェではたしかにあった。杯のなかに隠したメリアンの指輪をウォルドに見せたのを覚えている。それからコンテネレツァの酒場でパリスに出会ったときにも鞄を開けた。うろ覚えだが、そのときもまだ持っていた。
そのあとだ。いつからなかったのだろう。考えても答えは出ない。
チェリファリネの顔も、不安に青ざめている。
「盗まれたのかしら」
「まさか、あれを盗んで、だれがどんな得をするのさ」
金は減っていない。また杯を狙ったといって、彼がパリスの杯を持っていることとこの鞄にしまっていることを知っているのはわずか、この島人らとウォルドだけだ。
なかにはメリアンの指輪もあったが――それも、同じことが言える。
「やっぱり、きっと落としたんだ」
そう結論付けて、しかし、やはりこれは危急の事態であるといわざるを得ない。ほかの場所ならまだいい。もし王城で落としていたなら。可能性はないとは言い切れない。
昨夜、王の言っていたことを思い出す。パリスは少なくとも、ここしばらく王城には立ち入っていないのだろう。ならばどこであれ、彼女の名の入った杯が城にあるのは不自然に当たる。
「探しに行けないかしら」
「王城にか? ウォルドもいないのに」
今、城に行くのに頼れる人物はだれもいない。真意はわからぬも島からの客人を喜んでくれた王ですら、城を空けている。まして代わりに残っているのは、憎き悪党、王子ジェイファンだ。
口が裂けても理由は言えない。ない可能性のほうが高いのだ。
考える。とても穏やかにはおれぬ心は、時間の経過とともに冷静さを奪う。
あれがなくては、パリスは。
「――ロネウス様には、お願いできないかしら」
思い出したようにチェリファリネが顔を上げた。
「そうだわ、ロネウス様――あのかたにお会いできれば」
「どうやって?」
苛立ってレジェンが尋ねる。
昼間、ロネウス王女は川辺に来ていた。女だてらに剣の腕を磨く、純粋で真面目な乙女。もしかしたら明日も剣の練習に来るかもしれない。
考えを聞いて、レジェンは顔をしかめる。そうならいい。けれど希望でしかない。確実視は、できない。
「それに明日もいらしたとして、相手は王女さまだ。ジェイファン王子の実の妹君だし――わけを尋ねられたらどうする」
「‥‥そうね」
二人はまた、思案する。
部屋の外から夜の挨拶をする婦人の声と、続けてドアの閉まる音が聞こえた。パリスはもう、寝入ったのだろうか。
窓の外は暗い。徐々に遅くなる月の出は、より二人を、いいや、最もはパリスの心を焦らせる。
早く、杯を見つけなければ。
「ところで――ねえ、レジェン」
長い沈黙を破って、チェリファリネが口を開く。声に顔を上げたレジェンの目は、暗くよどんで見えた。チェリファリネはややためらってから、けれど続けた。
声を低くひそめて。
「ジェイファン王子は、彼女がガウリスに杯を渡したことを知っているのかしら?」
素朴な疑問だった。
そういえばそうだ。ウォルドの話を思い出せば、ジェイファンがパリスの裏切りに気づいたのは、彼女の普段のなにげない振る舞いがそのもとだ。ガウリスが彼女の杯を持っていたということについては、ジェイファンが知っているとも知らないとも言わなかった。
しかし、ガウリスとパリスの繋がりをダロンの弟子たちも驚いていた、と、ウォルドは言った。つまり、杯のことについてはだれがどこまで知っているのかはわからない、けれど二人の過ちを知っている人間はそれなりにいる。
王は知っているのだろうか。あの王だ、真意は測れない。
「‥‥知らないと、信じたい」
せめて、杯のことだけは。もしだれも知らないでいてくれたら、城で杯が見つかっても、なんとかごまかせるかもしれない。言い訳は辛くなるだろうが。
再びの、長い沈黙。風が強く吹いて、ぽつぽつと雨が降り出した。
――昼間は晴れていたのに。ああ、けれど朝方は曇っていた。
ウォルドは無事だろうか。考えたとき、ふっと昼間に会ったときのロネウスの顔が浮かぶ。きっと彼女も心配しているに違いない。
「やっぱり、言うだけ言ってみるわ、ロネウス王女さまに。もし、会えたら」
いちか、ばちか。逡巡したのち、レジェンも渋い顔で頷いた。ほかに案も浮かばない。
「じゃあ、ぼくは通った道を探してみる。馬に乗りながら落としたのかもしれないし――明日になったら、城までの道を歩いてみるよ」
そのあいだにいい案が浮かんだらまた話し合おう。そう締めくくって、二人は朝を待つことにした。いずれにせよ、夜が明けなければ行動はできない。
手のひらに不安を握る。長い夜、二人はいつまでも眠れずに過ごした。