20
夕方近くになって目を覚ましたレジェンに、チェリファリネはロネウスから聞いたことを話した。
ウォルドの母は夕食のため、町へ買い物に出ていた。二人の島人は赤みを帯びてきた太陽を背景に、旅立った友人を思った。
「そういうことか」
ぽつりと、レジェンが呟く。王の深夜の会議の理由はこれかもしれない――ふしぎに見つめるチェリファリネに、彼は仮説を説いた。
「今回の会議、王は冷静な判断のできる騎士を連れて行きたかったのかもしれないな」
レジェンはこれまで、王は心正しき騎士を連れようとしていたのではと考えていた。同行者から裏切り者を排除し、会議を円滑に進めるために。しかし、仲間を欺こうとする裏切り者が不用意に酒に酔うだなどとは考えにくい。むしろほかの騎士らよりも慎重になるはずだ。
王は宴の前に会議のあることを述べた。連れる騎士を選ばぬまま酒が振る舞われ、疑う騎士も多かった。裏切り者ならばなおさら怪しむだろう。
念には念を――と、ロスダルニャは言った。もし裏切り者を出し抜くための策ならば、愚かとしかいいようがない。
つまり今回の旅に同行したのは、正しき者、悪しき者の区別なく、冷静な判断のできる騎士だということだ。不測の事態が起こっても、目的を見失わずにいられる強い心。王が選び出したかったのは、そこではないだろうか。
今度の目的は会議だ。戦ではない。
そこまで考えたとき、膨れ面で見つめる幼馴染に気づく。不機嫌そうに顔をしかめ、無言で説明を訴えるチェリファリネに、レジェンは苦笑した。
「きっと大丈夫だよ、相手もマリアン王子だ。もし裏切り者があっても、とたんに剣を抜くことはないさ」
今度の使者がまた偽者であっても、会議に現れるのがマリアンならば。
信頼がそこにはある。
「それに一国の軍だ。二度も同じ手にかかるものか。ウォルドなら大丈夫だよ」
「‥‥そうね」
これ以上は、どんなに会議を疑っても仕方がないと、二人は悟った。
信じよう。彼の帰ることを。
窓の外に目をやると、道の向こうから、ウォルドの母の姿が見えた。やや急ぎ足で、幾度か後ろを振り返りながら歩いてくる。ふしぎに思いつつも、チェリファリネが窓から身を乗り出して声を掛けると、彼女はほほ笑んで手を振った。
一日は、あっというまに過ぎていくように思えた。
夜だった。
夕食を終え、小さなランプの明かりを頼りに、彼らはくつろいでいた。レジェンらはかつて島で初めてウォルドに会ったときのことを、婦人はガウリスがここで暮らしていたときのことを、それぞれ懐かしんで話した。
今ごろ、なにをしているだろうか。
ふと話の途切れたとき、婦人がため息をついた。どこか遠くを見て、それから手元のカップを見やる。もとは、聖書の一節が彫られていたという跡を、悲しそうに撫でる。かける言葉もなしに、三人はただ黙っていた。
そんななか、扉を叩く音はよく響いた。
夜分の訪問者に、だれもが脳裏に不安を走らせた。よからぬ報せか。いいや、まだ早すぎる。
婦人が立ち上がり、よろよろと玄関へと向かう。顔色が悪い。きっと違うとは言い聞かせても、不安を完全に拭い去ることは難しい。チェリファリネは彼女に寄り添い、レジェンが婦人より先に回って扉を開けた。
城からの使いかと予想して見上げていた視線を、徐々に下ろす。闇に包まれ、手にした小さな灯りが顔を照らす。背丈は、レジェンとそう変わらない。
輝く金色の髪。まっ白な肌。髪と同色の長いまつげの下でうるむ、淡い碧の瞳。闇に溶ける紺色のマントで華奢な体を隠して、美女はすがるように、レジェンの腕のなかへと飛び込んできた。
パリスだ。
その姿を見るなり、三人は安堵し、また大いに驚いて別の不安を抱いた。小刻みに震える小さな肩。深夜の訪問。目立たない地味な装いに、連れもない。
なにがあったのか。まるで、なにかから逃げているかのように見受けられる。
察したのか、問おうとする前に、婦人はすばやく外を見渡し、だれもいないことを確認すると静かに扉を閉めて鍵をかけた。レジェンが支え、三人は弱々しく震える乙女を居間へと案内した。
必要なことのほか、だれもなにも言わなかった。みなが無言で、一斉に動いた。
パリスもまた、黙っていた。暗い部屋のなか、灯火に照らされても、乙女の顔色の悪いことはよくわかった。
見開いた目。色をなくした唇。
原因はわからない。が、よほど不安なのか、寄り添ったまま、彼女はレジェンの腕を放そうとしなかった。レジェンもまた応えるように、か弱い乙女を抱きしめる。
ランプの火がじりじりと燃える音が、やけに響いていた。やがて婦人が温かい茶を持ってくると、パリスは小さく会釈して、ゆっくりとカップを持ち上げた。が、その手は大きく震え、頼りない。レジェンが手を添えた。
――身長に大差はなくとも、やはり乙女の手は、彼のそれよりずっと小さかった。
一杯を飲みきったとき、パリスは大きく息をついた。
「パリス様、どうなされたのです?」
婦人が優しく問うた。声に、乙女ははっと顔を上げる。そして震える声で、ぽつりと言った。
「助けて、ください」
訴えるように――瞳は、レジェンを見つめていた。
「王子が、わたしを、迎えに来ます」
王子――ジェイファンが。
迎えに来る。なぜ? ‥‥いいや、一つしかない。
そうだ。彼女はガウリスの恋人である前に、ジェイファンの婚約者だ。
「今日、城から使いが来たのです。まもなく戦が終わると。そのとき、ロスダルニャ王は退位し、王子が即位なさると。そのために、わたしはまもなく、彼の元に嫁がなくてはならないのです」
いつかそうなることに、覚悟はできていた。それが彼女の定めだ。
だが、彼女は王子を裏切った。
「わたしはきっと、刑に処されるでしょう。王子を裏切った罪のために」
「そんな大げさな」
声を上げたのはチェリファリネだった。しかし、決してそうではないというように、ウォルドの母が首を横に振る。
彼女もまた、それを知っているのだろう。
「ああ、わたしは堪えるべきでした。彼の帰るまで、想いを心に秘めたままいればよかった。彼はきっと生きているというのに、彼の帰るのを、わたしは待つことができない」
乙女は気がふれたように嘆き、訴えた。レジェンはその背を撫で、必死になだめる。どうしてそんなことを思うのか――訊こうとして、パリスは告白した。
まるで、懺悔するかのように。
「わたしはもう、杯を持ってはいないのです。デライフの杯を。愛する人に、三年前に託したのです。きっと帰ることを信じて。けれどあのかたは戻ってこなかった!」
デライフの杯――そうか。
ラドリアナ教の乙女は愛する相手に杯を与え、それが愛の誓いとなる。すなわちパリスは、ジェイファンにデライフの杯を授けなければならない。しかし、それはもう、彼女の手元にない。
レジェンの兄、ガウリスが持っていたのだから。
「わがままだとはわかっています。もし彼が戻らないようなことがあれば、わたしは命を絶つつもりでした。けれど、あの人は生きている。ならばわたしも、あの人を待って、生きていたいのです。ああ、こんなことになるだなんて」
「落ち着いてください」
レジェンは優しく乙女を抱きしめた。
それならば、不安になることはない――すっかり返しそびれていたそれを、レジェンは思い出した。腰に下げた鞄を探り、杯を探す。
冷たい衝撃が背筋を貫く。
――まさか?
そんなはずはない。しかし現実に――デライフの杯は消えていた。