18
家へ帰りつくなりウォルドは簡単に食事を済ませ、すぐに再び馬に跨った。鎧を身につけ、剣を腰に下げてあぶみを踏む。三人の見送りに手を振って、しかしなにも告げず、寂しげにほほ笑んで駆け去っていった。
彼だけではない。レジェンもチェリファリネも、ウォルドの母もなにも言わなかった。彼なら戻る。戦いに行くのではないのだから、と言い聞かせども、不安が拭えない。
相手はあのマリアン率いるコモード軍だ。卑怯はしまい。そうため息をついて振り返ると、騎士の母は、辛そうにぽつりと言った。
「今度の会議は、本物だといいわ」
それきり口をつぐみ、家の中へと入っていく。レジェンたちはあとを追い、そのうしろ姿を見つめた。
今度の会議は、とはどういうことなのか。訊きたくとも、がっくりと落とした肩を見れば、どうにもためらわれる。彼女から話してくれればいいと、レジェンは待つことにした。
婦人が居間に誘うので、彼らは従い、椅子にかけた。婦人は奥から柔らかに香る湯気の立つ急須を持って現れて、二人の客人に、ハーブティーを振る舞った。
「昨夜のお城はさぞ、賑やかだったのでしょうね。顔が疲れているわ」
レジェンの顔を覗きこんでほほ笑む彼女に、レジェンは小さく首を振る。けれど足りない睡眠に、思考はぼんやりと歪んだ。不気味に冷えていく体に、温かい茶がありがたかった。
チェリファリネが心配そうに彼の髪を撫でる。婦人は笑って、レジェンの肩を支えて立たせると、寝室へと促した。小さな子どもみたいねと言う婦人に対し、悪意はないとわかってはいたけれど、レジェンは唇をとがらせた。
二階、一番右手の部屋。窓からは明るい日差しが差し込んでいたが、寝るには眩しすぎた。レジェンは婦人に礼を言うと、カーテンを掛け、寝台に横たわる。わずかなうちにさまざまな疑問が頭をよぎったが、答えを導き出すより早く、彼は眠りに落ちていった。
見た夢は、懐かしい兄の姿だった。
チェリファリネは馬の世話をしていた。昨夜が遅かったのは彼女も同じだが、彼に比べれば、ずっと早くに眠れていた。酒を飲まなかったことも大きかろう。レジェンもたいそうな酒豪とはいえ、昨夜は飲みすぎていた。
昨夜のことを思い出せば、彼女も不安を隠せない。
昼間は穏やかそうに見えたロスダルニャ王の、幼馴染を見つめる卑しい瞳。さんざん騒いだあとの、急に冷静になって始めた会議。まるで知らなかったというふうに父親を見つめていたジェイファン王子――憎むべき悪党。
違和。
「――わ」
不意に馬が暴れて、チェリファリネは小さく叫んだ。足元に置いていた桶を倒して、水をこぼす。慌てて直すも、土に跡だけを残して、水は消えていった。
ため息をつき、馬を睨みつける。知ってか知らずか、馬は申し訳なさそうに首を垂れた。チェリファリネは少し笑ってから、水を汲み直しに川へと向かった。
屋敷の裏、木々のあいだを抜け、小鳥のさえずりに包まれる流れのほとりに辿りつく。と、そこに、だれかがいることにチェリファリネは気づいた。
短い栗色の髪、細いけれど筋肉質の腕。見上げるほどの長身は、レジェンよりも高いけれど、肩の丸みは男性ではない。黒い胴衣に革の腰当を巻き、細いけれど豪奢な装飾の鞘を下げている。右手に握られた刀身は、日の光にきらきらと輝きながら、宙を右へ左へと鋭く切り裂く。
名はなんといったか。
「ロネウス王女さま?」
おそるおそる声を掛けると、乙女は振り返った。
まさしく、王女ロネウスだった。今朝初めて会った、このブリランテの王女。女性でありながら剣を携え、ウォルドに同行の許しを乞うた乙女だ。
なぜ、こんなところに。そう思う前に、王女はにこりとほほ笑んだ。
「あなた、島のかたね。兄上から聞いたわ、あのガウリスの弟とその恋人が、この国に来ていると」
「恋人だなんて!」
思わず大声で否定する。違うの、と首を傾げる王女に、チェリファリネは顔を紅潮させながら頷いた。
ただの幼馴染だ。
「なんだ、つまらないの」
ぷう、と唇をとがらせるさまは、無邪気で幼い。姿こそ大人びて身分に合わぬ装いをしているが、愛らしい人だと、チェリファリネは思った。
ここでなにをしていたのかと尋ねようとして、やめた。見ればわかる、彼女は剣の訓練をしていた。今朝、ウォルドにも訴えていた。
けれど相手も師もなしに、これは彼女の糧になるのだろうか。
「城じゃあ、父上や兄上の目があるからね」
訝しげに見つめるチェリファリネの視線に気づいてか、王女が言った。無礼に気づいて慌てて目を逸らすと、王女は屈託のない笑顔を見せる。
パリスのような、可憐な花のような美しさではない。けれどどこか粗野だけれど、輝かんばかりの笑みは、見ているだけで元気が出てくるようだ。チェリファリネもつられて、知らずほほ笑んでいた。
王女は腕で汗を拭うと、剣を鞘に収めた。それから息を整えるように深呼吸を繰り返すと、離れたところで休んでいた馬のほうへとチェリファリネを誘った。岩に腰かけ、馬に用意していた水瓶から、ほのかに香る飲み物を小さな乙女に勧める。
「ブドウ水よ、城から拝借してきたの」
「ありがとございます」
チェリファリネには杯に分け、自身は筒から直接口にする。見れば見るほど、男性的な、実に豪快な人だとチェリファリネは驚いた。
――この人は本当に、王女さまなのかしら?
ふしぎに思う。こんなに無邪気な人が、本当にあの国王や王子の血縁なのかと。悪意が、微塵にも感じられない。
いいや、ロスダルニャ王も最初はそうだった。人のよさそうな笑顔が、夜には少しだけ、嘘くささを臭わせた。
彼女はどうだろうか。
「あなたはどう思う?」
突然問われて、チェリファリネは目をぱちぱちさせた。どう、とは? と訊き返そうとして、王女は続けた。
「今回の会議――わたしはね、マリアン王子を――マリアン王を信用しているわ。敵ながら、彼は素晴らしい騎士だった」
「わたしもお会いしたことがあります。正義を貫く、素敵なかたでした」
本来なら敵将を称えるなど、ことに王族の前でありながら彼女のような身分のものが口にするなど、控えるべきことだったろう。たとえ相手が先に同じことを言ったにせよ。けれどチェリファリネは、妙な信頼を彼女に感じた。
王女は柔らかに笑んだ。組んだ膝の上に頬杖をつき、遠く蒼い空に視線を投げる。
それから――ふうと、寂しげに息をついた。
「今回こそ、本物だといいわ」