12
彼らは昼までを家で過ごした。ウォルドは鎧や楯の手入れをし、ここ数日の旅での汚れを拭った。またチェリファリネは、ウォルドの母親とともに、厩で三頭の馬の世話をした。
レジェンは一人、家を離れた。先ほどチェリファリネの呟いた言葉が、どうにも彼を悩ませていた。
兄は。ガウリスは、大陸に渡るべきではなかった。
本心からの言葉だろうか。いいや、疑いない。だとすれば、彼女はレジェンを恨んでいるだろう。彼さえ、兄を応援しなければ。
チェリファリネはこの三年、ずっとそう思っていたのだろうか。考えれば、彼女と一緒にいるのは辛かった。一人になりたかった。
とはいえ、町に出ればガウリスと間違えられる。またいらぬ騒動もあるかもしれない、避けたほうが賢明だろう。
だれもいないところを求め、気づけば川のほとりにいた。ウォルドの家の裏を流れる、大きな川だ。裏といっても小さな林を挟んでおり、なるほど、昨夜は気づかなかったわけだと思い返す。
死者の川だとウォルドは言っていたが、思うほどひどくはなかった。まだ朝だからだろうか。多少鼻を突くような異臭も混じるが、緑に囲まれ清らかな水が跳ね、静けさに鳥のさえずりが響くそこは、佇むだけで心を慰めてくれる。フェローチェの町を包む、無言を強いるような静けさとは違う、柔らかい静寂がここにはあった。
川岸にはたくさんの小舟がひっくり返っていて、造りは甘く、おそらく、乗ってもすぐに壊れてしまうだろう。いや、きっと、そのように造られているのだ、とレジェンは考えた。この舟は、この川さえ通り抜けることができればよいのだ。海に出たら壊れ、沈んでしまうがいい。なぜなら、この舟こそ、死者を乗せるものなのだから。
川下に目を運ぶ。下っていく川は森へと消え、流れを追うことはできないが、方角を見ればその先に、懐かしい島があることはなんとなくわかる。
舟の傍らに座り込み、背を預ける。小さく軋んで、壊れはしまいかと思ったが、それほど脆くもなかった。
口には出すまい。
目を閉じれば、あの日の兄を思い出す。いよいよ船に乗り、島を出ようとしたそのとき。兄は振り返り、たった一人の見送りに不安げに問うた。弟はしかし、否定して送り出した。
――兄さんならきっと、立派な鍛冶職人になれるよ。
父も母も、島中みんなが誇りに思えるような、そんな鍛冶職人になれる。兄ならなれる。そう、信じていた。実際、兄は裏切らなかった。そうだ、実際、ウォルドの剣を鍛えたのは兄だというじゃないか。その腕前はだれにも劣るまい。
悪かったのは一つ、運命だけだ。
運命が兄を翻弄した。兄に叶わぬ恋を抱かせ、権力を持つ男を悪人に変え、兄をさらわせた。
だれが悪いのでもない。まして、レジェンのせいでは決してない。けれど、それでも。
‥‥それでも。
たら、ればと考えればきりがないことはわかっている。あのとき、彼にはこの先の運命を知る由もなかったのだから。
魔女は言った。兄に会いたくば、ブリランテには立ち入るな、と。
忠告を裏切ったことが、彼らの運命を、どう変えていくのだろうか。
太陽が南の頂に達したとき、レジェンはウォルドの家へと戻った。ウォルドは正装しマントを羽織り、チェリファリネもすでに準備を終え、厩から二頭の馬を引いてきた。というのも、チェリファリネは手綱を扱えないため、今日もウォルドの馬に同乗することになった。
城に向かう道中で、彼らは葬列に出会った。三人は馬を降り、胸を二つ叩いて、死者への祈りを捧げた。本当なら隣国コモードにそびえるフィーネ双山で弔われるはずの遺体は、まっすぐ、あの川へと運ばれていく。先ほどレジェンが見た、あの小舟に乗せられるのだろう。
葬列が行き去ってから、レジェンが言った。
「さっき、川を見たよ。思ったよりきれいだった」
「島に出ていた軍が戻ってからだいぶ経ってるからな」
遠方での戦だ、戦死者は多かれど、そのつど船を出すわけにもいかない。遺体はまとめて故国へ送られ、一緒に弔われる。ゆえに、船が着いてから二、三日ほどは川を小舟がよく流れ、遺族がひっそりと川へと集まる。なかには悲しみのあまり、川へと身を投げる者もあるという。その心を救うすべは、ない。
「死者自体が減ったこともある。島民とも戦うようになって、怪我人は増えたがな。島の人々は――優しい」
ウォルドがやや口ごもったのを、レジェンは聞き逃さなかった。背けた顔を見れば、なんと言おうとしたか、聞かずともわかった。優しい。それも嘘ではないが、つまり、島人は大陸人と戦って命を奪えるほど、武力に優れてはいない。
いいや、しかし、否定はしまい。島民は大陸の民より身体能力が劣る。体格のせいもあるし、なにより、もとより争いを好まない民なれば、今でこそ自らの誇りのために武器を取ってはいるが、戦いでどうして、コモードやブリランテに敵うだろうか。
チェリファリネは黙っている。うつむいたまま、考えていることはおそらくレジェンと一緒だろう。
島の家族は、無事だろうか。
ウォルドが優しく、その柔らかい髪を撫でる。それ以降一向は口を閉ざしたまま、やがて城に辿りついた。
灰色の石を積んで築かれた荘厳な城は堅固な城壁に囲まれ、門の前では数人の兵が見張っていた。三人が馬を降りて丁寧に挨拶すると、一人の兵が先に奥へと駆けていき、しばらくしてからなかへと通された。
こんなに寂しい城は見たことがないと、レジェンとチェリファリネは思った。ほかのどの国で見た城よりも、この城は静かで人気がなく、行過ぎる騎士たちの顔にも生気が見られない。
彼らは見慣れぬ小さな客を見ると、うつろな目を鈍く光らせ、顔をしかめた。やはりレジェンをガウリスだと思ったのだろう、しかし、嫌悪をあらわに彼に視線を向けるには、理由がわからなかった。ジェイファンが兄を憎む気持ちはわかったが、ほかの騎士らも、兄の裏切りを知っているのだろうか。
それとなくウォルドに目配せする。が、彼もわからないらしく、小さく首を振るだけだった。
広い回廊は大きく開かれた窓から差し込む光で温かく照らされ、すれ違う召使いたちは恭しく彼らに礼をした。壁にはどこで見たろうか、覚えのある花の彫刻が施されている。やがて花の咲く美しい中庭に出ると、数人の騎士が居並び、三人はまた丁寧に挨拶をしてから、奥の大広間へと進んだ。
風のよく吹き込む、明るくも厳かな雰囲気の漂う広間だった。そこには、――察していたのだろう。神妙な面持ちで、ジェイファンが彼らを待っていた。