11
「正直、ガウリスがデライフの杯を持っていたことには驚いた」
一つ大きく息をついてから、ウォルドが言った。ウォルドの母親もすでに起床し、朝食の準備をしている。レジェンたち三人は話しながら居間へと移り、朝からの騒動に乾いたのどを、冷たい水で癒した。
「ハオン島での戦いが始まってからは、おれはあのときまでずっと島にいた。だからそれ以上、二人になにがあったかは詳しくは知らないんだ。ただ、あの事件こそ、二人のきっかけだった」
兄の身の上に起きた冒険に、レジェンは色を失う。まさか知らぬところでそのような危険を冒していたなど。いいや、もしか弱きものが救いを求めているならば、自分も助けたろう。レジェンは兄の勇気を誇らしく思った。
しかし、それがため、新たな危難を呼び込んだとなれば、やはり嘆かなくてはなるまい。恨むべきは悪しき従者か、あるいは美しすぎたパリスか。
チェリファリネも、目を見開いたままうつむき、小さく震えていた。ウォルドは静かに目を逸らし、明るく光る窓を見つめた。
「ところで、それをなぜ、おれが知ったかだ」
言葉にレジェンははっとする。そうだ、たしかに、これだけでは話が不十分だ。ウォルドがずっと島にいたことはレジェンたちもよく知っている。けれど、三年前に島の鍛冶場で杯を見つけたとき。杯に刻まれた文字を見たとき、彼は驚いてはいなかった。それよりもむしろ、憂いていたように思う。二人を結ぶ深い愛情を、けれど許されぬ、報われぬ運命を。
言いかけたものの、ウォルドは口ごもった。視線を左下へと逸らし、口に手を当てて思案する。眉間に寄せられたしわからは言葉を選んでいるさまが伺えた。
「王子は心の底から、パリス様を愛していらっしゃる。それこそ狂ってしまわれるほど――けれど、パリス様はそうではなかった」
先ほどのジェイファンの姿を、レジェンたちは思い浮かべる。パリスが想い人を探し彷徨う責をガウリスに求め、分別をなくし罵声を浴びせ、なるほど、彼は愛に狂っている。
「王子が島の軍に合流されたのは、戦が始まってから半年が過ぎたころだった。そのあともたびたびこちらと往復してはいたが、パリス様とはなかなか顔も合わせられない、と嘆いておられたよ。最初のうちこそ、笑ってね――王子は、パリス様もご自分を想っていると信じていたのだと思う」
けれど違った。パリスが愛したのはガウリスだった。そして愛が深まるごと、ジェイファンからは心が離れていく。婚約者でありながら会うたびにその契りの嘆きを強くする美女に、ジェイファンはついぞ、おのれの誤りに気づく。
「むろん、パリス様だってご自身の立場を十分に理解なさっていた。二人が愛し合っていたことは事実だが、互いに自制心を忘れはしなかった」
二人の名誉にかけて言っておくがね、と付け加えて。彼らは互いに相手を想えども、相手の愛を求めはしなかった。大陸に留まっていたダロンの弟子から聞いたことだが、彼らは異口同音に、二人を繋ぐ愛情の存在に驚いていた。というのも、ガウリスはほとんど一日中、ほかの弟子たちと剣を打っていたというし、パリスはときどき鍛冶場にも顔を出すようになっていたが、二人のあいだに会話はなく、二人きりになることもなかったからだ。そんな二人をだれが疑えたろう。
しかし、恋人に疑いを持ったジェイファンは、それをつきとめた。愛する美女の視線の先を辿れば、ああ、いつぞや食卓をともにしたことすらある、島の少年ではないか。恋人はなにも言わない、だがしかし、報われぬ想いにうつむく彼女のそのまなざしは、正直すぎた。
「島の軍に戻るたび、王子はおれにこう言ったよ。どうして最初にガウリスを島に追い返さなかったんだ、とね。でもそのときはおれはまだ、王子の勘違いだとしか思っていなかった。‥‥いいや、」
そう信じたかったのかもしれない。友人の過ちを、認めたくなかったのかもしれない。
しかし、ガウリスは杯を持っていた。
「驚いた。それからまずは王子を哀れに思った。次に、ガウリスが杯の意味を理解していないことを願った。最後に、二人の愛を確信したんだよ」
二人の、たった一つの過ち。永久の契りのその証をジェイファンではなくガウリスに与えたパリスと、受け取ったガウリス。
レジェンにはわからなかった。そもそも婚約という概念はハオン島にはないが、大陸を巡るうち、それが婚姻と同等に強い意味を持つものだと知った。本来なら、たしかにパリスの想いは、ジェイファンには裏切りになろう。
けれど、彼女はもとより、彼を愛してなどいなかった。
兄もパリスも、愛するほかになにも犯してはいなかった。
想うだけなら自由ではなかろうか。許されてよかったはずだ――なのにどうして、唯一にして最大の罪を犯してしまったのか。
考えたとて、わかるはずもない。ここにいるだれもが、これ以上の事実を知らないのだから。
「‥‥チェリファリネ?」
心配そうにウォルドが言って、レジェンは初めて気づいた。隣に腰かける彼女はいつからか顔を両手で覆い、震えながら、静かに泣いていた。
慌ててウォルドがその髪を撫で、慰める。しかしどう声を掛けたものかわからず、小さな頭を優しく抱くほかになかった。
――ああ。
知ってはいた。もう三年も前に、ガウリスが見知らぬ女性を愛していると、彼女は知っていた。いいや、それよりもっと前から、ガウリスがチェリファリネを妹のようにしか見ていなかったことも知っていた。大陸に彼が渡ってからは、きっともう叶うこともないのだろうと覚悟もした。
けれど、悔いる。
――ああ、なぜ、わたしはパリスではなかったのか。
悔いたとて仕方のないことだ。けれど、もしガウリスがあの美女ではなく、幼馴染を愛していたならば。王子に愛されたあの人ではなく、故郷でずっと想いを寄せ続けていた彼女を愛していたならば。
「やはり、ガウリスは大陸に渡るべきではなかったんだわ」
小さく、チェリファリネは呟いた。
「ガウリスはやはり、島に残るべきだった」
レジェンの胸に、言葉が鋭く突き刺さる。幼馴染の恨むような視線が、自分に向けられているような気がした。
兄が鍛冶屋になると言って島を出たのは、もう八年も前になる。あのとき両親は反対し、チェリファリネも泣いて思いとどまるように説得した。センプリーチェのだれもが、彼の夢に反対した。
ただ一人、弟、レジェンを除いて。
チェリファリネはすぐに落ち着きを取り戻した。とうにわかりきっていたことだ、ただ、知れば知るほどに悪党が憎らしく思えた。辛いのは、悪党がこの優しい騎士には忠誠を誓う主人であるがため、いつか彼を裏切ることになるだろうこと。いつか彼にも、真実を知らせねばならないこと。
そして不安にも思う。
――そのときも彼は、わたしたちを信じてくれるだろうか。