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 悪党はしばし、愛する乙女を見つめた。それからおのが足元に横たわる少年にもはや力がないと認めると、振り上げた剣をゆっくりと下ろし、立ち上がった。

「ああ、美しい人よ。その剣を下ろすがいい。おれは彼を自由にした」

 妙に甲高い、下品な声だった。まのびした口調に余裕を見せつけられ、ガウリスは唇を噛む。

 こんな悪党に屈するなど。

 従者がパリスに歩み寄る。ガウリスは痛みを堪え、ゆっくりと体を乙女のほうへと向けた。そして見る。彼女は、まだ短剣をのどから離してはいなかった。

「約束を違えるおつもりか、しかし考えてもごらんなさい。今やあなたの命も彼の命も、おれには思うがままだ」

 苛立ちを隠しもせずに言って、男は乙女の頬に手を伸ばす。パリスの体が強ばって、大きく震えるのが見て取れた。それが気に食わなかったのか。従者は彼女の握る短剣を力任せに払い、強引にあごを引き寄せた。

「なぜ恐れる、あなたはもう、おれのものだ」

「いいえ、あなたもよくご存知のはずです」

 乙女には誓った相手がいる。それはここにはいない、この悪党より横たわる少年より、ずっと身分高き男だ。彼にはなんという恥辱だろう。

 言葉に悪党は躊躇する。乙女を傷つけた彼の罪はすなわち、王家への反逆をも意味していた。むろん、一人の尊い命を奪わんとしたことはなにより重い罪ではあるけれど、愚かな悪党の憂慮にそれは含まれなかった。いいや、そもそも、何人も罰を恐れては罪を犯すまい。また、罰の大小で罪を選ぶのは真実愚かで、だからこそこの悪党は愚かだといえる。

 しかし、男に現実を思い出させたことは、かえって都合が悪かった。悪党は急に焦りを覚え、か細い乙女の首元に手を掛ける。嫌悪に抵抗するパリスの腕を押さえつけて強引に唇を寄せ、なおも逃げようとする彼女の頭を力いっぱいに殴りつけた。

 先の傷からもまだ血が滴っている。パリスは必死にかばったが、意識も朦朧としてきていた。

 気が遠くなる。

 仰向けに横たわり、悪党の不愉快な体温と息遣いを身近に感じながら、パリスは周囲を見やった。ああ、すぐそこに、先ほどまで握っていたはずの短剣が見える。幸か不幸か、手を伸ばせば取ることができた。

 乙女の麗しい肌に夢中になって、悪党は気づいていない。パリスは力を振り絞り、男の背中で剣を構えた。両の手で支えれば、震えながらもなんとか支えることも叶う。

「ああ、ラドリアナの神よ、デライフの女神よ」

 呟きが果たしてどれほど響いたのか、彼女には計れなかった。この屈辱に男を殺めたとて、神は乙女を許そうか。女神は彼女を許そうか。いいや、ほかのだれが許そうと、愛する父は、今は亡き、優しい母は。名誉を守らんとするならば、いっそ自らの命を絶つがいい。

 パリスは再び、そののど元に切っ先を当てる。涙で曇る視界には、悪党の影が忙しなく揺れていた。

 離別の言葉を、心中で唱える。

 と、突然、振り上げた手を掴まれた。悪党が気づいたか、パリスはより力をこめたが、短剣は動かない。すぐ次には、足の上に重たいものが落ちてきたのを感じた。温かいそれは弱々しくもがきながらも、やがて動きを止めた。温もりは次第に広がっていき、冷たささえ感じられた。

 地鳴りのように低いうめき声と、鼻を突く独特の臭い。それとは別に、すぐ真上で、荒々しく呼吸と、柔らかく包む体温を感じた。

 おそるおそる目を開ける。彼を見て取ると、乙女は手にこめた力を緩めた。

「いけません、お嬢様。この剣は、わたしが罪なき人を守るがために鍛えた剣です」

 息を切らせながら、ガウリスが言った。見やれば、足元で横たわるのが悪党だということがわかる。罪深い男はその背に針のように細い、けれど鋭い剣を突き立てられ、すでにこと切れていた。

 言いながら、ガウリスは彼女の手から短剣を奪い、わきに置く。彼とて肩の傷口は易しいものではない、心臓の鼓動にあわせて拍子打つ赤が、先ほど彼が倒れたところから点々と床にあとを残している。

「もしこの剣であなたの命が絶たれたなら、わたしはもう師に、あなたのお父上に顔を合わせることも叶いますまい」

 言いきって、彼は乙女の傍らに倒れた。定まらない視点は失われかけた意識の表れであり、それでもなお保とうと耐える心の表れでもある。

 パリスは少年を見やった。起き上がろうとして、余力はない。ただ静かに頷くと、彼は安堵したのか、少しだけほほ笑んで目を閉じた。

 ああ、なんということだろう。

 この、異国の少年は、なんと強い心の持ち主であろうか。騎士でもなく、彼女と同じ歳でありながら彼女と変わらぬ背の丈。まもなく成人でありながら子どもと変わらぬ体格で、しかし屈せずに悪党と戦った。

 思えば、彼は初めから屈さぬ人だった。おのれの信念がもと、常にまっすぐに尽くしてきた。常に真実を、常に正しきを、常に心を尽くしてきた。

 父はいつも言っている。刃には、打ち手の心が映ると。

 わきに置かれた短剣を見やり、それからそっと自らののど元をさする。この鋭い剣は、力さえこめれば、きっとためらいもなく肉を突き抜けたろう。

 ああ、なんという人だろう。そして、ああ、なんということだろう。

 べったりと不吉に汚れた黒髪の下、唇にもう色はなかった。今にも絶えそうな呼吸、触れても温もりの感ぜられない頬。そのくせ、床にじわじわと広がりゆく池は、あまりにも温かい。

 そっとその顔を抱く。彼女の瞳もまた、もう閉じようとしていた。

 意識は遠くへと駆け去っていく。そのために、だれが戸を叩こうとも、だれが哀れな二人を助けようとも、彼女の目に留まることはなかった。

 ただ覚えていたのは、小さな勇者の存在のみで。


 事件は一夜のうちに、街中は愚か、王城にも広がった。それというのも、パリスが王子ジェイファンの婚約者だったためだ。

 ガウリスの活躍を国中のだれもが称えた。ウォルドの家で休養に努めているあいだは見舞うものも多かったし、そのあといくらか経ってからは王家も彼を城へ招いた。もちろん、彼の師であり、パリスの父親でもあるダロンには、相当なもてなしを受けた。ダロンは従者の裏切りに大きな衝撃を受けてはいたが、あわや失いかけた娘を助けた少年への感謝は計り知れない。

 それでもガウリスは決して驕ることはなく、傷が癒えてからはまた鍛冶場へと戻り、熱心に仕事をした。忘れてはなるまい、彼は騎士ではなく、今だ見習いの鍛冶職人だ。

 当然のこと。きっとそう思っていたに違いない。か弱き乙女を救うのは、騎士でなくとも、紳士ならば当然の義務。

 けれどそれを果たせる者が、いったいどれほどいるだろうか。


 事件からさらに半年ほど経ったとき、ついにハオン島戦争は始まった。

 鍛冶場はにわかに忙しさを増す。師であるダロンはもちろん、その腕を期待されるガウリスも、休みなく槌を振るい続けた。ウォルドも当時は戦線に出ていて家を留守にする日々が続いていたが、ガウリスも忙しさからか滅多に帰らなくなったと、ウォルドの母は記憶している。

 ウォルドはこのころに、なにがあったのかはよく知らない。ただ、ガウリスとパリスがその心を互いに寄せ始めたのは、疑いなくこのころだった。

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