クゥーエルの異変
真っ暗闇の穴を落下すること、体感的におよそ五分。
五分と言ってもクゥ―エルの落下スピードは相当なもので、下手をすれば空中で分離しかねないほどだった。
天パも抜け落ちるのではというほどの空気抵抗の中、振り落とされまいと必死に手綱を握りしめていたおかげか、ようやく穴の終わりが見えてくる。
小さな点だった光は近づくにつれて徐々に穴を広げ、少しもしない内に竜は
輝きの中へ飛び込む。
瞬間的に白光が視界を覆いつくし、そのあまりの眩しさに咄嗟に瞼を閉じた。
空気の変化が鼻腔と肌で感じられ、薄っすらと、少しずつ、恐る恐る目を開けてみる。目に映る光景に、思わず目を瞠った。
ところどころに広がる大きな森、広大な海、大陸と呼べるような大きさの大地。そこまではいい。だが、わしが驚愕したのはそれらではない。
「……これは、どうなっとるんだ? 地下世界ではないのか……?」
下の世界へやってきての第一声は、そんな驚きの声だ。
地上から地下へやってきたはずなのに、ここにはなぜか燦燦と輝く太陽がある。
「たしかに不思議だな。地底だからてっきり暗いのかと思ってたら上と変わらねえとか」
「それぞれの世界に太陽が一つずつあるのかしら。それともあれは同じ太陽?」
「こればかりは考えても分からないよ。また女神さまと話せる時にでも聞いてみないことには」
クロエの言うことは最もだ。なにせわしらにはまだ情報がほとんどない。壊滅した町があるということくらいで、この世界の現状や女神の場所、魔王の居所などなど。知らねばならんことが山ほどあるからな。
下の世界に来たらば女神との交信も増えるだろうか、早く話しかけてくれんかなあ。などと考えていたところ、「――ちょっと待って」と楓が危惧を孕んだような心細そうな声を上げた。
「どうしたのだ楓?」
「オジサン、なんかクゥちゃんの様子が変だよっ」
わしは弾かれるようにクゥーエルを注視する。
羽ばたきも弱く、まるで疲れたようにうな垂れながら、へろへろと頼りなげに降下する竜を認めた。
「ど、どうしたのだクゥちゃんよ?」
『クゥ……』
問うてもそんな切なげな鳴き声を返すだけで、咆哮を上げるようなことはない。
皆の不安を乗せたままクゥーエルは地上に降り立つと――ズズンと倒れるようにして草原に腹ばいになった。
上の世界では元気だったのに、下に来た途端に力が抜けてしまったようだ。
「おいおい、クゥーエルはどうしちまったんだ?」
「分からないわ。元気がないように見えるけど」
「なんだか辛そうだね。大丈夫、クゥちゃん?」
「オジサン、なんとかしてよっ」
「なんとかと言われてもなぁ……」
わしはドラゴンのお医者さんではないのだ。どうにかしたいのは山々だが、どうにもならんだろう。
女子たちが不安そうに駆け寄り首や鼻筋などを撫で労わっている。わしもそうすべきかを悩んでいると、『――聞こえますか』と微かな声が脳内に響いた。
『勇者よ、聞こえますか?』
「その声は女神! 大丈夫だ聞こえておるぞ」
声を上げたわしに一斉に振り返る女子たち。
女神との交信を邪魔しないよう、互いに沈黙するようなジェスチャーをする。わしを見るその眼差しは期待に満ちていた。悪い気分ではない。
と今はそんなことより、クゥーエルのことだ。
「女神よ、一体クゥちゃんはどうしたというのだ? 急に元気がなくなったように見えるが」
『クゥちゃんの元気がなくなったのは、聖竜の神殿が魔物に荒らされてしまったからです』
「神殿? この世界にもあるのか?」
『ええ。上の世界と同じものが存在します。転移装置でもある神殿はクゥーエルの聖気を保つのに必要不可欠。それが機能しないということは、聖竜は力を発揮できないということに他なりません』
「転移装置……なるほどな」
上の世界で七つのオーブを嵌めたことで起動し、こっちの世界にいたクゥーエルが魔方陣から魔法陣へと移動したということか。
とすると、その神殿を起動させない限りわしらは上の世界に戻れんということになるのか? まあいま考えても仕方のないことだが。
「それで、その神殿はどこにあるのだ?」
『アルドベルガ最南東にある、絶海の孤島ドラゴニル。そこに隠された神竜の首飾りを手に入れてクゥちゃんに――るので――』
「ん? 女神よ、よく聞こえんぞ?」
『残念――ら時間が――――ぎなさい――勇者よ――――ません』
「女神? 女神よ! ……残念ながら交信が途絶えたようだ」
……試しにいつものアレをやってみるか。
返事がない、ただの屍のようだ。
…………やはり反応はないな。
小首を傾げ耳を澄ますが声は聞こえてこない。と、代わりに聞こえてきたのは複数の足音だった。
「おっさん、もう交信はもう終わったのか?」
「うむ。だがクゥちゃんを助ける術はあるようだから安心するのだ」
大事ないことを伝えると、女子たちからほっと安堵の息がもれた。
クゥーエルもいまや立派なパーティーの一員、仲間だからな。その気持ちは十二分に解る。
「それでその術とはなんです?」
「この世界にも聖竜の神殿があるらしく、場所は最南東の孤島だそうなのだが。そこでなにやら首飾りを探してクゥちゃんにかけるのだそうだ」
「ということは、また船がいるんだね」
「そうなるな」
手配に頭を悩ませるソフィアとクロエ。それはそうだろう。この世界に海賊船長ヴァネッサはいない。連れて来ようにもクゥーエルがこの状態では無理だし、まだ町や村を見つけていないためグリフォンの尾毛が使えるかどうかも分からんのだ。
「ねぇオジサン、クゥちゃんここに置いてかなきゃいけないってこと?」
「うむ、辛いだろうがそうするしかないだろう」
寂しげに眉をひそめてクゥーエルを見つめる楓を見ていたら、わしまで悲しくなってくる。
しかしこのままでは何も身動きが取れんだろう。わしらには世界を救うという使命があるのだ。
冷たいようだが、ここは心を鬼にして先へ進むほかない。
「クゥちゃん、ここにいて大丈夫かなー」
「楓ちゃん、きっと大丈夫だよ。クゥちゃんの神聖な気はそれほど衰えてないし、たぶんここへ来る際に魔物がそんなに強くない所を選んでるはずだから」
楓を励ますクロエの言葉を聞いて、わしもなんとなくそんな気がした。
大穴を抜けた時、へろへろになりながらもなんとかここへ降りたかったように思えたからだ。
わしはそんな頑張りを称え労うために、クゥーエルの元へ行き頬を撫でた。
全身を覆う美しい白鱗は、逆撫でしなければ滑らかな手触りで心地よい。しばらく触れられんことに寂しさも覚える。だがわしはそんな思いを押し込めて、静かに口を開いた。
「クゥちゃんよ、わしらは先を行かねばならん。だが、必ず戻ってくる。神竜の首飾りを手に入れてきっと帰ってくるから、それまで辛抱して待っていてくれるか?」
真剣な目を向けると、力強い眼差しが返ってきた。
辛いだろうに首をもたげ、『クゥ』と鳴き、小さくだがはっきりと頷いたのだ。
同時、クゥーエルの体を光のヴェールが覆った。恐らく魔物除けの結界のようなものだろう。近くに散乱する大きな骨が気にはなるが……。これならしばらくは大丈夫なはずだ。しかしのんびりなどしていられん。
踵を返し、女子たちに振り返る。
すると各々から、クゥーエルに負けず劣らずの勇気ある目を向けられた。
そうだなと心の中で呟いて、一人納得し頷く。
「そういうわけだ。皆、先を急ぐぞ!」
「ああ! ちんたらしてられねえからな」
「そうね。とりあえず目先の目標は船を入手することよ」
「でも、時々でいいからここに戻って来られるといいよね。心配だし。近くに町や村があればいいんだけど」
「それなら大丈夫。ここに降りる時にアタシ見つけといたよ。小さな村だけど近くにあるみたいだから、急ご!」
「グリフォンの尾毛が使えることを願うか……。では行くぞ!」
そしてわしらは後ろ髪引かれる思いでクゥーエルの元を離れ、楓が見つけたという村を目指してアルドベルガの大地を行く。
大魔王がのさばっているとは思えないほど、自然の景色は上の世界とあまり変わらない。もっと退廃的で荒涼とした世界を想像したのだが……、この辺りは比較的平和なのだろうか。
のどかな原っぱを歩き続けることおよそ十分。
魔物に出くわすことなく、作物が一切見当たらない広大な田畑に囲まれた村へ到着した。
低い木柵、土色のレンガ造りの平屋建て。歩く人々はちゃんとした衣服をまとってはいるが、どこか痩せているように見える。
みすぼらしいというほどではないが、寂れた寒村模様を呈していた。
とりあえず情報収集だと考え、その辺りにいた青年に声をかけてみる。
「すまんがちょいと話を聞きたいのだが、」
「あんたらにやるほどの食いもんはもう残ってねえよ」
「いや、わしらは無心しに来たわけではなくてだな。というか、食糧難なのか?」
「見れば分かるだろ。まともに食ってるように見えるか? 倉庫の備蓄も底を尽きかけてる、餓死するのも時間の問題だ」
本当に死を覚悟しているようには見えんな。どちらかというと諦観に思える。
村を見渡してみると、わしらを恨めしそうな目で見る者などもいて、少しだけ居心地が悪くなった。
目を合わせることも気まずく、それとなく視線を逸らすと、脇からぬっとライアが進み出た。
「ちょっといいか? 村の外にはあれだけ広い田畑があるのに、一切作物が育ってないのはどういうわけだ?」
「水がなけりゃ野菜は育たないだろ」
「水源から水を引いてはこないわけ? 雨乞いでは意味がないのよ?」
ソフィアの少し呆れるような口調に、力なく首を振った青年。
ため息をこぼし、在りし日を懐かしむような目をして田畑を眺める。
「水は引いているさ、ちゃんと川からな。でもその水路の元を栓みたいに塞いでる魔物がいるんだから仕方ないだろ。俺たちにはどうすることも出来ない。あんな硬いやつどうしろっていうんだ」
「その魔物ってそんなに硬いの?」
「カッチカチだ。剣も槍も石つぶても利かない。松明投げても水鉄砲で消される。手の打ちようがないんだ」
またあの鉄巨人かな? といったクロエの呟きに、ふと魔王城の庭園を思い出す。あの時は黒いスライムにやっつけてもらったが、ここにはいない。
魔王を倒したことでそれなりに強くなりはしたが、あれは聖クラスでなんとかなるような相手だという。いまのわしらでは力不足だ。
しかし青年の話を聞く限り、水鉄砲を使うらしいし。鉄巨人ではない可能性の方が高そうだが……。
「んでさ、その魔物って結局なんなわけ?」
痺れを切らしたように楓が正体を尋ねる。
青年はグッと息をのむと、「巨大な亀だ……」と忌々しそうに告げた。
「巨大な亀とな? わしもけっこう大きな亀を飼っているがなぁ。それよりもカッチカチなのか……」
「「「「……………………」」」」
ん? なぜか女子たちが揃いも揃って口を閉じている。
わしを見る目が重たげに半分ほど下がっている様子を慮るに、これは分かっていないのだな。
「あ、亀というのは要するに、いわゆるマイサンのことなのだがな」
「思い出したように要約するんじゃねえよ、あえて突っ込まなかったこっちの空気を察しろよ馬鹿」
隣に立つライアから少し嫌そうな顔をされる。ほんのり頬を染めているところがなんとも愛らしい。おちょくりたい気持ちにさせるが、ここはググっと堪えよう。
いまはそのような時と場合ではないのだ。
しかしさっそく困り人を見つけたな。倉庫の備蓄も残りわずかだと言うし、急ぎの旅とはいえ、これを捨て置くわけにはいかんだろう。
「よし、ではその巨大亀とやらはわしらに任せるのだ」
「あんたらが……? そういえば冒険者みたいな形をしているな。でも観葉植物みたいな頭したあんたに出来るのか?」
「わしの天パはどうでもいいだろうに! とにかく、わしらは勇者一行だ。魔物退治なら任せておけ」
「勇者? あの伝説の? 信じられないな……本当にこんなのが勇者なのか? 夢見がちのオヤジの勘違いとかじゃ……」
青年はぶつぶつと失礼極まる独り言をつぶやいている。
なんというか、興が削がれるというかやる気をなくすというか。わし勇者なのに、行くところ行くところでこんな感想ばかり抱かれてしまう。
そりゃあわしだって想像の中ではかっちょいい男を思い描いていたさ。幼い頃はな。そんな憧れの存在に成れていることは、わしにだって信じられんことなのだ。
でもわし勇者だし、証も持っているし、女神にも認められた立派な勇者なのだ。上の世界ではエリモ、じゃないエルムとかいう魔王も倒した。歴とした勇者なのだぞ? それなのに……
「あーあ、おっさん年甲斐もなく拗ねちまってんじゃねえか。下の世界に来た早々これかよ、いつものことだろ? 元気出せ」
「かなりへこんでいるわね……。勇者様、シャンとしてください。そんなことでどうするんです?」
ライアとソフィアの激励も右から入って右から出ていく。まるで呼吸だな。
わしだって慣れてきた気もしないでもないが、やはり少しは傷つくのだ。
「勇者さん、下の世界ではまだ名声が届いてないから、みんなから評価されないだけだよ。上の世界みたいに頑張ればきっと、みんなも認めてくれるよ。だから魔物倒しに行こう?」
優しいクロエの声音に耳が癒される。絆されそうになるが、わしのやる気はまだ決起するに至らない。
とそんな時、
「オジサン、頑張ったらパンツ見せたげるからさー元気出しなって」
ピキーンと時が張り詰めるような耳鳴りがした。
咄嗟に振り返ると、「あ、しまった」と小さく楓がもらす。
わしは準備万端とばかりにスクワットなどしてみせた。伊達に勇者はしておらん、足腰ならまだまだ元気!
「わし、聞いたぞ? おパンツ見せてくれるのだろう? 今か? それは今なのか楓ッ」
「えっ? いや、頑張ったらっていうか、あいや、やっぱオジサンの空耳じゃない?」
「そんなわけはない! こう見えても耳はいい方なのだ」
「そ、そうなの?」
問われ、首が落っこちるのではというほど全力で頷く。
すると楓は観念したように肩を落としてため息をついた。
「はぁー。まあ考えといてあげるけどさー、それは頑張ったらだかんね!」
「おおっ!」
しかし、なんだかやけくそ気味に言葉を放り投げられた気がするな。提案したのは楓だというのに。
まあ時々盗み見たりしているからいいと言えばいいのだが。……それをわざわざ伝えるのもなんだな。たまのご褒美くらいもらえてもいいだろう。
「さて、というわけだ青年よ。わしらが魔物退治を引き受ける。だから安心して待っているがいいぞ」
「さてじゃねえよ、いきなり元気になりやがって。現金なやつだな」
「まあ勇者がいないと始まらないんだから結果オーライよ」
「こんなところで足踏みしてるわけにもいかないしね」
「あーこんなことなら見せパン買っとくんだったなー」
「ブルマならあげるけど?」
横合いからさっとソフィアが差し出したものを見咎めて、わしは思わず声を上げる。
「いかん! それはわしがプレゼントしたものだろう」
「こんな防御力皆無な衣装持っていたところで無駄なのですけど」
「いつか必要になる日がくるだろうから、ちゃんと持っているのだっ!」
力いっぱい注意をすると、ソフィアは渋々道具袋へブルマをしまった。
それを見ていた楓が、もったいなさそうな顔をしてからがっくりとうな垂れる。
だから時々パンツを見ているのだというのに。
ふと視線を感じたので振り返ると、青年が品定めでもするような目をしてわしを見ていた。気づけば青年だけでなく、村人があちらこちらでわしらを眺めている。
「信じられないが、いまはあんたらに頼むしかないようだ。どうかこの村を救ってくれ、頼む」
言って頭を下げる青年に倣って、村人たちが次々に頭を垂れた。
この青年、まさか。
「お前さん、もしかしてその歳で村長なのか?」
「いや、村長の孫だ。先月病で亡くなった祖父を継いだばかりだから、まだまだ見習いだけどな」
「そうか、大変だろうがいましばらくの辛抱だ。きっとなんとかしてみせよう」
「ああ、信じて待っていることにするよ」
手を差し伸べてきた青年の手を握り返し、任せておけと首肯する。
そうしてダムネシア地方の地図を受け取り、村人に見送られながらわしらは村を後にしたのだ。




