砂嵐の結界
ディーナ神殿をあとにしたわしらは、荒れた大地を抜けて砂漠に入った。
見渡す限りの広大な砂地、そして局所的な砂嵐の向こう側には城らしき影が遠望できる。
正確な距離など測りようがないが、距離的にはまだ先のようだ。
「しっかし、勇者になる前に死ななくて本当によかったな、おっさん」
ライアがニッカリと笑いながら肩を叩いて言った。
「まあ確かに。ここまでの間に死んでいたら、わし死んだままということだろう?」
勇者でなければ復活はさせられない。大神官の説明にもあったしな。
その場合、勇者の任に新たに就く者が出てくるのは必定。あのパン屋のもやしに戻るのか、それとも新しく選定されるのかは知らんが。そうなれば、この娘御たちとの旅をそやつが代わることになるだろう。
それだけは断じて許せん! 断じてっ!
いつも手の届くところに乳も尻もあるこの幸せを代わることなど、出来ようはずもない。そんなことになったら死んでも死にきれんよ。
「死にかけたことは何度かありますけど」
ライア、ソフィア……と順繰り見つめていると、ソフィアからそんな言葉がこぼれた。「悪運だけは強運みたいですわ」と、どこか呆れたように続く。
「ウサギに脛を蹴られたり、怪魚を倒すためとはいえ餌に使われたりと、なかなかない経験をしたのはいい思い出だ」
他人から見た良し悪しなど分からんが、そう、思い出だ。これからはそうはならん。わし、勇者になったのだし。
ディーナ神殿を出る時はどこも変わっていないように思えたのだが、こうして歩いてみるとなかなかどうして。体が少し軽くなっている気がするのだ。
まあ、気分的な要素も大いにあるだろうがな。
そこで、ふと――
「ところで、わしは勇者になったことで死んでも蘇生してもらえるようだが、お前さんたちはどうなのだ?」
「あたしたちか? どうなんだろうな。気にしたこともない」
「普通に考えたら死んだらそれっきりでしょうけど、どうなんでしょう……」
二人してうーんと頭を悩ます。悩んでいる顔も実に愛い。これもまた目の保養だな。
うんうんと頷きながらその様子を眺めていると、さらさらとメモに筆記する音が聞こえてきた。
しばらくし、クロエがこちらへ示したメモ用紙にはこう書かれている。
『勇者のパーティーは特例として蘇生が認められてるから、大丈夫だよ』
「そうなのか? そいつはありがたいな」
「死ぬ気はないけれど、一先ずは安心ね」
二人は安堵したように息をつく。
それを聞いてわしも安心した。が、安心だけではいけない。わしはパーティーのリーダーで、勇者だ。それ以前に男である。男は女を護るものだ。命を賭してでも女子を護る! 傷つくのは見たくないからな。
皆を死なすような真似はしない、わしはそう心の中で誓ったのだ。
それからしばらく歩き、ドームのように一帯を覆う嵐の外縁付近までやってきた。
道中、まるで魔物と出くわさなかったことに一抹の不安が過ぎる。これが嵐の前の静けさというやつか、と。
勇者となった自分の実力がどの程度なのか知れないことは少し歯がゆいが、いまはそれどころではない。
砂塵を巻き込む荒れた風は強風どころではなく暴風で、風自体が質量を持っているような堅固な結界となっていた。
その範囲は驚愕すべきもので、たぶんぐるりと歩くと十分以上はかかりそうだ。
試しに近場に落ちていた魔物の骨を拾って投げてみる。
放物線を描いて飛んで行った骨は、風にぶつかった途端に木っ端微塵となり塵と消えた。
「っ!? 骨が遺灰になったぞ。これでは近づけんではないか」
「どうする?」
「なにか結界を解除出来る方法があるかもしれませんけど」
「おっさん、勇者なんだからなにかあるんじゃないのか?」
「そう言われてもな」
つい昨日勇者に転職したばかりで、なにも実感ない状態でここまで来たのに。
ふはは! わしに任せい! なんて大口叩いて堂々と前に出られればいいのだが。さっきのアレを見る限り、わしにどうにか出来るようなシロモノじゃない
ことはなんとなく分かるぞ。わしもそこまで馬鹿じゃないからな。
捨て身の突貫などしようものなら、灰でなくミンチになってしまうだろう。ミンチになってもちゃんと復活出来るのだろうか……? という不安を抱かざるを得ない。
昔読んだ絵本になにか似たような話はないかと脳内を探ってみるも、そう簡単に見つかりそうにはなかった。
ここでこうして手をこまねいている間にも、エルフの女王の力は衰えていく一方だろう。なんとかしなければ……。
焦ってはみるも成す術がないことに愕然と立ち尽くしていると、不意に肩を叩かれた。
振り向くと、口端をわずかに上げて得意げな顔をしたクロエが。
「どうしたのだ? なにか案が思いついたのか?」
訊ねると、すかさず掲げられたメモ。『案ってほどじゃないけど、力には力をぶつけて相殺すればいいと思って。試してみたい魔法もあるし、緑のない今だからこそ出来ることだから』
「つまりお前さんが魔法で結界を破ると、そういうことか」
一つ頷き、結界から離れていくクロエ。
わしらはその後に付いて歩く。結界から離れることおよそ五〇メートル。
『わたしの後ろにいてね。前に出たらたぶん死ぬから』と言われたので、わしは震えながらその腰にひしとしがみ付いた。
ふわりと立ち上った、ほのかに香る白桃のような甘い香りが脳髄を刺激する。頬に当たる尻の感触がなんとも蠱惑的だ。
頬ずりしてみたり? 逆の頬も試してみたり! 鼻先をぐりぐりと、ローブ越しの尻肉に押し込んでみたり?
いや、いやいや! これは中々になかなかな……
興奮しすぎて白桃の香りが濃密になってくる。いかん、頭がだんだんとクラクラしてきた。しかしどうにもやめられそうにない止められない!
ハァ……ハァと、荒い吐息が熱いと自分でも感じたその時――
「なにしてんだ変態。時間の無駄だろ、さっさと離れろ、ったく」
「いてっ」
ライアの刀の鞘が首の付け根の窪みを突いてきた。
ふと我に返って見上げてみると、クロエは羞恥を耐えるように顔を背け、耳まで赤く染めながらぷるぷると震えていた。おっぱいがじゃない、体がだ。
まるで怒りの前兆のような……そう直感したわしはすぐさま体を離して立ち上がる。
「いや、うはは! これはいかん。わしとしたことが、「後ろにいろ」と言う言葉を取り違えていたようだぞ」
「どさくさに紛れてやりたいことをしただけだろ」
「時間がないことを忘れないでくださいね」
二人の蔑むような眼差しが痛いが、いつものことだから気にしない。
それに時間がないのだ、危うく忘れるところだったぞ!
それもこれもクロエの魅力のせいだと思い至ったところで、クロエに目を向けると――楚々とした様子で乱れた衣服を整え、小さく息をついていた。
こうして見ると、女子によってずいぶんと反応が違うのだと改めて思う。
ライアは激しい、ソフィアは冷たい。クロエは控えめな感じか? ヴァネッサは奔放といったところだな。
「実に面白い!」
目を輝かせながら口にし、そういえばと思い出す。クロエは家出したとはいえ、王女だった。
一国の王女に堂々と抱きつける。これも勇者特権なのかもしれんな。だから勇者はやめられんのだ!
そういえば、直接的にクロエにセクハラを働くのは初めてかもしれんな。
いい記念だ、忘れまい。
「さ、クロエよ。お前さんの試したい魔法とやらで結界を吹き飛ばすのだ!」
「なんなら前に出てもいいんだぜ?」
「そうね。死んでも生き返らせられるんだし」
二人の不穏な言葉に股座が冷える。チンチンが萎れてしまったぞ。
わしはクロエから大きく離れ、梃子でも動かないと黙って正座し事の行く末を見守る。
そうしてればいいんだと言うように訳知り顔で頷く二人。
呆れたのか安心したのか、クロエはほっと一息ついて結界へ向き直った。
その表情は真剣味を帯び、愛らしいというより綺麗、美しいなと思った。
おもむろに右手を前方へ伸ばすと、その先で大きな魔法陣が展開された。それは緑色をし、言葉は発せられていないがぶつぶつと詠唱するクロエに呼応するように輝きが増していく。
やがてクロエを取り巻くように風が巻き上がり、わしにも感じられるほど魔力が充実し膨張した。
たなびくマント。スカートが閃き純白のおパンツが見えた! 正座していてよかったとニマニマしながら眺めていたら。
詠唱を終えたらしいクロエが前方の結界を睨み付け、一気に魔力を解放した。
砂塵を巻き込みながらぶわっと瞬間的に発生した巨大な竜巻は、見る間に幅を広げながら勢力を拡大していく。
それでも結界に比べたらまだ小さい。これで本当に大丈夫かと思った矢先――
結界に衝突した竜巻はまるで侵食するように、固い風の障壁を切り刻みながら裂傷を広げていく。
結界の魔力を遥かに超える魔力の奔流。相殺というか、これはもはや蹂躙だ。
「これはヴェイルスェード……風の高位魔法ね。でもこの威力は……」
「やっぱただの魔法使いじゃないな、頭抜けてる。ロクサリウムの女王が自分よりも強いって言ってたのも納得だぜ」
ライアとソフィアも目の前で展開される圧倒的な暴力に、驚きそして感心しているようだ。
そうして、結界が耐えられなくなったのだろう。クロエの魔法に取り込まれるような形で雲散霧消した。
クロエの竜巻も徐々に小さくなりながら、砂城の一階部分を大きく抉って掻き消える。
後に爽やかな風だけを残して。
『これでダメなら二連で重ねようと思ってたけど、大丈夫だったみたいでよかったよ』
「なるほど、ロクサリウム王家にのみ伝わるという高速詠唱ね」
『わたしは三つまで出来るから、神速詠唱だってお母様が言ってたよ』
聞けばロクサリウムの初代女王が、三つの魔法をほぼ同時に使用出来たそうだ。クロエは隔世遺伝でそれが発現したらしい。
なんというか、もはや賢聖を名乗っても良いのではと思えるほど高度な技術を持っているのだな。
仲間としては頼もしい限りだ。
「さてと。結界も吹き飛んだことだし、早いとこあの砂の城に急ごうぜ」
「うむ、そうだな」
仲間の頼もしさに背を押され、どんな魔物が相手でも臆することのない心を手にした気がした。