梅雨時の出会い
文章を、思うように紡ぐのは難しい。目の前の真っ白な原稿を見てそう思う。
波に乗った時はすらすらと流れる文字の羅列は、一度詰まってしまうと途端に一文字も浮かばなくなる。枯れて水を吹き出すのをやめた泉のように、じわりと滲む文字もないのだ。そうしてペンを放り出す羽目になる。今のように。
「困ったねえ」
人が言うには暢気が過ぎる声音で呟く。手に取っていたお気に入りの青のペンを原稿の上に放り、パタリと体を仰向けに倒す。ふわりと下に敷かれている畳から良い匂いがした。その匂いにむずりと何か疼いたけれど、枯れた泉からはやはり言葉一つ浮かんでこない。
「さてさて、どうしたもんかねえ」
ぼんやりと、部屋に1つだけある窓に視線を向ける。窓の向こう側には白一つない明るい青が広がっている。綺麗だなぁ、と思う。字書きと言えども、綺麗なものに対する感想なんてその一言しか出てこない。字書きなんてそんなものだ。綺麗なものを見たままに、感じたままに、言葉で表現するのは難しい。きっと、完璧に表現しきるなんてことはできないんだろう。
それでも。自分が思う綺麗なものをそのまま文字におこしたい。そう思ってしまうから。自分の思い浮かべるその場所を、言葉で思うように綴りたいとそう思うから。だからペンを執るのを、言葉で表現しようとするのをやめられない。
ぱちり。軽く音を鳴らして頬を叩く。せっかく今日は良い天気なのだ。体を起こして軽く身支度を整える。綺麗なものは、もっと綺麗に見えるところで見なくては。こんな小さな窓から少しだけを見るなんてもったいない。
この小さな枠に収められた空、というのもそれはそれでありだけれども。
「散歩にでも行こうかね」
必要最低限の荷物だけを持つ。それから一度だけ真っ白な原稿を見て、にへらと笑う。
「お前さんに似合う言葉を探してくるよ」
パタン。戸を開けて部屋を出た。
からんころん。底の浅い下駄が軽い音を響かせる。あの小さな窓からではわからなかったが、どうやら自分が外を出る前のいつかに、少しばかり雨が降っていたようだ。道のわきにしおらしく、それでいて目を惹くほどに鮮やかに咲いた紫陽花がある。その紫陽花の葉の上に、キラキラと日の光を反射させた雫が乗っていた。
綺麗だなあ、とそう思う。自分の着た藍色の着物の袖を捲り、そっと手を伸ばす。ツ、と葉の上の雫が手を伝い、ぴちゃんと地面に落ちた。むずり、と何かが疼く。けれどそれは枯れたものが生き返るほどのものではない。
「まだ、外に出たばかりだからねえ」
焦っているなあ。自分のことを他人事のように受け止めて、小さく笑みを零す。ちらりと空を見れば、まだまだ綺麗な青はそこにあった。それにふにゃりと相好を崩し、紫陽花の前で止まっていた足をまた動かした。からんころん。耳に心地の良い音がする。
少し歩いて小さな公園に着いた。閑静なそこは遊具が少なく、あるのは寂し気に置かれたブランコと滑り台、それからいくつかのベンチと公園の半分を占領する緑だった。一歩公園の中に足を踏み入れてみれば、色取り取りの花が至る所で主張するように、互いに調和するように咲いているのが見えた。
こうも遊ぶものがなく植物だけが生き生きと公園に居座っていれば、なるほど静かなのも頷ける。子供には少し退屈な場所なのだろう。そこまで考えてクスクスと笑いが零れる。もったいないねえ。誰もいない公園でポツリとそう零した。
きょろり、と視線を周囲に向ける。それから滑り台を見やればにんまり、口角を吊り上げてそちらに向かう。金属の階段を一段上るたびに、カーンカーンと妙に間延びした音が周囲に響いた。
頂上に辿り着く。くるりと視線を一回り。それからなんだか面白くなって、声に出して小さく笑ってしまった。少しだけ高くなった視界を少しの間堪能する。滑り台の上に上るなんて随分と久しぶりのことだった。ほんの少し視界が高くなっただけなのに、見えるものがなんだかいつもと違うもののように見える。まるで幼い子供のようにはしゃいでしまった。
しばらく滑り台の上で青空を眺めていた。少しだけ近づいた、その視界いっぱいの青はやはりとても綺麗だった。視界の先まで続くその果てのなさが、なんだか心細さを感じさせ、その心細さがどこか心地いい。まるで自分一人だけがこの地球に存在しているかのような。綺麗な一枚の絵の中に入ったような、非日常感。うずうずと今まで以上に何かが疼く。胸の奥から、何かが少しずつ迫ってきていた。
そんなとき、歌が聞こえてきた。
高すぎず、低すぎず、滲み込むように耳に届く声。平淡なようで温かみを感じる歌い方。歌っている曲はわからなかったが、自然と聴く体勢をとらされる歌だった。
視線を空から地上へ移す。自分がいる滑り台の少し離れた場所。色取り取りに咲いた花に埋もれるように置かれたベンチに一人の少女が座っている。両耳を塞いだ大きなヘッドホンが特徴的な少女だ。不意に聞こえてきた歌はどうやら彼女から聞こえてきたようだ。彼女の口が歌に合わせてパクパクと動いている。
ゆっくりとその場にしゃがみ込む。少女は目を瞑っていて、もしかしたら自分の存在に気づいていないのかもしれない。そう思って身を隠すように小さくなる。ずっと聴いていなくなる歌だった。歌が上手いとか、歌詞が共感できるとか、そういうものではなかった。ただ自然とその歌に浸っていたくなるような、そんな歌だ。
こんなときこそ、上手に表現できる言葉が欲しいのに上手い言葉が見当たらない。それを悔しく思いながら、ぽつりと呟く。
「綺麗だ」
先程見た紫陽花や青空とはまた違った意味を持っていたけれど、その歌もまた綺麗だった。日常から乖離して非日常を纏わせるような、そんな人の意識を奪うような歌だった。
どこからか、こぽりと水音が聞こえた。
「あら先生、久しぶり」
木製の趣のある扉を開ければ、溌剌とした声が出迎えた。それにへらりと表情を緩めながら、久しぶりだねと返して中に入る。ざわざわと聞き慣れた喧騒がドッと押し寄せてきた。
「今日もおすすめ頼むよ」
「はいよ。今日は先生のお好きなサバの味噌煮だ」
そそくさとカウンターの席に向かい、カウンターの向こう側で作業をしていた彼女の前の席に座る。入って早々溌剌とした声で迎えてくれた彼女は、いつものように注文を告げれば慣れた様子で今日の料理を教えてくれた。
「いや、ほんとこの店には助かってるよ」
「先生は自炊をとんとしないからねえ」
からからと朗らかに彼女が笑う。その言葉に苦笑いを零しながら、彼女からの小言を避けるようにほかの客席へと視線を向けた。食堂を営む彼女は、食事に対しては少し厳しいのだ。
ちらりと他の客席を見回す。いくつかある席には、見覚えのある顔がいくつか見える。その中に一人、つい最近見たばかりの顔があった。
「ねえ、あの子知ってるかい?」
首に大きなヘッドホンをかけた少女。先程公園で歌を歌っていた少女が、少し離れた席でご飯を食べていた。その姿を見て思わず料理の準備をしていた彼女に問いかけた。ここに来る客は、新規は少ないけれど常連になる人は多いのだ。突然の質問に、自分の目の前にサバの味噌煮の乗った皿を置いた彼女が、ぽかんと目を丸くする。それからヘッドホンの少女に目を向けて、なんだい先生彼女と知り合いかい、と意外そうに言った。
「いや、さっき彼女の歌を聴いてね。すごく心惹かれる歌だったものだから」
「え、先生彼女の歌聴いたのかい?」
少女を見ていた彼女は驚いたように、ぐるっとこちらに顔を向ける。その勢いに驚きながら一度頷けば、そりゃすごい、と少し興奮した様子で彼女が話す。
「彼女ねえ、大の音好きでね。あの大きなヘッドホンでよくいろんな音を聴いてるらしいんだけど。そんな音を愛してやまない彼女の歌ってのがまた凄くてねえ。歌詞じゃなくて音が、聴いてるこっちの心を揺らしてくるんだ。でも、いくら頼んでも全然歌ってくれないんだよ。そんな凄いもんじゃないからって。先生良かったね、貴重なもん聴いたよ」
へえ、と相槌を零して少女を見る。話の少女は一人で黙々とご飯を食べている。
「彼女にとって、その大好きな音ってのは何なんだろうねえ」
「説明のできない感情的なものを、感情的なままに表現できるものだってさ」
返ってくると思ってなかった返事があったことに驚いて、視線をカウンターの向こうへ向ける。彼女はとんとん、とご飯と味噌汁の入った椀を自分の前に置きながら言う。
「前にね、ちょっと聞いただけなんだけど。なんで『音』なのかって聞いたらあの返事」
なんというか、不思議な子だよねえ。そう言って彼女は面白そうに笑みを浮かべる。それを見てから、もう一度少女に視線を向けた。少女が言ったそれは、まさしく自分が言葉を用いてやりたいことそのもので。言葉が見当たるはずがなかったのだ。公園で少女が歌っていたときを思い出す。彼女の歌を言葉で表現できるはずがなかった。それができていたら自分は散歩になんて出ていないし、字書きを続けてなんていない。
ぐぐ、と胸の奥から何かがせり上がってくるようだった。むずりなんてどころじゃない。うずうずと心が躍る。こぽこぽと水音が鳴り止まない。枯れた泉が濡れていく。
気づけば。ぶわりと吹き出すように、言葉が溢れだした。
部屋に帰る。下駄を脱いですぐ、まっすぐに原稿に向かう。目の前の机の上には、部屋を出る前と同じように真っ白な原稿と青色のペンが置かれていた。知らずに口角が吊り上がる。
「さて、お前さんを彩ろうかね」
そう呟いて、青色のペンを手に取った。




