モウ一人のワタシ (4)
ヒナの学校には昼礼というものがある。お昼休みの後半、全校生徒が体育館に集まって、校長先生の有難いお話を聞いたりする。正直やめてほしいんだよね。ご飯食べた後で眠いし、昼休みが短くなってすごく損した気分だ。
しかも季節は二月。体育館めっちゃ寒いんですけど。ホント嫌になる。なんでわざわざこんなことするんだろう。話するだけなら校内放送とかで十分じゃん。しかも立って並んでとか、意味が判らない。
ここ最近は風邪を引いてるクラスメイトも多い。今日も何人か休んでいるし、マスクをしてゲホゲホ言っている子もいる。そこまでして聴く価値のあるお話なのかな。是非一考していただきたい。
ヒナもそんなに寒いのが得意なわけじゃない。今日はほかほかカイロ複数個標準装備だ。そこまでしてもスカートだと足元に来るんだよなぁ。あ、ユマ、スカートの下にジャージ。女子力マイナス十ポイント。およめさんクラブがそんなんでどうする。でもそれいいな。ヒナも諦めてそうすれば良かった。
しかしこんな寒い中で、フユとか大丈夫なんだろうか。ちらり、と後ろの方にいるフユの様子を伺う。予想通り、なんだか青白い顔をしている。やっぱ良くないよね、これ。
大丈夫?、って声をかけようとしたところで。
ぐらり、とフユの身体が崩れた。うわぁ、大変。慌てて駆け寄ったが、フユは床の上に倒れ込んでしまった。
ざわ、ざわ、って周りの生徒がざわめく。保健委員の人、って、今日休んでんじゃん。風邪が流行ってるのに、こんな昼礼とか無茶するから。フユも調子悪いならすぐに言おうよ。
「すいません、保健室に連れて行きます」
そう言うと、ヒナはフユに肩を貸した。フユ、大丈夫?立てる?歩ける?
「うん、なんとか歩けそう」
フユは小さな声で応えた。じゃあ、ちょっとだけ頑張って。ハルが心配そうにこっちを見てたので、片手をあげてみせた。うん、ヒナ一人で平気。女子同士の方が良いでしょ。
校長先生の話は、数秒間中断しただけですぐに再開された。ヒナがフユと体育館を出ていく間も、ずっと続いていた。全く、何をそんなに話したいことがあるんだか。
保健室のベッドにフユを寝かせた。保健の先生はいなかったので、仕方無くヒナがフユについていることにした。なんかいつも都合よくいないよね、ここの先生。
「ごめんね、ヒナ」
フユは本当に申し訳なさそうに謝ってきた。何言ってるの。別にフユが謝ることなんて何も無いよ。
「ううん、そうじゃなくて、この前ね」
ぽつりぽつりとフユが語るところによると、少し前にハルがフユのことを抱きかかえて保健室まで運んだことがあったらしい。ほう、ハル、やるじゃん。そんな話、ヒナは初耳だよ。
「その、ヒナに悪いなって」
何が?
ああ、ハルにお姫様抱っこされたって?
「気にし過ぎだよ。別にそんなことで嫉妬したりしないってば」
ハルは具合の悪いフユを助けたんでしょ?それは良いことだ。ヒナはそんなことが出来るハルのことをとても誇らしく思うし、自慢の彼氏だって思える。フユに嫉妬するなんて、お門違い。むしろ。
「フユがハルのことを好きになっちゃうんじゃない?残念だけど、ハルは私の彼氏だから」
そんなことぐらいでハルがヒナのところからいなくなるだなんて、ちっとも考えないよ。二人の絆は強いんだ。少なくとも、ヒナはハルに人生をかけてる。それくらい、ヒナは、ハルのことが好き。
「うん、ヒナのこと、すごく羨ましい。あんな素敵な彼氏がいて、いいなって思う」
そう言われるとは思わなかった。打ち返し弾だ。やるな。まだ調子は良く無さそうながら、フユは笑顔を浮かべてくれた。フユも可愛いよ。きっと素敵な彼氏が見つかるよ。
ああっと、こんな無駄話をしている間に、体温くらい測っておいた方が良いね。ベッドを使った時は、検温して書いておかないといけないんだ。ヒナは体温計をフユに手渡した。
ありがとうって言って、フユは手慣れた手つきで体温計を受け取り、ブラウスのボタンを外した。
その時、見えてしまった。
「フユ」
思わず声が出た。それから、「しまった」って思った。これは、見えていないふりをするべきだった。
フユはすぐに気が付いて。
「気にしないで」
そう言って、笑った。悲しい笑顔。フユの中にある、沢山の想いが隠された、微笑みの仮面。
胸元をえぐるような、大きな傷跡。それだけじゃない。
フユの身体は、傷痕だらけだ。
制服から伸びる細い手足からだけでは判らなかった。フユは巧妙にその傷痕を隠していた。見るからに痛々しい、普通ではない疵の名残。ヒナは言葉を失って、椅子の上にぺたんと座り込んだ。
「それ、どうしたの?」
訊くべきなのかどうか、判らなかった。でも、知りたかった。
フユという女の子のことを。
ヒナと友達になりたいと言ってきた。
ヒナと同じ銀の鍵を持つ。
フユという、女の子のことを。
「ヒナ」
フユの声は静かで、それでいてはっきりとしている。いつかは話さなければいけなかった。そんな覚悟を感じる。
「フユのこと、知りたい?」
ヒナはうなずいた。知りたい。フユのこと、教えてほしい。
銀の鍵なんか使わないで、フユ自身の口から、フユのことを聞かせてほしい。
それがどんなにつらくて、悲しいものなのか。
ヒナはその時、全く判っていなかった。
※ ※ ※
一通り話を終えて、フユは疲れてしまったのか、そのまま寝入ってしまった。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴っている。フユはこのまま寝かせておいてあげよう。後は。
「カマンタ」
ヒナはそっと呼びかけてみた。フユの持つ銀の鍵に憑いているという神官。ヒナのナシュトと同じように、フユと同化しているという神様の名前だ。
ヒナの横に、純白の肌を持つ女性が現れた。燃えるような赤い長い髪、サファイヤを思わせる青い瞳。半裸で豹の毛皮をまとう所は、ナシュトと同じ。古代エジプトの神官の正装だという。しかし、女性となるとまた印象が異なる。ギリシャ彫刻のような美しい肢体を持つカマンタの場合は、非常に妖艶で、見るものを虜にする魅力があった。
「はじめまして、曙川ヒナ。カマンタと申します」
物腰丁寧に、カマンタは一礼した。ナシュトとはえらい違いだ。ヒナは今までナシュトから頭を下げられたことなんか一度も無い。同じ銀の鍵の守護者なのに、こうも異なるものなのか。ショックだ。
とりあえずそれは置いといて。
「フユの話は、本当なんだよね?」
確かめずにはいられなかった。あまりにも酷い。凄惨過ぎる。穏やかなフユの寝顔を見ているだけで、耐えられなくなる。そんなことがあっていいのだろうか。胸が痛い。苦しい。
「残念ながら真実です。フユには、何も無かった」
何も無い。
親も、兄弟も。友達も、幼馴染も。楽しい思い出も、故郷も。
フユという名前さえも。寒い季節に産まれたから、フユ。本当にそのまま、ただそれだけで与えられた呼称。
生きることにすら意味を見出せなかったフユが銀の鍵を得て願ったのは、自己の消滅。何も無い。何もいらない。このまま消えてしまいたい。
叶えられない願い、矛盾した望みを受けて、銀の鍵はフユの左掌に取り込まれた。カマンタもまたフユと同化し、中途半端な存在に成り下がった。
ヒナと同じ。でも、ヒナとは全く違う。
ヒナには何もかもがあった。満たされていた。だからこそ、神様に願ってまで欲しいものなど何も無かった。
フユには何も無かった。願って得られるものがあるということですら知らなかった。
「フユは、一度自殺を試みています」
ある時、フユに付き従うカマンタに、フユは問いかけた。
「どうすれば、カマンタはフユから解放されるの?」
カマンタは応えた。鍵が叶えられない願いを、フユが自分で叶えればいい。願いを自分の力で達成出来れば、鍵の契約は効力を失う。それは、ヒナもナシュトから聞いて知っていることだ。
フユの願いは、自らの存在を消し去ること。
そんなの簡単だ。そう言って、フユはあっさりと橋から身を投げた。
自分で死んでしまえば良い。それでカマンタが自由になるなら。
「フユには、恐ろしいほどに何も無いのです」
フユは運良く救助され、一命を取り留めた。だが、心と身体の傷は大きく、なかなか通常の生活に戻ることは出来なかった。
そんな中、あの土地神様と縁故のある人物が、フユのことを一切合財引き受けてくれたのだという。様々な人たちの、色々なとりなしの結果、フユは今この高校に通っている。住んでいるアパートの保証人や家賃、学費や生活費も、その人物の仲介で支援団体から出ているということだった。
土地神様の関係者って、ひょっとして噂の人間の旦那さんだろうか。土地神様は、人間の男の人と結婚している。残念ながらヒナはまだ会ったことが無い。しかし、どうもそれとはまた違う人らしい。なんでも女の人だということ。ふむ、あの神様実は結構顔が広いんだね。思ったよりもすごい神様なのかもしれない。
「ヒナ、貴女にお願いがあります」
カマンタはかしこまると、再びヒナに向かって頭を下げた。神様が、人間にお願い事か。なんだろう、カマンタはナシュトと違って、とても人間的だ。これはフユの心の在り方が影響しているからだろうか。
「どうか、フユと友人になってはもらえませんでしょうか」
はぁ。とは言ってもやっぱり中身は神様だ。こいつらは本当に困ったものだ。ヒナは大きくため息を吐いた。
暖かい。なんだろう、柔らかくて、ふわふわしていて。とても気持ち良い。甘くて、良い香りがする。
目を開けると、保健室の天井が見えた。ああ、もう見慣れたものだ。そうか、フユは疲れて眠ってしまっていたんだね。ヒナに、昔のことを話したんだ。
ヒナはショックを受けたみたいだった。ごめんね、ヒナ。フユも悩んだんだ。ヒナに何処まで話せば良いのかなって。
結局、全部話すことにしてしまった。その方が良い。ヒナには、フユのことを解って欲しい。それでフユのことを気持ち悪いって、嫌いだって思われてしまうのなら、それは仕方の無いこと。
元々フユには何も無かったんだ。だから、諦められる。少しの間でも、フユといてくれたんだから、それだけで満足だ。フユには十分過ぎるくらいの幸福だった。
どのくらい寝ていたのかな。午後の授業、どうなっただろう。ヒナは間に合ったかな。
フユは身体を起こそうとして。
ヒナが、椅子に座ったまま、ベッドに上半身を突っ伏して眠っているのに気が付いた。
ヒナ、何やってるの?ひょっとして、ずっとフユの傍にいたの?授業、行かなかったの?
甘い香り。ヒナの匂いだ。フユはそっとヒナの頭に手を伸ばした。ふんわりとした髪の毛。優しく撫でてみる。日向の温かさがある。愛おしい。
「カマンタ」
フユの呼びかけに、カマンタが姿を現す。カマンタはいつでもフユに応えてくれる。フユにしか見えない、フユの神様。フユの半身。フユは、カマンタのことが大好き。
「ヒナは、ずっとここに?」
「はい。フユが目覚めるまでここにいる、とのことでした」
そうなんだ。ありがとう、ヒナ。すうすうと、静かな寝息が聞こえる。可愛いな。朝倉ハルに、みんなに愛されているヒナ。フユにはヒナがとても眩しく思える。フユに無いもの、何でも持っている。
フユと同じ、銀の鍵に願いを持たない者。それなのに、フユとヒナは全然違う。会いたかった。会って確かめたかった。
この世界には、優しさと光に満ちた場所があるって。
信じさせて、ヒナ。満たされた想いが、神様の力を上回るって。フユにも、ヒナが持っているもの、手に入れられるって。
ヒナは、フユの希望なんだよ。あの時、フユは自分を消してしまいたいって鍵に願った。他に望むことなんて何も無かったんだ。この世界に残る理由なんて、何一つ存在しなかった。
ヒナ、フユに見せて。ヒナを満たしているもの。神様なんていらないって、言えるほどの何か。ヒナが、この世界に夢視ているもの。朝倉ハルのこと、愛してるんだよね。今も、朝倉ハルの夢を視てるのかな。
ハルを夢視る、銀の鍵。
幸せになってね、ヒナ。ヒナが幸せになってくれると、フユも安心出来る。幸せになれる気がしてくる。世界が、素敵だって思えるようになる。
チャイムが鳴った。午後の授業の終わり。何限目だろう。時計を見ると、午後の最初の授業が終わったところだった。ヒナ、授業さぼらせちゃったね。ごめんね。
「う・・・ん、あれ?寝ちゃってた?」
ヒナがむっくりと起き上がった。ふふ、おはよう、ヒナ。良く眠ってたよ。
「ああ、フユ。ごめんね、寝ちゃってて。体調はどう?」
もう大丈夫そう。残りの午後の授業には出れそうかな。そう言ってベッドから降りる。制服の胸元が開いたままだったので、慌ててボタンを留めた。スカーフを戻したところで。
ヒナが、フユの身体を抱いてきた。
「ヒナ?」
ぎゅうって、強く前から抱き締められた。フユは細いから、このままぽっきりと折られてしまいそう。ヒナの身体、柔らかいな。ええっと、ヒナ、どうしたの?
「フユ。私はフユの友達だよ。誰かに言われたからじゃない。フユの境遇に同情したからでもない」
ヒナの言葉が、フユの中に入り込んでくる。フユの心を揺さぶる。
「私は、フユのことが好きなんだ。一生懸命なフユ。色々なものに正面から向き合うフユ。真面目で、不器用なフユ。私は、そんなフユが好きなんだ」
ヒナ。
そっとヒナの身体に腕を回す。ヒナの背中に触れる。強く、抱き返す。
「うん」
ありがとう、ヒナ。こんなフユのことを、好きだって言ってくれて。友達だって言ってくれて。本当にありがとう。
フユはここにいても良いんだね。フユのことを、好きになってくれるんだね。
フユは、消えなくても良いんだね。
保健室のドアがノックされた。がらがらって開いて、サユリ、サキ、チサトが入ってきた。ちょっと遅れてユマも。ヒナとフユが抱き合っているのを見て、ちょっと驚いたみたいだった。
「フユに元気を分けてあげてたんだよ」
ヒナはそう言って笑った。うん、貰ったよ元気。フユの中は、今ヒナでいっぱいだ。こんなに嬉しいの、きっと生まれてきて初めてだと思う。
「もう大丈夫そうだね、フユ」
「朝倉がヒナが取られるって騒ぎ出す前に、教室に戻らないと。行けそうかい、フユ?」
「フユちゃん、顔色良くなったね」
みんなが、フユのことを「フユ」って呼んでくれる。フユの心に、その言葉が溜まっていく。想いが、溢れてしまう。フユの小さな器は、もういっぱいいっぱいだ。
「うん、ありがとう」
こぼれた分が、涙になって流れてしまう。ぽたぽたと落ちる。フユに入りきらない幸せ。ここには、優しさと光がある。フユの知らなかった、暖かい世界がある。
「ほら、もう次の授業始まるから、ヒナもフユも行くよ」
ユマがそう言って保健室の外に行こうとする。
「ユマ、今、ヒナって言った?」
あ、そういえば、ユマは「曙川さん」って呼んでたよね。みんなきょとんとしてユマの方を見ている。ぴたっと動きを止めたユマが、ぷるぷると身体を震わせた。
「い、良いじゃない。なんか今までタイミング外してたんだから、しょうがないでしょ!」
ヒナが笑う。サユリが、サキが、チサトが笑う。
フユも笑った。心の底から、楽しかった。