八話
シャリエ西方を流れるセリーヌ川は、王国と帝国の国境として定められているセレヌ・セレーン川を源流とする。
セレヌ・セレーン川は大陸神話に置いてごく初期に誕生し、その中でも特に大きな役割を担った霊験あらたかな巨川。
セリーヌ川もその流れを汲むことから、いつしか人々の信仰心が宿り、信仰心は神力となり、穢れを知らぬ清らかな水流は何万年と保たれることとなったーー
「き、近年では川の神、セレヌ・セレーンの妹の一人、セリーヌとして近代神話に組み込まれることも多くなって……あ、そもそもセレヌ・セレーンは原初の神カオーヌスが自らを引き裂いて生み出した二十四巨神の一柱として数えられているんだけど、又の名を無垢なる川とも呼ばれててーー」
深緑の森の中に、仲良く肩を並べて歩く少女少年の姿がある。
顔を真っ赤にして、早口で何事かまくし立てているのが少女シメーヌ。そしてそれを、うんうんと相槌を打ちながら聞いている少年がミリアムであった。
二人はあれからずっと手を繋いだまま、森林の中をゆっくりと進んでいた。
目的地は先ほどのシメーヌの話にも出てきたセリーヌ川。季節が夏であることもあり、清涼感溢れる水辺へ涼をとりに向かおうと、ミリアムが提案したのであった。
「シメーヌは神話に詳しいんだね」
「お、お母さんの影響で。……退屈、だよね。こんな話。ごめんなさい。友達からもよく言われるんだ…お前といてもつまらないって…」
しゅんと肩を落とし、ひとり勝手に落ち込むシメーヌ。今その内心は、満足に会話を回すことすらできない己への叱咤のみであった。
対し肝心の少年はといえば、以前として穏やかな笑顔を少女へと送り続けていた。
「僕も大陸神話は大好きだよ」
「えっ! ほ、ほんとですか!?」
この美しい少年との思わぬ共通点に、シメーヌが一転して気色ばむ。
「うん。月に一回は全六巻を読破していたよ。実は以前、ずっと家に閉じこもっていた時期があって……凄く暇だったんだ」
「あっ……実のお母さんに…」
監禁されていたんですよね。
その言葉を、シメーヌは何とか飲みこんだ。余りにもデリカシーに欠けると思ったのだ。
「知ってるんだ? そう、少し過保護でね…」
しかし、その気遣いを知ってか知らずか、何でもないかのように語りだすミリアム。その口調からは、母親に対する憎しみの感情は一片たりとも感じられなかった。
「カーテンを開けることも、なかなか許して貰えなかったな」
「ひどい…」
シメーヌは、この心優しい少年を長年の間地獄に閉じ込めていた公爵令嬢に、改めて激しい憤りを覚えずにはいられなかった。
ベルジェラック公爵家の長女の話は、その膝下であるシャリエでも良く知られている。
史上稀に見る不細工で、生前はとことん男と付き合いがなかったのだと。
もし、そんな不細工が何らかの手段で男を誑し込み、子を産んで、その子供が目の前のミリアムほどの美少年だったら。
「…………」
少年を襲ったであろう不幸を思い、シメーヌはギリッと歯嚙みした。
その不幸とは、何もただ「長年監禁されていた」などという単純なものではない。監禁の動機や、その目的なども含めた、もっとデリケートな問題である。
つまり何が言いたいのかというとーー公爵家の庶子ミリアムは、十二年間もの間、実の母親から性的虐待を受けていたかもしれないーーということだ。
……これは決してシメーヌ個人の考えではない。
シャリエの大人たちが、ミリアムの一連の噂話を初めて聞いたときから、夜、子供が寝静まった後によく話していたことだった。
冷静に考えてみれば分かる。
醜い女が幼い美少年を監禁して、その後どうしたと思う? こんな質問をされれば、どんな童貞厨でも返す答えは一つだろう。
「シ、シメーヌ?」
「えっ……あ、はい」
「ごめん、手がちょっと痛い」
「あっ!」
いつの間にかミリアムの白い手の甲に、シメーヌの爪が深々とめり込んでいた。
「あっ、ああ…」
気の弱い少女は蒼白になって、慌ててその手を離す。
「ご、ごご、ごめん…ち、血が…」
「はは、気にしないでいいよ。こんなの舐めとけば治るし」
動揺するシメーヌの目の前で、自身の言葉の通りに、ミリアムがその唇の間から、てらてらと唾液で滴る真っ赤な舌を滑り出した。
そしてその舌が。
まるで誘うかのように。
蠱惑的な動きでゆっくりと。
シメーヌの付けた傷跡を舐め上げていったのだ。
「ーーっ」
ぞくり。
シメーヌ胸に、何とも形容し難い、背徳的な喜びのようなものが広がった。
「う、うう…」
そして、とてもではないが、ただ見ているだけでは我慢ならなくなった。
シメーヌは自らも舌を出した。そしてそれを、目の前で蠢く少年のそれと同調させて、宙に向かってペチャペチャと、まるでそこにあるミリアムの血を味わうかの如く動かし始めたのだ。
幸い、そのことにミリアムが気付くことはなかった。二人はその後しばらく歩いてから、当初の予定通り、何事もなくセリーヌ川へと到着する。
ただ今回の出来事を結実として、一人の少女の人生が大きく様変わりしたということだけは、ここに述べておく必要がある。
そう、ただの村娘として終生を終えるはずだったシャリエのシメーヌは、この日から一転して、闇へ向かってひた走ることになるのである。
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森での一件から、もう十分ほどがたったころ。二人の目の前には幅八メートルほどのセリーヌ川が、太陽の光をキラキラと反射しながら涼やかに流れていた。
「わぁ…これがセリーヌの川なんだね。そしてこの先に、あの有名なセレヌ・セレーンがあるんだ…」
自身も神話好きのミリアムである。監禁中に散々読んだ物語の登場人物……水の女神セレヌ・セレーンーー本によると清らかな長髪の美女ーーをすぐ側に感じたような気がして、感慨深く一つ二つと頷いた。
「あの、ぼっちゃん。村のみんなで作った祠がこの辺りにあるんだけど…」
「へぇ!それは是非お祈りをさせて欲しいな」
「はいっ」
ここまでの道中で、どこかよそよそしかった村長の娘、シメーヌとも、徐々に打ち解けてきたような気がする。
ミリアムは今世で初めて出来た友人を嬉しく思いながら、彼女の案内でセリーヌ川の祠へと向かった。
川沿いに歩いていくと、その祠はものの数分で見つけることができた。
大きさは成人男性一人と同じくらいだろうか。切り出された白い石材で出来た、思いのほか立派な造りだった。
そんな外国情緒溢れる祠の前に、早速ミリアムは跪いて、祈りを捧げるべく両手を組む。
この祠で祀られているのは、セレヌ・セレーンの姉妹であるところのセリーヌ神だという。故に目を閉じて、脳裏にまだ見ぬその御姿を思い描いていった。
「(姉のセレヌ・セレーンが長髪だから、妹はショートカットかな。そうだな……小柄で、スレンダーで…そう、例えばリリーみたいな…)」
そうこうしている内に、妖精リリーに似た少女の姿が、ミリアムの頭の中で完成した。
では早速祈りを…と、ミリアムがそのイメージに集中しようとしたところで、想像では神々しい光を纏って悠然としていたはずのセリーヌ神が、突如頭の中で勝手に表情を変えて、情けない半泣きの姿でわめき出したのだった。
『ミリアム様に祈られるなんて恐れ多い! 今すぐ止めて下さい!』
ーーえ?
『あなた様は姉様の契約者でしょう! 少しはこちらの立場というものも考えて下さい!』
バチンッ。
ブレーカーが落ちた様な音と共に、ミリアムの頭の中から少女のイメージがなくなった。いや、どちらかと言えば、ミリアムの浮かべたイメージからミリアム自身が締め出されたと言った方が、感覚的には適切かもしれない。
「……な、なんだ今の…?」
「坊ちゃん…? お祈りは済んだ?」
不思議そうに見つめてくるシメーヌに曖昧に頷いて返して、ミリアムは釈然としないままその場を後にした。
その後、ミリアムたちは川の中に足だけ浸してみたり、ふざけ合って水を掛け合ってみたり。そうやって思う存分遊んだあと、昼食後もまた遊ぼうという約束をして、帰路へとついたのだった。
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戻ると、シャリエの村は俄かに騒がしかった。
村人は混乱した様子で右往左往し、時折怒号が飛び交っている。
「何かあったのかな…?」
ミリアムがそう言って隣を見ると、シメーヌも不安そうな顔で首を傾げていた。
彼女も感じていたのだ。確かにこれは、いつものシャリエではないと。
そこにあるのは生活の活気ではなく、伯爵家の賓客を持て成す為の賑やかさでもなく、明らかに殺伐とした、不穏な空気であった。
「ミリアムッ!」
凄まじい剣幕である。
二人が驚いて声のした方へと振り向くと、そこにはミリアムの姉貴分キャロルが、平時の冷静な態度をかなぐり捨て、こちらへと向かって走って来ているところであった。
「ね、姉様…?」
その尋常ではない様子にミリアムが僅かに声を震わせる。
しばらくして、キャロルは息絶え絶えになりながらも、何とか弟の元へとたどり着いた。そして続けざまにその細い肩を両手で掴むと、ミリアムの整った顔を至近距離から睨みつけたのである。
「あなたっ…今まで一体どこに…!」
「す、すみません。もしかしてこの騒ぎって、僕のせいなんですか…?」
己の仕出かしたことを想像して、ミリアムが情けなく眉を落とした。そしてそのなんとも母性本能のそそられる表情を前にして、キャロルの激は、そのつり上がった眉と同じように下降していった。
公爵令嬢は何とか普段の落ち着きを取り戻し、弟との距離が近すぎることに赤面してから身を離した。
「い、いえ。別にあなたが居なくなったことだけがこの騒ぎの原因って訳ではないんだけど……ま、まぁ、無事で良かったわ。本当に。それよりーー」
再び目付きを鋭くしたキャロルが、今度は弟の隣で目を白黒させている村娘、シメーヌを睨みつける。
「あなた、シメーヌよね?」
「えっ、あ、はい…」
「ミリアムと何処へ行っていたの」
「ど、どこにって…その…」
公爵令嬢の発するプレッシャーに屈し、要領を得ない答えを返すシメーヌ。
対面するキャロルの苛立ちか募り、組んだ両腕の上では指がトントンと鳴っていた。
見兼ねて、ミリアムが恐る恐ると口を開く。
「あの、僕たちは川へ涼みに行っていました。あっちの方にあるセリーヌ川へ…」
ミリアムが指で指し示してそう説明する。
キャロルは厳しい表情のまま、再びシメーヌへと質問を投げかけた。
「あなた達二人はずっと一緒にいた?」
「はい。僕と…」
「ミリアムには聞いていないわ。シメーヌ、あなたに言っているのよ」
シメーヌの肩がビクリと跳ねる。
生来の気の弱さ故、頭が真っ白になって何を言うべきかわからなかった。
しかし、その様子を見て不憫に思ったミリアムが、シメーヌの震える手を握ったことにより(二人の接触を見たキャロルの眉が寄った)気の弱い少女の心の内にも自信が湧いてきた。
「ず、ずっと、一緒にいました。坊ちゃんと」
「ずっとと言ったらずっとよ。用をたしたりはしなかったのかしら?」
「えっと、はい。私も坊ちゃんも。私たちは、確かに村を出てから今までずっと一緒でした」
公爵令嬢の目を見て、声を震わせながらもしっかりと話すシメーヌ。その姿から、彼女の証言が信用に足るものであると判断したキャロルが、ひとまずといった様子で胸を撫で下ろした。
そしてこの中で唯一村の状況を知る令嬢が平静に戻ったところで、ついにこの騒ぎに対する説明が始まったのである。
「ついさっき、林の中で村の子供の死体が見つかったわ。私たちと同い年くらいの男の子よ。確認したけど、腹を割かれていて、内蔵は空っぽだった」
「「!!」」
二人が驚愕に目を見張った。
「そして私が見たところ、その死体からは……明らかに魔法の痕跡が見られたわ」
「えっ…」
最初に声を上げたのはシメーヌだった。
彼女は隣に立つミリアムーー魔法使いへと、つい僅かに…ほんのごく僅かに疑惑の篭った視線を向けてしまった。
そしてそれを受け、ミリアムも咄嗟にシメーヌを見やった。
二人の視線が、間近で交差する。
「あっ…」
ここで初めて、ミリアムは自身の置かれた状況の危うさというものに気が付いた。
ミリアムの足元を、夏季にしては冷たい風が吹きすさんでいった。
お仕事が忙しいんやで(いいわけ)




