五話
深夜。
ベルシェラックの屋敷の二階。そのとある一室に、窓から忍び寄る影ーーいや、光の塊があった。
薄く青色に発光したそれは、質量を感じさせない動きでフワフワと宙に浮き、何とそのまま硝子をすり抜けて屋内へと侵入してしまった。
『ミリアム…ミリアム…』
そして呼びかける。
『ミリアム…起きて…遊びにきたよ…』
「うぅん…」
『ミリアム…目を覚まして…』
光の塊がアメーバのようにグニャグニャと形を変えながら、部屋の主の名を呼ぶ。そう、ここは公爵家の庶子、ミリアムの私室だった。
「ん…? あれ、リリー。久しぶりだね」
『うん…久しぶり…』
寝台の上の美少年が聞き慣れた声に目を覚ますと、光の塊は枠に収まるようにして人型へと姿を変えた。
小女の短身に長い水色の長髪。
棒切れのように頼りない手足、腰。
古びたブラシのような長い睫毛。
緑虫色の大き過ぎる瞳。
「うんうん、リリーは今日も可愛いな」
とんでもないドブスの妖精であった。
『ミリアム…会えて良かった……』
「うん。引越しの件、伝えられなくてごめん。何せ急だったからさ」
『うん…気にしてないよ…ねぇ、お話しよう…ねむい…?』
「いいよ。久しぶりにリリーと会って、嬉しくて眠気なんか吹き飛んじゃったから」
ミリアムがニコリと笑って言うと、リリーと呼ばれた妖精は毒花のように笑んだ。
『安心した…あの部屋を出ても…ミリアムの心が変わらず綺麗で…』
「そうかな?」
『うん…だってほら…この醜い姿を見ても…いつものミリアムだもん…』
リリーがはにかみながらクルリと一回転する。
ブスの癖にお姫様気分。正常な感性を持つ人間からすれば、見ているだけで吐き気が催してくる光景だ。
しかし実のところ、それはリリーの狙い通りなのである。
リリーの本質は水だ。故に無形。
現在の醜い姿は生来のものではなく、一時の仮初めの体に過ぎない。
では何故、筆舌に尽くしがたいほどのブサイクとなることで、わざと自らを貶めるような真似をするのか。
これには妖精という種族特有の、深い理由があった。
《悪魔は外を、妖精は内を見る》
契約魔法で最初に習う、基礎となる格言だ。悪魔は契約者の容姿の美しさを好み、妖精は心の美しさを好むということである。
そのため妖精は、心の美醜を計るために様々な悪戯ーーと言う名の試練を契約者候補に課す。
物を隠してみたり。悪口を言ってみたり。姿を変えて欺いてみたり(妖精は悪戯好き…といったイメージが出来たのはこのためである)
リリーもその例に漏れず、人間の前ではわざと醜い姿を形づくり、これを人の心を覗き見る為の判断基準としていたのだ。
『不安だったんだよ…世間を知ったミリアムがどうなるか…』
「俺は俺だよ。リリーの友達のミリアムだ」
『……うんっ』
少年が凛としてそう宣言すると、リリーは嬉しそうにベッドの上の、ミリアムの隣へと腰を下ろした。
『今夜はずっと…ここにいていい…?』
「いいよ。あ、でも俺、明日は早くて。お祖母様に呼ばれてるんだ」
『大丈夫…わたしはミリアムの寝顔を見てるだけで…幸せだから…』
二人は寄り添うようにしてベッドへと横になる。
『ミリアム…』
「リリー…」
安らいだ気持ちでお互いの名前を呼び、そして視線を絡ませ合った。まるで睦時の男女のようなやり取りだが、二人にとっては慣れしんだ就寝前の挨拶に過ぎない。
「おやすみ…」
『うん…』
ミリアムはリリーの小さな体を抱きしめながら、徐々に眠りへと落ちていった。
▲▲▲▲▲
その日、公爵家三女のキャロルは母であるベルシェラック公爵から呼び出しを受けていた。
「簡単な仕事だって言ってたけど…」
母の私室へと続く屋敷の廊下を歩きつつ、令嬢は僅かに顔を顰めた。
経験上、何だか面倒ごとになりそうな予感がしたのである。
「キャロル様」
不意に名前を呼ばれて振り返る。
そこにはキャロルと同じ金髪の(その容姿は天と地ほども差がある)それは美しいメイドがいた。
確か名前はアニーだったか。
美形揃いの使用人の中でも飛び抜けて美しかったので、キャロルも良く覚えていた。
「女那様は本日、応接間でお待ちです」
どうやらキャロルへの言付けを頼まれていたらしい。
「わかった。どこのかしら」
「ご案内致します」
アニーが優雅に一礼して、誘導を始める。その所作は実に流麗なもので、キャロルの劣等感をチクチクと刺激した。
「(……ふん。別にメイドと張り合うつもりはないわ)」
二人は広い屋敷を縦に並んで歩く。
目的の部屋に着くまで、キャロルは目の前の広い背中を眺めては溜息をつく羽目となった。
「こちらです」
そうやって連れてこられたのは一階の角まった部屋だった。
賓客をもてなすには役不足な応接間である。
「ありがとう、下がっていいわよ」
メイドに軽く礼を述べてから、扉をノックする。
「キャロルです」
「遅い。入れ」
お叱りを受けてしまった。
早々にケチが付いてしまったことを嘆きつつ、キャロルは公爵の待つ部屋へと入室した。
「申し訳ありません。失礼しまーー」
「あ、姉様…」
「ミ、ミリアム!?」
そこに居たのは天使の如き美貌を持った少年。
姉の来訪を知らされていなかったのか、黒曜石の瞳をキョトンと見開き驚いている。そして少々間の抜けたその顔すらも可憐だった。
他にも母であるオーギュスタや騎士のキトリーなどがいたが、キャロルの目に入らなかったことは言うまでもない。
一気に少女の心臓が早鐘を打ち始める。
「その…お久しぶりです、姉様」
「ひ、久しぶり」
二人の、数日ぶりの邂逅であった。
▲▲▲▲▲
「シャリエへ視察に…ですか。私とミリアムで」
「うむ」
キャロルが一頻り落ち着き、公爵が二人に与える任の説明を始めてから数分後。そこには説明を終えて承認待ちの公爵と、その真意を図ろうとするキャロル。我が事にも関わらず傍観するミリアム、といった構図が出来上ろうとしていた。
「…………」
キャロルは考える。
シャリエ領の視察。
言ってしまえば作物の出来や領民の暮らしから、税のあれこれを調整する為の情報集めだが……公爵家の秘蔵っ子を同行させるなら、その狙いはとても社会科見学などではないだろう。
そう、例えば領地の相続を婚姻と仮定すると、今回の視察調査は見合いのようなものだと考えられる。
公爵はミリアムのこの魅力によってシャリエ領民の人心を掴み、外堀から埋めてしまおうという魂胆なのだ。
この視察調査の目的を、キャロルはそう予測した。
「(そして恐らくそれはできてしまうのだろう)」
少女は少し離れた位置に座っているミリアムを横目で見やる。
「(この美貌に姉上の件もある。平民の種かも知れぬという噂も庶民が好みそうな内容だ)」
ミリアムが次期領主と知れば、シャリエの領民はそれを喜んで受け入れるだろう。庶子とはいえ王族の血を引いているのだ。血統についても欠片の問題もない。
あとは公爵が鵺の一声を発すれば、シャリエ領は自然とミリアムのものになる。
「(それにしても性急過ぎる。母上は何を考えておられるのだ? ……わからない。でもきっと、ほぼ間違いなく厄介ごとのはずだ)」
止めた方がいいに決まっている。
それはきっと、この甥の為にもなるはずだ。
「キャロル、お前が素直に頷かぬからミリアムが困り顔ではないか。一体何の不満があるというのだ。貴様らの進言通り、領地は没収したままだぞ。案ぜずとも、これはミリアムの課外授業のようなものだ。領地経営の為のな」
黙り込んだキャロルに痺れを切らしてか、公爵は一切の反論も許さないといった様子で口を開いた。
「ですが…」
「実際に我がベルシェラックが営む地に足を運び、その目で領地を収めることの何たるかを学ばせようというのだ。キトリー、貴様も申しておっただろう」
公爵はつらつらと語りながら、己の隣に控える騎士へと呼びかける。
「『我が故郷の鮮やかな緑の森や風にそよぐ稲穂の海、賑やかな領民たちの中に日々をお暮らし頂き、直にシャリエをご覧頂きながらご勉学にお励み頂きたい』とな。それにしても長いな。御高説結構なことだが、貴様の言うことはいちいち装飾華美だぞ」
「はっ」
そう言われ、銀髪の騎士はただ頭を下げるのみだった。
自分たちが来る前にやり込められたのだろう。先日のようにキトリーを頼みにすることは出来ないようだ。
「(どうする…)」
何とか他の糸口を見つけようとするキャロルだったが、公爵の冷たい声音によってそれも遮られることとなる。
「キャロルよ、経営学の先達として、此度の視察でせいぜい範を示しておくとだ。お前がこやつに物を教えられるのも、もしかすると今だけかも知れぬのだからな」
「なっ…」
一気にキャロルの劣等感が首をもたげた。
そしてそれを助長するように、優秀な甥には親しげな声がかかる
「ふふ、そう緊張するなミリアム。軽い顔合わせだと思え。あと二、三年もすれば、あの地の者は全員お前の領民となるのだからな」
「は、はぁ」
元々逆らう気などないミリアムは、言われた通りただ頷くだけである。
公爵は巧みだった。
厄介な者は先に釘を刺して抱え込み、噛み付いてくるものには感情の矛先を逸らして蓋をする。
この強かさがあるからこそ、名門ベルシェラックの当主としてその地位を守ってこれたのだ。
「なに、そう日にちはかからぬさ。シャリエでマニの実ジュースでも飲みながら、貴族たるものの義務を果たしてくるとよい」
最後にそう締め括り、公爵は応接間から去っていった。
▲▲▲▲▲
『ミリアム…またどこか行っちゃうの…?』
「え、リリー? 聞いてたの?」
私室に戻ってきたミリアムは、思いがけず聞こえてきた声に視線を巡らせた。
すると暫くしてから光の靄が集まり、空中に人型を形作る。
水の妖精、リリーである。
『ずっと…ミリアムの周りに広がってたから…』
「えーと、気体になってたってことかな?」
『きたい…? えっとね…外は最近危ないから…でない方がいいかも…』
「危ないって…」
曖昧な表現に、ミリアムは首を傾げた。
『危ないって…みんな言ってるから…』
「そっかぁ。でもお祖母様に頼まれちゃったからなぁ…」
ミリアムは顎に手を当てて考えた。
公爵の命に背くつもりはないが、この少女の忠告も無下にはしたくない。
そして閃いた。
「そうだ、リリーも一緒に来ればいいじゃん」
『え…?』
「前にリリー、わたし超つよいって言ってたよね?」
『うん…だって水精王だし…』
ミリアムは知る由もないが、考え得る限り最上級の幻想生物である。
もし契約魔法でこのクラスの召喚を行える術者がいれば、一国から三顧の礼をもって迎えられるだろう。
「うんうん。その水せー何たらはわからないけど、だったらリリーが俺を守ってくれればいいんだよ」
『守る…? 妖精の庇護者たる妖精王が…人間を…?』
「そう。あれ、駄目だった?」
意外と反応が悪いことに動揺したミリアムだったが、キラキラと輝く水色の瞳を見つけたことで胸を撫で下ろす。そして直後、目の前に迫ってきたリリーの顔に上半身を仰け反らせることとなった。
『それ…とってもいい考え!』
ちゅっ。
ミリアムのうなじに、妖精王の口付けが落とされる。
「ど、どうしたの突然!」
慌てるミリアムを尻目にリリーは両腕だけを元の水に戻し、それを用いて複雑な紋様を描き始めた。
そして幼い口元からは厳かな聖句が紡がれる。
『我、妖精の長、総ての水を統べる水精王。汝、契約者、純潔の心を持つ無垢な者』
「リ、リリー?」
その光景は天上の神々への布告状にも見て取れた。
神が己の体を裂いて生み出した妖精王を、人間如きが従えるという暴挙。
そしてそれを契約によって正当化させるための、神罰をも恐れぬ契約印。
『海底に眠る太古の鐘を鳴らし給え。契約の標に服せよ水精』
「ちょ、あの…」
『強欲なる者に倒懸を。恬淡たる者に福音をーー』
「ねぇこれ危なくないの?」
『従属契約!』
光が弾ける。
この日、ミリアムは大国の一軍に匹敵するほどの力を図らずとも手に入れたのだった。
これで明日、シャリエにドラゴンが1ダースやってきても平気である。やったね。