四話 ●
その少年の一日は、開け放たれたカーテンから差し込む日の光と共に始まる。
「おはようございます、ミリアム様」
「ひっ……あ、ああ、うん。おはよう」
品良く朝の挨拶をして、ベッドの上の美少年にはにかんだのはベルジェラックに仕える使用人である。
日々の鍛錬により盛り上がった見事な胸筋。ミニスカートの裾から伸びる、若々しく頼り甲斐のある太い脚。
可愛らしいメイド服はぴっちりとしていて、彼女の美しいボディラインを際立たせていた。
「(すげー筋肉…)」
ミリアムほどの美少年でさえ、しばしの間見惚れるほどグラマラスな女性である。
「……え、えっと…今日もピチピチですね」
「まぁ、ミリアム様。男性がはしたないですわ」
「す、すいません」
巨漢のメイドはミリアムの衣服一式をベッドの脇へと置くと、朝食の用意が出来ていることを告げて部屋から出て行った。その際、尻を蠱惑的に振りながらの退出である。
どうやらこのメイドは見掛けの通り、性に開放的な、セックスアピールの上手いプレイガールであるようだった。
「……はぁ」
もちろん年頃の少年にとっては赤面ものである。
扉が閉まると同時、うぶなミリアムはあまりに刺激的な光景を前にして感嘆のため息を零していた。
「朝はもう少しインパクト少なめの人がいいよなぁ…」
公爵家十一日目。
未だに公爵家での生活は慣れない。
▲▲▲▲▲
公爵家時期党首の少女は、昨日の出来事に大いに戸惑っていた。
一夜明けた後でも、甥の言葉が、そのときの衝撃をそのままにぐるぐるとキャロルの頭を回っている。
「朝よ、キャロル。起きないと」
一人呟く。
結局、昨夜は一睡もできなかった。
月が上がり切っても、空が白みはじめても、ただ頬が火照るばかりで、眠気は一向にやってこなかったのである。
「わかってる。あんなのはただのご機嫌伺いよ。可愛いだなんて……そんな訳ないってことは、私が一番よく知ってるんだから」
しかしその言葉とは裏腹に、眉は柔らかな曲線を描いている。
少女は数十回目となる寝返りをうち、柔らかな枕を優しく抱えた。
「……ミリアム」
そして自分とは正反対の甥のことを思い浮かべる。
初めて彼を見たときは、その現実離れした光景に思わず呆然としてしまったものだ。
ーー美しい。
そんなありきたりの言葉では到底形容しきれないほどの美貌。
おお、ミューテリア。美の神よ。
隣にいた名も知らない使用人などは、そう呟いてから祈り始める始末だった。その隣も、その斜め後ろもそうだったか。
おお、ミューテリア。これは流石に贔屓が過ぎるのではありませんか?
あの男は本当に、私の姉から生まれてきたのでしょうか?
そしてキャロル自身も。こちらは呪いの言葉であったが。
しかし生まれ持った容姿にあれこれ文句を付けても仕方がない。キャロルは何とか憤りの言葉を飲み込み、色に狂った母を諌め、甥を部屋にまで案内してやった。
思わず睨んでしまったが、それでもこの内の不満を甥に向けるのは見当違いだと理解していたし、難癖付けるつもりもなかった。彼さえ良ければだが(こんなブスでいいなら、という意味である)よい関係を築きたいという気持ちもあった。
その魔法の才が露わになる前までは。
『まこと、才人であるな』
『あの容姿に加えて杖までお使いになられるとは』
『真面目で、驕らないお人柄らしい』
『こら、キャロル様の前では話すなよ。気の毒な思いをさせてしまう』
惨めであった。
いっそ家督などくれてやろうかとも思った。
ミリアムはあらゆる面でキャロルよりも優れていたのだ。
そしてよりにもよってそんな彼に、その世の全ての祝福を受けてきたであろう美しい甥に、キャロルは生まれて初めて「可愛い」と言われた。
「ふふっ」
思わず含み笑った。
頬は緩みっぱなしだ。
キャロルの嫉妬と劣等感は、新しく生まれた好意とグチャグチャに混ざり合って、本人さえ理解し難い不安定な感情となっていた。
可愛い。綺麗。
嘘つかないで。ズルイ。
そんなことない。綺麗だよ。
ばか、やめて。
キャロル姉様。好きだ。可愛い。
私は可愛くない。嘘つき。適当言って。
「ふふふ…」
枕に顔を埋める。
何だか自身が湧いてきた。こんなに前向きな気持ちは久しぶりだった。
「……」
意を決して、チラリと姿見に視線をやる。
そこには変わらず、前衛的な笑みを浮かべた気持ちの悪いブサイクが間抜け面を晒していた。
紛れも無い自分だった。
「…………」
深々と落ち込み、無駄な幻想を抱かせたミリアムを恨む。すると、また「可愛い」「綺麗」が頭の中でぐるぐる回り始める。
「ふふっ…」
気分が良くなる。
つまるところ、昨夜からキャロルはこの繰り返しであった。
▲▲▲▲▲
正午である。
パンと僅かな鶏肉、果物といった簡素な昼食を済ませたミリアムは、午後の授業を前に食休みを取っていた。
場所は物干し場となっている一角。
よく晴れた日で、頬を撫でる風が気持ちよかった。
「まぁ! ほら、ミリアム様よ!」
「お美しい…」
「でも庶子なのでしょう? 名門の主として相応しいお方とは…」
「ねぇ、例の噂は知っていて? 実のお母様からって話よ」
洗濯に勤しんでいたメイドたちが、新しく主となった少年を見てひそひそと噂話を始める。
可愛らしい顔を寄せ合って、少女たちが楽し気に話す姿はこの屋敷ではどこでも見られる光景である。
何せこのベルシェラックのメイドたちといったら、みな選りすぐりの美形揃いなのだから。
「全く、皆さん好き勝手仰るんですから。こそこそせずに、ご本人と直接お話すれば良いではありませんか」
「え?」
「あ、ちょっと」
そんな中、輪の中から外れてミリアムへと近ずく、一人のメイドの姿があった。
「こら、アニー!」
そう呼ばれたのは、美しい金髪を翻して歩く猫目の美少女だ。歳不相応の長身と見事な逆三角形が、その童顔と相まって、犯罪的な魅力を彼女に与えていた。
「ミリアム様」
「ひっ…」
一人屋敷の壁に寄りかかり、ぼうっとしていたミリアムだったが、突然現れた巨体の主に驚きの声を上げてしまう。
「(で、でかい…二メートルは優にあるぞ、これは…)」
正に見惚れるとはこのことである。
アニーと呼ばれたメイドも、類稀なる美少年からの視線に満更ではない様子だった。
しかし今はそんなことはどうでも良い。
アニーは自分の容姿が人より優れていることを自覚しているし、また密かに自信を持っていたが、取り立ててそれを誇る性格ではなかった。
それは良く同僚から「男に興味ないの?」と言われるほどの淡白さで、アニーはその度に嘆息をついていた。
それが正鵠を得ていたからである。
アニーは男に興味が無かった。というより、恋愛に興味がなかった。
自分が脇を通れば男は皆熱い視線を向けてくる。女は嫉妬。それらの対応はただただ面倒なだけで、アニーは次第に恋だの下らない、と思うようになってしまった。
故に彼女は、この女っぷりにも関わらず、これまで恋人をつくったことがなかった。
「…………」
「あ、あの…何ですか?」
だからこそ腑に落ちない。これまで多くの注目を集めてきたアニーだからこそ。
この少年からは、自分に向ける好意の意思がまるで感じられなかった。
確かに男性らしく、この盛り上がった胸筋や、がっしりとした太ももに視線はいっている。
だが、そこに嫌らしさは微塵もなかった。まるで珍しいものを見るような、小動物が人を見て警戒するような、そんな気配しか感じられなかったのである。
アニーは俄然、この少年に興味が湧いていた。
「このようなところでどうされました? お部屋までご案内致しましょうか?」
「ああ、いえ。迷ってしまった訳じゃないんです。少し休憩のつもりで……あ、邪魔だったら向こうに行きますから言ってください」
「そんな。邪魔だなんて…」
庶子とはいえ、ベルシェラック公爵の血を引いた身分ある人である。その上この美貌。
同じ条件で人が育てば、10人中10人が多少なりとも驕った性格になって当然だというのに、この少年は謙虚で、とにかく相手を立てる。それがいち使用人であろうともだ。
「ミリアム様は勉学では特に魔法に力を入れていらっしゃるのだとか」
「はい」
「なぜでしょう。男性なら…貴方ほど恵まれたお生まれなら、杖など使えずとも、何でも望まれたことをできますでしょうに」
あまりにも失礼なもの言いに、後ろのメイドたちは冷や汗を垂らした。
「魔法が楽しいからでしょうか」
それを知ってか知らずか、ミリアムはキョトンと答えたものだった。
「楽しい? 魔法学が?」
アニーは眉を顰めた。
それが理解し難い感覚だったからだ。
「(あの複雑奇怪で、危険極まりない魔法が楽しい?)」
ベルシェラックのメイドは一流だ。
容姿、能力、品性、それらの全てを兼ね備えたものだけが、その高禄を食むことを許される。
アニーはその能力という点を、高い魔法の力を示すことで乗り越えていた。
「(馬鹿な、楽しい訳がない。アレはそんな単純なものではない。才能の上に努力を重ね、我慢に次ぐ我慢……血と痛みの先に、ほんの僅かな成果を得られる。そんな技術だ)」
思わずミリアムの黒い瞳を覗き見る。
そこには何ら特別な色はない。そして、だからこそわかることもある。
「……っ」
理解した。
この方は、本当にどこまでも純粋なのだ。
「えっ…あの…」
アニーは自然と膝を折って頭を垂れていた。試すような真似をした自分が恥ずかしかったからだ。
権威にではなく、ミリアムという個人に向けての礼だった。
「不躾な質問、申し訳ありませんでした」
「か、構わないですよ。頭を上げて下さい」
柔らかな口調である。
本当に何とも思っていないのだろう。
「(心優しい少年なのだ)」
これ以上は困らせるだけかと思い、アニーは言われた通りに首を持ち上げた。
「……っ」
そうして顔を上げると、ちょうどミリアムの黒髪を弄び、風が吹きすさんでいくところだった。
艶やかな黒髪が、ふわりと春風に舞う。
「……ぁ…」
思わず目を奪われた。
白い肌にかかった、幾筋かの乱れた黒髪。
その態勢から自分を見下ろす黒い瞳。
血の通った赤い唇。
「〜〜〜〜!」
アニーの頬が紅潮する。咄嗟に抑えた。あつい。熱を持っている。
風邪か。いや体調は万全のはずだ。
「(そ、そんな。まさかこんな簡単に…この私が…)」
恋。
口にすれば溶けて消えてしまいそうなほど不確かな感情。
それも当然。何せ初恋である。
「う、ううっ…」
これからアニーは、この小さな恋心に少しずつ水をやっていくことになる。
同い年の娘たちと同じように恥じらいながら。時に落ち込みながら。想い人の行動に一喜一憂して。
「あ、あの」
「っ! 失礼しました。何でしょう」
「大丈夫ですか? 顔が真っ赤だ」
ーー見られた!
アニーの獅子のように勇壮な顔に、さらに血の気が集まった。
「も、問題ありません。それよりも随分と長い休憩のようですが、午後の授業は宜しいのですか?」
「あっ! ま、まずい!」
ミリアムが弾かれたように駆け出していく。
その小さな背中に思わず手が伸びそうになったが、何とか自制することができた。
「……ミリアム様」
少し出かけた右手をキュッと胸元に引き寄せる。まるでそこに彼の残り香が残っているかのように。
「……ふふっ」
よく王都の恋愛小説に見る身分違いの恋。そんなベタな展開。
そこに己が足を踏み入れたことが、アニーは少し面白かった。