三話
ベルシェラック公爵家の三女は希代の醜女である。
二年前、この噂を偶然耳にしてしまったとき、キャロルはどこかで聞いたような話だと思ったものだった。
そう、自分が産まれる前に重い病を患い、東の屋敷で療養生活を送っているという二番の姉、アンジェリーヌ。彼女もまた、自分と同じように醜女だと噂されていたのだと。
話を聞いてみたいと思っていた。
舞踏会や晩餐会で向けられるあの視線を、姉上はどうやって耐えていたのですかと。次期当主として頑張れば、人の目を気にしないでいられるようになるのですかと。
しかしその矢先である。アンジェリーヌは急死した。
まだ顔も見たこともなかった。葬儀が初めての顔合わせであった。
棺で眠る姉の顔は確かに醜かった。
自分によく似ていると思った。
しかしそこには、醜女と罵られ、生きることに疲れた女の気配は感じられなかった。
満ち足りた、私は女として最高の幸せを手に入れたのだと宣言するような、そんな表情がありありと浮かんでいたのであった。
▲▲▲▲▲
母が死に、ミリアムが侯爵家に住まうこととなり五日間が経過した。
礼儀作法、領地経営、その他にも様々な異界の学問を一日中学ぶ羽目になりうんざりしていたミリアムであったが、ついに本日、待ちに待った魔法の授業が始まることとなる。
そう、カリキュラムの中には魔法学なるものがあったのだ。ミリアムは神に感謝した。
「ごほん。どうもはじめまして。ミリアム」
「はじめまして! 先生!」
場所は屋敷の地下にある修練場。
石壁に囲まれた部屋の中、緊張した面持ちのミリアムと眼鏡をかけた初老の女性が向かい合っている。
女性の方は黒いローブを身にまとい、いかにも熟練の魔法使いといった風情であった。
「魔法学担当のコリーヌ・ド・ボードレールと申します。炎の属性魔法の第一人者。生国セレストにてサラメル魔道勲章を受勲し、二つ名には『魔人』を冠することを陛下よりお許し頂いております」
老いた魔法使いは自信に満ち溢れた顔でつらつらと語る。
「貴方はこれより、この『業火の魔人』に師事することとなります。我が名を聞いたことは?」
「ご高名はかねがね! 魔人どのにご指導頂き光栄です!」
淀みなく答えたものだったが、十二年もの間籠の鳥であったミリアムが彼女の名を知っているはずがない。
しかしコリーヌは満足そうにひとつ頷くと、気分良く第一回目の授業を開始するのだった。
「第一回は魔法の基礎知識について話していこうと思います。貴方は十二年もの間母君に......えー。まぁ、そういう事情もあり、一般常識が多少欠けていることについて、私は責めたりなど致しません。しかしそれを言い訳にせず、よく学ぶように」
「はいコリーヌ先生!」
この美しい少年の不幸を知らされていたコリーヌは言葉を濁して伝えたが、当の本人には堪えた様子がまるでない。そのキラキラとした黒い瞳をからは、実直なまでの学ぶ意思が感じられた。
「......貴方ほどの容姿を持つ男子ならば学問など。ましてや戦いの為の魔法などは覚えようともしないものですが...またその必要も無いのですが......貴方はひたむきですね」
「ありがとうございます! コリーヌ先生ほどの方に魔法を教わることができて嬉しいです!」
繰り返すが、ミリアムは彼女のことなど何一つとして知らない。
「よろしい。さぁ、では早速実践を交えながら説明するとしましょう」
コリーヌの授業が始まる。
「『永劫の灯火よ』」
コリーヌがそう唱えると、彼女のしわだらけの手のひらに拳大の火球が出現した。
「お、おおお! せ、先生! それは!?」
「ふふふ。こんなものは手慰みに過ぎませんが...よく見ていなさい」
コリーヌが火球を両手で包み込む。
「これを...こうです」
するとどうだろう。
拳大だったはずの火球がぐんぐんと大きくなっていき、その形も球体からより複雑に変形し始める。
「......ふむ。良い出来です」
そして変形がピタリと止まったとき、そこにあったのは巨大な炎の竜であった。牙の一本、鱗の一枚に至るまで、炎は歪みなく形作っている。
「凄いです先生!」
ミリアムはそのファンタジーな光景に飛び跳ねんばかりに喜び、コリーヌを賞賛した。この魔法を是非とも教えてもらいたいと思ったのだ。
「膨張・自在の法といいます。まぁ、属性魔法の基礎技術とでも申しましょうか。火を膨らませ、形を自在に動かし、固定する技ですね」
「魔法ではないのですか?」
「火を生み出すまでは魔法です。そこからは最小限の魔力を使い形を整えただけに過ぎません。魔道の道を進むのならば、このような技術を幾つも覚えねばなりません。そうすれば大仰な名のついた沢山の魔法など不要。一つの魔法を長い時間をかけて鍛え上げることが大切なのです」
実感の篭った言葉であった。
「そ、そうでしょうか。空から何千本もの炎の剣が降ってくるとか、あらゆる物を燃やし尽くす絶対に消えない黒炎とか、僕はそういう魔法も使ってみたいです」
「不要です」
コリーヌは動じることなく断じると、火の竜を解き、幾つもの剣に変形させると宙に控えさせた。
正に先ほどミリアムが口にした魔法であった。
「こうして形を変えるだけならば自在の法でこと足りるのです。鉄さえ燃やしたいのなら火練の法。水に対抗するなら抗水の法。色を変えたいのなら潤色の法。良いですか。王都の見栄張り軍人のように、沢山の魔法を使える割りにはどれも似たり寄ったりな結果しか残さない。そんな無駄は省かねばならないのです。人の一生とは長いようでとても短い。本当に必要な幾つかの魔法だけを覚え、それらの質を最大限に高めることこそが魔道を極めるための最高の近道となるのです。わかりましたか?」
早口にそう言い切ると、コリーヌは厳しい目で目の前の教え子を見やる。
「わ、わかりました...」
不承不承といった風だったが、ミリアムは頷いた。魔法に憧れを持っていたようだったし、この程度ならば仕方ないだろうとコリーヌも納得する。
「では続けます。属性魔法、自然魔法、契約魔法。魔法の種類がこれら三つに分かれることは知っていますね?」
「はい!」
全て初めて聞く単語だったが、ミリアムは元気良く返事をした。全て今覚えればいいと思ったからだ。
その日から数日間、ミリアムは張り切って魔法学を学ぶのだった。
▲▲▲▲▲
「キャロル姉様」
「......何か用かしら。ミリアム」
刺々しい声が出たと自分自身でも自覚した。しかしそうする以外で、自分にどんな態度をとれというのか。キャロルは憂鬱な思いで、所在なさげに立つ甥へと視線を向けた。
場所は屋敷の地下にある魔法の修練場。
キャロルとミリアムの二人は、今そこで久々に顔を合わせていた。
「あの、キャロルさんのことは姉と思えと公爵様...お祖母様に言われて」
「そう。それで何? 修練場を譲れと言うならそうするけど」
「いえいえ。そんなつもりはこれっぽっちも。ただあの、キャロル姉様は自然魔法がお得意だと聞き及びましたので。是非とも御教授頂ければなと」
「......いいわ。じゃあ外へ行きましょうか。地下じゃ操るものがないものね」
「いえ、姉様の特訓が終わってからでも…」
相変わらずこの甥は遠慮がちのようだ。
「疲れきった状態で貴方にものを教えろと? 将来有望な大魔法使いの卵どのに?」
「......は? 大魔法使いの卵、ですか?」
黒曜石の瞳をぱちりと見開いて驚くミリアム。
果たして演技か、本当にわかっていないのか。いや、後者であろうことはキャロル自身わかっていたのだが、容姿、魔法の才能、驕らない優れた人格性。
この全てで敗北したとなると己があまりにも哀れだった。
「ええと。ご指導のほど、よろしくお願いします」
「ええ」
二人は地下から出て、小さな森に隣接した屋敷の庭へと出た。外の修練場である。
「では、自然魔法の基礎はどの程度まで収めているのかしら」
「はい。それがうんともすんとも……属性魔法の方は問題なく使えるのですが…」
「ちょっと待ちなさい。貴方、魔法学を始めてまだ十日じゃなかった? それでもう属性魔法を成功させたというの?」
「あ、はい。そうです」
コリーヌ先生にも覚えが早いって言われました、と照れながらはにかむミリアムであったが、とんでもない話だ。
とてもではないが、覚えが早い程度で済ませられることではない。
「……まぁいいわ。今は自然魔法だものね。では適当な草木を動かしてみなさい」
「はい!」
ミリアムは威勢良く答えると、言われた通りに足元に生い茂る雑草の一つに自然魔法で干渉した。
「……っ、やはり駄目みたいですね。干渉力を弾かれる感じです」
「自然魔法は属性魔法の雛形よ。だから属性魔法が使えて自然魔法が使えないなんてことは中々ないはずなんだけど」
逆の例なら沢山あるけどね、と自嘲気味に呟くキャロル。その様子から暗い空気を感じたミリアムは、その意味を聞くことに逡巡する。
しかしキャロルはそんなミリアムを一瞥したのち自嘲の笑みを深めると、あっさり口を開いたのだった。
「私は別にね、自然魔法が得意な訳じゃないのよ。ただそれ以外の魔法がまともに出来ないから、仕方なくそう名乗っているだけ」
「……仕方なく?」
何でも、一般的に最もその使い手として尊敬の念を集めるのが属性魔法で、珍しがられるのが契約魔法であるらしい。
対して自然魔法の使い手は低く見られがちなのだとか。
「別に愚痴を言っているわけじゃないのよ。ただ、属性魔法が使えるなら自然魔法の練習なんてしなくてもいいと言っているだけで」
「あの、それでも…」
「わかってるわ。お母様の…貴方のお祖母様のいいつけだものね。付き合うわよ」
「いや、そうじゃなくて…」
ミリアムはキャロルの周りの空気が少し淀んでいるように感じた。勿論比喩であるが、言い換えれば「負のオーラ」を纏っているように思ったのだ。
「キャロルちゃんって…」
「っ!」
ミリアムの精神年齢は高い。故にこの十三歳の少女のことを、内心では年下扱いしてそう呼んでいた。
しかし慣れないことをすれば綻びも出る。今回はミリアムの思わず吐いて出た口に、キャロルが目を剥くこととなった。
「(一つ下とはいえ、甥にちゃん付けされるなんて!)」
キャロルの顔が赤く染まっていく。
純粋な、何も知らないような風を装っていてもこんなものだ。やはりこの男も内心では自分のことを見下して笑っていたのだ。
「くっ…」
陰口ならば兎も角、こう正面から馬鹿にされてはいつものように我慢するのも難しい。
キャロルが怒りの形相を湛え、大声で叱りつけようと息を吸い込んだそのときだった。
「すげー可愛いのに、自分に自信ないんだね」
ミリアムが何でもないような調子でそう言った。
続けると「キャロルちゃんってすげー可愛いのに自分に自信ないんだね」ということになる。
「…………」
肺に入った空気が、行き場をなくしてその場に留まった。
「……はっ! あ、いや。す、すいません、つい気安く…」
ようやく呼び方を間違えたことに気付いたミリアムが、慌てふためいて頭を下げる。
しかしそんなことはキャロルの意識の外だった。
「(か、可愛い? 私が? す、すげー可愛い?)」
紛れもなく、十三年間の人生において初めて言われた言葉だった。
その上「とても」という修飾語までついている。
セットで二倍ということだ。
キャロルは混乱した。
「あなた! な、ななな…!」
「申し訳ありません! でも決して馬鹿にしたとかそういうのではなくて!」
馬鹿にしたのではない。皮肉でも世辞でもない。
だとすれば本心だとでも言うつもりか?
「なな、なにを言って…」
「本当にすみません! キャロル姉様が凄く綺麗だから、仲良くなりたいって思って…!」
今度こそ世辞だった。
失言を許して貰おうとしたミリアムのご機嫌伺い。おべっかである。
しかしこれによって、キャロルの脳は許容外領域へと至った。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「キャ、キャロル姉様! 申し訳ありません! 待って!」
木々に絡みついた数本の蔦を操り己の身体を持ち上げると、キャロルは屋敷の屋根の向こう側へと消えていってしまった。
驚くべき早業。ほんの数秒間の出来事である。
「ど、どうしよう……追い出されるかも…」
後に残ったのは顔を真っ青にして立ち竦むミリアムだけだった。
彼はしばらくそうして落ち込んだ後、引越し後初めてとなる失敗を嘆きながら部屋へと引き返して行くのであった。