一話
ベルジェラック公爵家の次女は希代の醜女である。
これは当時、王宮の貴族から市井の民人まで、誰もが知る噂話だった。
いわく、五歳で実父であるベルシェラック婦人(夫人ではなく)をその笑顔で気絶させ、十歳で謁見を許した女王陛下が同情のため息を零したとか。
それでも公爵令嬢は健気であった。腐らずに社交の場へ出て務めを果たし、言葉にすることも憚れるような陰口にも耐え忍んできた。
令嬢は十を幾つも超えない内から己というものを理解していたのだ。
魔力が強く、王族の血を引き、陛下の覚えもめでたく、そして誰よりも醜い自分のことを。
故に十六歳のある日。
両親が選りすぐった婚約者が形ばかりの求婚に訪れたときも、その顔を見るまでもなく申し出に頷いた。どうせ目の前の男の顔には嘲笑か、そうでないなら引きつった笑みが浮かんでいるのだから。
そして顔を上げ、恋をした。
その顔は確かに引きつっていた。
なぜこんな女の元に嫁がねばならないと、己の不運を呪う顔であった。
しかし美しかった。
令嬢が今までに見てきたどんな美人よりも、その男は美しかったのである。
それからは無意識の行動であった。
魔法の力で婚約者の自由と衣服を奪い去ると、令嬢は全裸になってその股座に跨った。
婚約者を強姦したのである。
自由を奪っていても意識はしっかりと残っていたらしい。
数時間に渡る行為が終わった後、婚約者は自失呆然として、恐怖に濁った瞳から涙を零すだけであった。
相手方の家が親交の深い伯爵家だったことは不幸中の幸いであった。ベルジェラック公爵は何とか友人の伯爵を宥めすかしてこの一件を揉み消し、娘には内々に厳しい罰を与えた。
もちろん婚約はご破算である。
元婚約者はあまりの出来事に女性恐怖症に陥り、医者の処方した薬なしでは夜も眠れないほどに憔悴してしまった。
令嬢は未婚のまま日々を過ごし、腹が膨らみ、子を産むことになる。
ベルシェラック公爵家の庶子、ミリアムの誕生であった。
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現代日本の男子高校生であったミリアムが、この中世ヨーロッパらしき世で生を受けて十年が過ぎた。そしてそれだけたてば、自分が今世生まれ落ちた場所が異世界なのだということもわかってくる。
生国のフレンダリア王国、べギア山に住む飛竜、稀に部屋に訪れる妖精、そして魔法。
どうやらここは、ファンタジー色がなかなかに強い世界であるようだった。
「でもそうとわかれば魔法使ってみたいよな」
自室の広いベッドの上、舌足らずに呟いたのは黒髪の少年であった。
世にも珍しい黒髪黒目。対して肌は透き通るような白。
世の淑女たちが見れば、たちまちその虜になるであろう絶世の美貌の持ち主であった。
「でもなぁ...」
少年ーーミリアムは憂鬱気に部屋の扉へと目を向ける。
外からも内からも硬い鍵がかけられたその扉。
「俺、軟禁されてるからなぁ...」
ミリアムは諦めたようにベッドへと上体を倒すと、そのまま静かに寝息を立て始めた。惰眠を貪る以外にすることがないのだ。
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本来、自分のような不細工が得られる職ではない。少し虐められたくらいで何だというのか。病気の父はもっと辛い思いしているに違いないのだ。
ベルジェラック公爵令嬢に使用人として仕える赤毛のメイド、コレットは涙を拭いて己に喝を入れた。
耐え忍ぼう。
村で男の子たちから不細工とからかわれていた幼少時代のように。
耐え抜いて、そして割の良いお給金を得続けるのだ。
「よし!」
持ち前の前向きさで何とか暗い気持ちから脱すると、コレットは顔を上げて無理やり笑顔をつくる。不細工でも最低限の愛想は持っていなければならない。
「あれ?」
そのとき、コレットは屋敷の二階の窓に映る人影を見つけた。
「確かあの部屋は...」
意地悪な同僚に見つからないようにと、ひと気のないところへ逃げてきていたコレットが今いる場所は、屋敷の裏庭の、さらに日の当たらない洗濯場にも使えないような区画である。
故にこの場所から見えるあの部屋も、本来なら身分の低い者が使って然るべきなのだが。
「ミリアム様のお部屋だったかしら...?」
屋敷の部屋割りを思い出しながら、そのままカーテン越しに映る人影を眺めるコレット。
勿論尊きお方が住まう部屋を覗き見ることなど断じて許されないことであるが、噂の庶子王子のご尊顔を拝してみたいという思いも強かった。
同僚の中にもその顔を見たものはいないという。
ミリアムのあらゆる世話は母親である公爵令嬢、この屋敷の女主人が全て行っているからだ。部屋には幾つもの厳めしい錠がかけられ、使用人は立ち入ることを禁じられている。
これでは噂にならない方が不自然というものだった。
「先輩方はミリアム様がとんでもない美少年だから奥様が独り占めにしてるって言ってたけど...」
あの偏屈な醜女からそんな上等なものが産まれるものか。と、コレットは自分のことを棚に上げて考える。
この屋敷の使用人はみんな不細工だから、そうやって夢を見て、身近にいる美少年を妄想して、己を慰めているのだろうと。
「確かめてやろうじゃない」
先ほどまでの落ち込んだ気持ちをすっぱりと忘れて、コレットは興味津々にその人影を凝視し始めた。
屋敷の先輩に虐められた分の意趣返しの意もあったのだろう。普段の彼女からは考えられない、思い切った行動であった。
そしてそれから少しして、二階のカーテンがパッと開け放たれる。
さぁその有難い面を見せてみろと意気込んだコレットだったが、己の瞳に飛び込んできた、この世のものとは思えない光景にしばらく惚けることとなった。
「.........あ」
天使がいた。
美の神ミューテリアは、何を思ってこのような不公平を成したのだろうと思った。普段祈りなど形だけのコレットが、この時ばかりは本心から祈りの言葉を口にした。それほどまでの衝撃だったのだ。
艶やかな黒髪がさらさらと、その細っそりとした肩まで流れている。
日の光を受けてより一層白く輝く白い肌は、処女雪のように穢れを知らない。
まさに黒真珠のような煌めく両の瞳。見るものを狂わせ、己を求めるように仕向ける魔性の光を宿している。
「すごい...」
感嘆の言葉であった。
しかし優れた容貌を褒めるためのものではなかった。言うなれば美術家が陶芸品を見てそうするように、人が天上の神々を見上げるように、何の含みもない、穢れなき感情であった。
そしてまたしても驚くべきことが起こった。
その窓際に佇んだ天使が、コレットに向けて微笑んだのである。
視覚のみで気絶しそうになった。
人とは、これほどまでに美しく笑えるものなのかと驚愕した。次にその相手が自分であったことに疑問を抱いた。とっさに辺りを見渡した。誰もいなかった。
「あ、うぅ...」
勇気を振り絞って手を振ってみる。
ここで嫌な顔でもされればコレットは失意のあまり自ら命を絶ってしまっただろうが、少年はニコリと笑って手を振り返してくれた。
村一番の不細工と呼ばれたコレットに向かって。
「あっ、ああ...!」
コレットはそのまま小一時間、とっくにカーテンは閉まっていたが、二階の窓に向かって手を振り続けていた。
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ミリアムはこの母親が嫌いではなかった。
「ほら、はい。お召しになって。美味しいでしょう?」
「うん。美味しいよ」
「良かった。今日は良いお肉があったから、黄白菜にくるんで、優しい味付けにして、トリアのソースで煮込んでみましたの」
「うん」
「あら、どうなさったの? お、おトイレかしら?」
「う、うん」
「そ、そのままにしていらして。わたくしが、全部してさしあげますからね」
「............」
「はぁ...はぁ...き、綺麗にいたしましょうねぇ...」
「............」
「は、はい。で、ではわたくしは、このお小水を外へ捨ててまいりますので」
満面の笑みで重くなった尿瓶を持ち、部屋からそそくさと去って行く実母。
「......はぁ」
少し精神に異常があるんだろうな、とは薄々感じていた。
実の息子を監禁して、食事の用意からしもの世話まで全部自分でして、そしてわかりやすく興奮する。
日本なら全国ニュースものの変態痴女である。
それでも、何故ミリアムがこの母を嫌いになれないかというと。
「すっごい美人なんだよなぁ...」
そこであった。
黄金のような金髪に深い緑色の瞳。
まだ十代の面影を残す、いつまでも若々しい美貌の母。
「くそー、何でお父さんはあんな美人をほっぽらかして行くかな」
母は未だ未婚。つまりシングルマザーであるらしい。母は父のことを愛していたと言っていたし、レイプされたわけではないと思うのだが。
ミリアムうんうんと唸って、どうにか外へ出してくれるよう説得できないものかと考えを巡らせる。それが無理でも、せめてトイレくらいは一人でしたかった。
「あー!」
考えが煮詰まってしまった。
ミリアムは気分転換のため、唯一の外界との接点である硝子張りの窓へと近寄って行く。
カーテンを開けるのは母に禁じられている。
「ふっ、いけない風だ」
しかしそんな言いつけを守っていては、十年も同じ部屋では過ごせない。
ミリアムは勢いよくカーテンを開けると、体いっぱいに日の光を取り込んだ。
「んー。やっぱり人間、お日様の下にいなきゃ健康に悪いよな......って、おお! 誰かいる!」
久しぶりに見る母以外の人間。
その上若い女の子で、美少女であった。
向こうも気がついているらしく、ミリアムをポカンと眺めている。
「(か、可愛いな......あの格好、もしかしてウチのメイドか?)」
癖のある赤毛の少女であった。
歳は十五ほどだろうか。
くりくりとした瞳の、栗鼠を思わせる可愛らしい顔立ちだ。
「(話だけは聞いてたけど本当に使用人いたんだ......じゃあ公爵家って話もマジなのかな。俺が王族の血を引いてるって話も...)」
公爵令嬢は現女王の従姉妹に当たる。故にその息子であるミリアムは、女王の従甥となるのだ。
「(ドラマみたいな権力争いに巻き込まれなきゃいいけど......っと、折角の美少女との人との触れ合いだ。大事にしなきゃ)」
ミリアムは気をとりなおして少女へと目を向けると、精一杯の笑顔を作って笑いかけて見せた。
「(キモイとか思われないかな)」
ミリアムは自分の容姿に自信がない。
毎夜窓硝子を鏡代わりに見てくれを確かめているのだが、十歳という年齢を差し引いても、何とも幸の薄そうな、華のない、柔弱な顔立ちであったのだ。
前世では男らしく精悍な美丈夫であったミリアムにとって、これは落胆ものであった。
「お、おお...」
しかしミリアムの心配ごとは杞憂であった。
少女はやおら周囲見渡すと、恥ずかしそうに小さく手を振ってきたのである。
ミリアムも嬉しくなって手を振り返し、しばらくの間ふたりでそうしていたのだが、ガチャガチャと鍵穴のたてる音に中断を余儀無くされた。
「やべっ...」
とっさにカーテンを閉めてベッドへと寝転がる。
突然部屋に引っ込む形となり、あの少女が気を悪くしないか心配だった。
「......何かありまして?」
「う、ううん。何も」
部屋に入ってきた母に、不自然にならないよう対応するミリアム。
「......そう。あら、カーテンが乱れているわね」
「え。そ、そう? 僕にはちゃんと整ってるように見えるけど」
「乱れていますとも」
公爵令嬢はぴしゃりとそう言うと、窓際へと近寄ってカーテンの隙間から顔を覗かせた。
「......あの醜い犬を見ていらしたのかしら」
「......あの」
「いけないわ。変に懐かれて、乱暴でもされたらどうするおつもり?」
「い、いや。部屋から出られないんじゃ乱暴なんてされないよ」
「まぁ。その通りね。ではこれからもずっとここにいらしてね」
「............」
やぶ蛇であった。
結局これから二年後。母である公爵令嬢が謎の不審死を遂げるまで、ミリアムはこの籠の鳥の生活を続けることになったのだった。