君がポラリス 4
それからは週末の度に朱音さんが俺の家に来るか、俺が朱音さんの家の畑に行くのかが普通の生活になった。
その合間に朱音さんは、大学の傍のアパートを借りたと聞いている。
今日は週明けの実力テストの勉強がある為、朱音さんが俺の勉強を見てくれる。
「私が見てあげると言っても、敏也君の方が私より出来るんじゃないの?」
俺はかつて朱音さんが使っていたノートを使って勉強しているだけだ。ノートの持ち主は、今は実家の家業を手伝っている朱音さんのお兄さん。この人は凄い秀才で証券会社に勤めていたらしいが、株価の暴落のダメージが回復した頃にいきなり証券会社を止めてこっちに戻って来てしまった。
何があったのか、本人はあんまり話してはくれないけれども、事件になる様な事は一切にやっていないから安心しろと笑って言う。そして今は、農業時々デイトレーダーをして朱音さんの家の資産管理と運用を任されていると言う。それと同時に朱音さんの家で取れる農産物をネット通販できる様にしてそっちの管理もしている。ネット通販にしてから、朱音さんの家の資産が増えているらしい事は設備投資を積極的に行っているところから明らかだ。
こっそりと教えてもらったのは……既に生涯賃金分をデイトレードで確保していると言う。今はおじさん達が何かあった時の為に困らないお金と朱音さんの資産運用が楽しいと言っている。朱音もずっと研究に没頭しても十分なだけ資産は増やしたから安心して勉強しろ……なんて言われている。
そんな俺も、お兄さんに中学まで溜めていたお金を運用して貰っている。定期的に俺も運用実績を見せて貰っているのだが、相当リスクの高い運用を効率的に使ってくれているお陰で調理師学校と製菓学校に通えるだけの金額までに増やしてくれている。
親達の方も、料理人でも別の道に進もうと俺に学費は気にするなと言ってくれるので、まずは学校の勉強をしっかりやらないと思っている。出来れば語学だけでももう少し成績を上げたいな。今の段階で英語の順位は学年上位十人には入っているのでこの調子で頑張り続けたい。俺の前の九人の進路希望は英文学志望とか外国語学部志望の連中ばかりだ。進路が決まってからでいいからフランス語とイタリア語を少しずつ覚えいて行きたいと思っている。
「敏也君、本当に大学はいいの?」
「うん、どこかの大学で語学の聴講生になろうかなとは思うけど、その程度だよ。やっぱり僕が進む進路は技術優先だからさ。語学は、英語がそれなりに話せればどうにかなるとは思うんだけどね」
「そうなのね、このテストが終わると……私も卒業なのね」
「そうですよ。とりあえず最低限の料理は出来る筈なので、安心して一人暮らしをして下さいね」
「ちゃんと、敏也君もこっちに来るんだからね」
「そうやっていうのはいいですよ。幼馴染としては嬉しいです。でも……朱音さん。大学で彼氏が出来たらどうするつもりです?」
俺が朱音さんの事が好きでも、朱音さんが俺の事を好きだとは限らないじゃないか。
「どうかな?敏也君といると安心なのよ。何も言わなくても分かってくれるし」
「それは過大評価ですよ。朱音さん」
「とりあえず彼氏といるより敏也君といる方が楽しいから、このままが一番。ちゃんと上京しなさいよ」
エールなのか、脅しなのかよく分からない言葉を言って朱音さんは大学進学の為に上京して行った。
朱音さんがいなくなってからの俺は、部活に集中する時間が圧倒的に増えていった。そして文化祭の方は一年の時の企画を引き継いでいく事が早々に決まって、去年よりは少しだけリッチになった外装と内装でお客さんをもてなす事になった。ジュースの方も、去年よりも更に仕入れ単価を下げる事もできたし、俺の方はバターの価格は上がってしまったけれども、調理部の発注も込みで業者を一括したために結果的に仕入れ原価を大幅に下げる事ができた。今年の焼き菓子は、クッキーとマドレーヌを焼く事が決まった為、去年よりは俺の作業が増えたけれども、準備から自宅でも料理をするメンバーが俺のサポートをしてくれる。前日の今日は、昨日までに仕込んであったアイスボックスクッキーを焼くグループと生地を作っていくグループに分かれている。俺がしているのは、クッキー生地を切り天板に並べていく。去年よりハイピッチで作業が進むのでクッキーの方は前日までに販売予定分のほとんどを焼きあげる予定だ。今年はお持ち帰りが欲しいというリクエストがあったので、子袋に入れて包装したりしているらしい。この調子だと来年はもっとエスカレートしていきそうな予感がしている。
ビックリしたのは、去年捨ててしまったであろうと思っていた鉛筆画を残してあった事だ。あの後完成したノートと冊子になったリレー小説と少し書いたしたノート。教室の後ろに折り紙好きの有志が集まって作った折り紙ハウスが並んでいる。どことなくヨーロッパをイメージさせるその折り紙の家は本当に手が込んでいて、パーツを組み立てて立体的な家になっている。小さな家、大きな家、マンション。お店屋さん……とにかく細かく作ってあって見るだけでも楽しいが、組み立て作業を手伝った時は、本当に殺気立っていた。この作品達も誰かの家でしまっておくのだろう。
今年はミステリーとコメディーの他に西洋ものとラノベに挑戦するという。去年の経験が生かされていて、最初の設定もかなり緻密に書かれている。設定用のノートにはイラストを描くのが得意なメンバーがイメージイラストを使って丁寧に説明がされていた。
文系部とのタイアップは今年は企画スタートの時点で決まっていて、ノート置き場に文芸部の冊子も置かれている。それとイラストの冊子も追加された。逆に文系部の方には、俺達のクラスで纏めた初代リレー小説の冊子が置かれている。
調理部の方は今年は洋食のレストランという事で準備を進めている。俺の担当は前日の今日は野菜を刻む事。玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ。クッキーの方を見ながら椅子に座って皮を剥いて指定された切り方で切り刻んでいく。切り終わったものはシチューとしてすぐに仕込みが入るものや、ハンバーグの炒め玉ねぎにどんどん変化していった。
「調理部も大変なのね」
「調理部は今日の内に作れるものは作ってしまうから今日が一番大変なんだよ。明日は午後から翌日の仕込みが始まるから午前中はそんなに忙しくは無いと思うよ」
「そうなんだ。桐谷君って、去年ずっと家庭科室に籠っていたから大変なんだと思っていた」
「去年の調理部は和食だったからそんなに忙しくなかったよ」
「でも、去年の卵焼きは桐谷君が作ったって聞いたけど?凄く美味しいんでしょう?」
「どうだろう。店のレシピで作っているだけだから」
「でもお家は継がないんでしょう?もったいなくない?」
管理栄養士を目指している女の子が俺に問いかける。
「兄貴達が板前で仕事しているから俺は別にそこまでしなくてもいいかなと思って」
「ふうん、甘ったれな末っ子じゃないって……なんかかっこいいな」
「そうだな。俺達もそろそろ進路を決めないといけないよな」
今は高校二年。そろそろ自分の進路を決めた方がいいとは思う。
「どうかな。方向性が決まっていたらいいんじゃないか?職人系に進みたいってなると話は別になると思うけど」
少なくても、先生と呼ばれる職業になりたいのなら、明確にビジョンがないといけないとは個人的に思う。
「サラリーマンでいいやなんて、甘ったれてるな」
「そんなことないだろう。どんな会社に入るだけでも違ってくるじゃないか」
「そっか。そこから調べて行けばいいのか。桐谷……俺の兄貴より十分兄貴っぽいけど」
そんな事言われて嬉しいと思う奴なんているのだろうか?
「桐谷君、頑張れ」
皆に励まされながら、俺達はのんびりと作業を続けるのだった。
学校が休みになっても朱音さんが帰ってくる事は無かった。休みの間は学校から紹介された農場で実習を兼ねてアルバイトをしているという。俺が三年生になった時のゴールデンウィークに久しぶりに朱音さんに会う事が出来た。そこで目にしたのは、俺と過ごしていた時よりほっそりとした朱音さんの姿だった。
「久しぶり敏也君。調理部の部長なんだって?」
「僕に押し付けられちゃいました」
「あはは。でも敏也君なら調理部をより良くしてくれるわ」
「それじゃあ、もっと頑張りますね。ところで、大学の人達を連れてきたんですか?」
「うん。田植えをしたことないってメンバーを連れて来たの。教授も一緒なんだけどね」
一人だけちょっと年を取っている人は教授なのか。でもその人は俺が想像した人より若い人の様な気がした。
「結構若い教授なんだね」
「そうだね、でも凄い人なんだよ。敏也君も田植えの手伝い?」
「そうですよ。でも今年はこっちでお昼の支度して欲しいって」
「なるほど。母さんらしいね。うちの台所は分かるでしょう?」
「もちろんです。今日は外で食べれる方がいいと聞いたので、僕の家からバーベキューセットも持ってきますね」
「それ……大丈夫?」
「大丈夫です。ご近所には話をしてありますから」
「それじゃあ、よろしくね」
朱音さんは大学の人達の所に戻っていく。そんな彼女を見送ってから彼らに会釈をして俺は朱音さんの自宅に行く事にした。
お昼は、おばさんの家の簡単なお昼にすることにした。お握り、卵焼き、野菜の煮物。卵以外は朱音さんの家のものを惜しみなく使っている。朱音さんの家は味噌も作っているから美味しいのだ。
午後の作業は少し早めに上がると言う事だったので、おばさんからお金を預かったのでバーベキューの支度をする事にした。商店街のお肉屋さんに言って、おばさんが注文したであろうお肉を貰って、八百屋さんでバーベキュー用の野菜も貰う。俺の自宅に戻って、おばさんに頼まれていた自家製バーベキューソースを冷蔵庫から取り出す。アルコールは皆車で来ていると聞いたので今回はノンアルコールビールでいいだろう。
俺がバーベキューソースを取り出しているのを見ていた両親が、朱音さんの家に差し入れと言って店の在庫であると思われるノンアルコールビールの段ボール箱を一ケースくれた。
「いいの?」
「大丈夫よ。店のは冷えているけど今日は営業していないし。家で飲む分も同じものだから一ケース位はあるわよ。ここでのんびりしていられないんでしょう?さっさと行きなさい」
俺は両親に背中を押されて再び朱音さんの家に向かうのだった。
午後四時を過ぎた頃、朱音さんの家に皆が戻ってきた。既にいつでも焼けるように肉はクーラーボックスの中に入れてあるし、炭もさっき火をおこしたばかりだ。そして朗らかな空気のままバーベキューは始まった。
「ありがとう。敏也君」
「いいえ。今回はこれ位しかできませんから」
「朱音。お前料理しないのかよ。女としてそれはどうだ?」
大学の同級生が気になる事を言った。
「朱音さん……いいのかよ」
「いいのよ。私、敏也君のご飯が好きだから最低限出来ればいいの。敏也君もう一度卵焼き作ってくれない?暖かいの食べたいの」
「バーベキューはそのままでいいんですか?」
「大丈夫よ。皆勝手にやるわ。母さん、敏也君借りるわね」
俺は朱音さんに引き摺られて朱音さんの家の台所に向かうのだった。
「はあ、疲れた。久しぶりの田植えは堪えるわね」
「朱音さんは前はやらなかったんだから」
「あのころよりも丈夫になったのにね。皆心配し過ぎよ」
朱音さんはコロコロと笑う。俺は使い慣れている調理器具を出していつもの様に卵焼きを作っていく。
「そうそう、この匂いがいいのよ。早くこっちに来てよ。私の食生活が潤わないじゃない」
「朱音さん……そんな事を言うと、僕思い切り勘違いしちゃいますよ」
「いいよ。勘違いして。私……敏也君が好きだから」
「朱音さん?それって本気?」
いきなりの朱音さんの告白に俺は動けなくなる。
「離れて気が付いたの。敏也君がいないと寂しいの。だから、絶対に上京して?私の傍にいて?」
「僕……俺も寂しかった。俺だけが朱音さんの事を好きなんだと思っていた」
俺達は顔を見合わせて笑った。
「そっか。私達両思いか。上京する時の引っ越し先は私に任せてくれない?悪い様には絶対にしないから」
なんかちょっと企んでいる様な気がするけど、先の未来は俺にはまだ明確な形になっていない。それでも、この大切な幼馴染の隣で寄り添える未来の権利を手に入れただけでも俺は嬉しいのだった。
12月6日、一部訂正しました。