君がポラリス 2
「敏也君……本気なの?」
「うん、先生達とはもう揉めているよ。でもね、都内の調理師学校に行きたいんだ」
「その方が私もいいと思う。地元が悪いとは決して言わないけど、敏也君にはその方がいいよ。お兄ちゃん達から一度離れた方がいいって」
「良かった。朱音さんまで反対かと思っていたから」
「そんな訳ないでしょ。でも敏也君の卵焼きが暫く食べられなくなるのが寂しいな」
朱音さんは少しだけ寂しそうに笑う。幼いころから一緒に過ごしていた名残なのか、今でも朝食は俺の家で一緒に食べている。
「僕が学校を卒業したら、朱音さんの家の傍に住めばいいだけだと思わない?朱音さんを一人にする方が僕は心配だけど」
「どうして?」
「だって、集中すると全部忘れるでしょう?まるっと全部」
朱音さんは集中すると、食べる事も寝る事も酷い時は学校に行く事も忘れてしまうのだ。最近やらかしたのは、某魔法ファンタジーの最終巻が発売されて読み終わってから、第一巻から読み始めて学校に行くのを止めてしまったのだ。朱音さんの担任が心配して様子を見に来て欲しいと言われて見に行った時には死んだように眠っていた。もちろん、そのことで朱音さんが怒られたのはお約束だ。
「あれ以来やっていないわよ」
「それが普通です。少なくても二年は自力で生きてくれないと困ります」
「分かっているわよ。何とかするわよ。その代わりに、上京したら敏也君がお世話してね」
「えっ?どうして?」
「敏也君のご飯、おいしいから」
「はいはい、じゃあ僕は朱音さんの家の傍に引っ越す事にするよ」
「やったあ。二年間はどうにかするから。本当に上京するのよ」
「ねえ、朱音さん、何か立場が逆だと思わない?」
「そうかな?その行動に最適な人がやるのが一番いいと思うの。私がご飯を作ると食材をダメにする事は多いじゃない。敏也君ならそんなことないもの。だから最適だと思うの」
「もういいよ。何でもないから。調理部に入って……いい事あった?」
「うん、あったわよ。敏也君がいることで新入生の入部のあったし、敏也君のお店のオレンジケーキのレシピにして貰えたじゃない?」
親達の店で、地産地消の一環で料理部にレシピの共同開発のオファーが来たのは、俺が入学前の事で、実際に企画が始動したのは俺が入学してからだった。
今まで店で出していたオレンジケーキはかなりリキュールを効かせたものだったので、もっと若い人たちが食べやすいものを作りたいってなった時に高校生と共同開発を発表したコンビニ店のニュースを見た両親たちが考えた末の行動だった。
商品開発は、オレンジムースのケーキとリキュールをほとんど使わないオレンジのパウンドケーキを作り上げて終了した。夏の間は店のデザートでオレンジムースを出していたが、寒くなるころにはパウンドケーキに変わっていくだろう。
「あれは旨いよね。今度朱音さんが作ってよ」
「あれ?敏也君知らないの?」
「店のレシピは知っているけど、開発した分はまだ教わっていないんだ。学校で教われって親に言われて教えて貰っていないから」
「そうなんだ。いいよ。教えてあげるよ。今日も送ってくれてありがとうね」
「うん、おやすみ」
俺達は朱音さんの家の前で別れた。この生活も半年後には終わってしまう。二年したら、俺が傍にいる事を許された。だったら……今はこの距離間をもう少し楽しみたい。
朱音さんが家の中に入ったのを確認してから、俺は自宅に戻った。
自宅に戻ってする事は自分の夕食を作る事から始まる。両親達は店での賄いを食べてくるから部活の日はどうしても一人になってしまう。部活で試食をする時は、そんなに腹は減っていない。俺は冷凍庫に残っている冷凍ご飯を使ってリゾットにして食べることにした。
コンソメの素を使う分、手は抜いているが、一人で食べるのだからこんなものだ。フライパンの中のリゾットにスプーンを入れてそのまま食べ始める。行儀は悪いだろうけど、俺はフライパンから直接食べ始めた。片付けまでが料理なら洗い物を出さない事も重要だと思う訳だ。
自分の事を合理的と言い聞かせて俺は自分の食事を食べてから後片付けをして、自分の部屋に向かう。まずは今日の課題を済ませる事にした。
家から歩いて帰れる距離で選んだ学校だけど、それなりに厳しい学校だ。文武平等と校内のオブジェに書かれている位だから他校に比べたら厳しいだろう。進学校と言われる事もあるけれど、皆が大学進学をしている訳では決してない。俺の兄達も同じ学校を卒業してすぐに家業を継いでいる。要は自宅に就職した事になる。学校から、最寄駅まではアーケードのある商店街が続いている。俺の自宅はアーケードが丁度なくなる所だ。朱音さんの家は隣なのだが、互いの玄関がちょっと離れているので一分位の時間がかかってしまう。学校の近くの農地は朱音さんの家のもので、葉物野菜を中心に作っている。
調理部の食材も規格外野菜を朱音さんのおばさんが放課後になると定期的に差し入れてくれる。文化祭の時のオレンジを使ったスイーツの販売は毎年順調な売り上げだと聞いている。何か、もう一つ目玉のレシピが欲しいと言う事になって、俺はオランジェットを提案したけれども結果は持ち越し。結果的には俺の店と共同開発をしたオレンジパウンドケーキのレシピを更に改良してコアントローを使わないでオレンジシロップとマーマレードを使う事になった。宿題の終わった俺は復習する事を放棄してマーマレードの味について考えていた。皮を苦味が出ないで作る方法……難しそうだな。そんな事を考えているうちに俺は机に突っ伏して眠ってしまったようだ。
「おはよう」
「おはよう。文化祭はどうだ?」
「どうも何も。クラスと調理部を行ったり来たりだと思うけど」
「ああ、今年は……食堂か。また厄介なものを」
文化祭当日の朝。朱音さんはクラスの最終チェックがあるから早く行くと昨日連絡が合って朝食の場にはいない。そのせいか、兄貴たちに確認された。
「今年は和食にしようってなって、俺の当日の分担とクラスの分担の兼ね合いを考えたら丁度いい塩梅になったと言うか」
「ふうん。お前は基本的に何処にいるんだよ?」
「俺?家庭科室。卵焼き担当とクッキー製造担当だから」
「飲み物って暖かいのはないのか?」
「どうなんだろう。詳しくは聞いてないんだよな。でもティーバックでもインスタントでもいいからあるといいよな。学校に着いたら聞いてみる。」
俺のクラスは創作茶屋。ソフトドリンクと焼き菓子を出して、書きたいジャンルのノートにリレー小説を書いていく形式だ。半分は他力本願なのだが、話のオチが見えないってのがクラス全員が気に入ったんだ。飲み物を受け渡す場所の隣にノートを置いて、書きたいジャンルを選んで貰って書いてもらう事にした。ジャンルはメインとしてミステリーとコメディー。他に書きたいジャンルがあると言われたらノートを増やしていく事になっている。
こんな面倒くさい企画に人は来ないだろうと俺達は思っていたのだが、思った割に集客があり、意外にも先生達が楽しんでノートに書き込んでいると言う現実。それと、当日になってから文芸部がタイアップしたいと言って、文芸部の冊子を置いて行った。そのかわりに、俺達のクラスのチラシを文芸部にも置いてもらえるという。効果があるか分からないけど、試してみようと言う事になったと報告メールが入っていた。
兄貴たちにも説明した通り、俺は焼き菓子製造担当。調理部のオーブンを使って作るには最適なポジションではある。そして調理部では卵焼き担当なので、クッキーを焼くかフライパンで卵焼きを焼くかの差はあっても、文化祭の間はここで過ごす事になっている。卵焼きもアツアツを出す訳じゃないので、荒熱が取れたらラップに包んで冷蔵庫に仕舞う。これが俺の仕事。
調理部の冷凍庫には昨日までに俺が作っておいたアイスボックスクッキーが眠っているはず。調理部は今回は基本的に冷凍庫の使用は無いので心おきなく使わせて貰っている。
調理部の冷凍庫が使えないのなら、実家の冷凍庫に保存して定期的に自宅に戻ればいいと思っていた位だから。今回の企画の為に、俺は店で使っていないオーブンレンジとミニ冷蔵庫を持ち込んでいる。オーブンレンジは文化祭後、調理部の備品として寄贈という事に冷蔵庫の方は処分する予定だったのだけど、引き取ると言う先生の申し出があって廃棄の危機を免れたという。
文化祭の予算は平均的な額だと思うけれども、後片付けの事を考えてあまり外観にはお金をかけていない。紙で作った造形物を貼り出して教室の中に興味を持ってもらえるようにしたと聞いている。教室の中は、ゆったりとちょっと広めにしたかったので、少し机は少なめにしたので32人で定員になってしまう。待ってもらう人は、希望者にはウェルカムドリンクを渡して待ってもらう事にした。実際には待合エリアに人が座る事はないらしい。
教壇をカウンター仕立てに改造してドリンクと焼き菓子を出すエリアとノートを置いてあるスペースに分けた。ノートは一人一冊持ってくるってことにして支出を抑えることにした。クラス全員分のノートを使い始めたら予算から購入する事になっている。企画スタートの時点で30冊分のノートが確保されている。書くものはボールペンかシャープペンかでちょっともめたけど、受験の時に使った鉛筆を持って来られる人が持って来て貰うのはどうだろうか?という提案があって、鉛筆を持って来てくれた有志のもので賄う事にした。これをまた誰かが持ってきた鉛筆削りと消しゴムがあるので結果的にお金をかける事は無かった。
ジュースの方も自宅がコンビニ経営の家から安く仕入れて、紙コップと焼き菓子の材料は俺の家が使っている業者から仕入れる事になった。途中でイラストも書きたいって言われたら困るから無地のノートもあった方がいいということで無地のノートを10冊程買ったり、先にクラスで書いた小説を元にイメージイラストを書いたいという有志が色鉛筆画を書いたりして内装の一部にしたりした。その色鉛筆も有志の持ち込みで、無地のノートは鉛筆画のみという事に限定した。そうすれば紛失すると言う事はない。
結果的に予算のメインは、食材にウェイトが掛かっているけれども、昨日までにクラスの予算管理の人に確認すると、予算はまだ残っているから心配する必要はないって言われている。
前日の昨日は、午前中はクラス企画の準備をして午後は被服室の一角でアイスボックスクッキーの生地を作る事に専念している。被服室の方も当日は調理部の店舗になるのだけど、今の家庭科室は調理部の仕込みで戦場と化しているので、部長に許可を貰って被服室でまったりと作業をしている。
当日の今日は、家庭科室の一部をクラスで借りてクッキーを冷まし、クッキーを切ったりする。
そして、その横で淡々と卵焼きを焼いていくことになっている。あまりにも卵焼きを焼くのが忙しくなってきたら、クラスにメールを送ると、クラスからお菓子を作るのが好きな人がサポートで入ってくれる事になっている。メインはきっと天板にクッキーを並べたり、冷ましたクッキーを教室に運んでもらうのが仕事になるだろう。それと更に手が開いていたら鍋でお湯を沸かしてだし汁を作る事になっている。今日の分は昨日多めに作ってある。昨日作ったものはペットボトルに移して冷蔵庫の中だ。変わり種は昨日の帰りに冷蔵庫にボールの中に放り込んだ乾燥シイタケだろうか?今は水の浸したボールのなかで戻っている事だろう。午後1時頃から明日の為のだし汁作りをするようにと指示が入っている。足りなくなったらその分を補充するように作る事になっていた。
12月6日、一部訂正しました。