甘い時間の過ごし方 達也と梨佳
「それにしても、皆には驚かされたわね」
「悪かったな。椎名が育児休暇前にどうしてもやりたいって言ったからさ。俺達も披露宴の練習になったから良かったろ?」
麗ちゃんの完治パーティーと聞いていたのに、蓋を開けたら私達の入籍記念パーティーだった。
「やっぱり披露宴はやらない訳にはいかないね」
「それとさ、写真だけでいいからちゃんとしないか?式が嫌だって言うのなら表向きにはイタリアの教会で挙げたってことにすればいいさ」
「いいの?そんな嘘をついて」
「大丈夫さ。優しい嘘の一つ位ならさ」
皆がしてくれたサプライズパーティーが嬉しくって、どうも舞いあがっているようだ。こんなんで達也さんと披露宴を上げたらどうなってしまうのだろう。
「でも……美佐子さんが来られなかったのは残念だったわ」
「仕方ないだろう。仕事を途中で切り上げたら気にするのはお前だろ」
達也さんに指摘されると反論の余地がない。
「そうだね。でも披露宴には純子ちゃん来られないし」
「それがあったから今日があったんだから、この話はもう終わり。それにしても良くあんなに一杯揃ったな」
「それはお前に気がつかれない様に準備をしたからな。メンバーへの出席確認も皆でしたんだぞ」
「ありがとうございます。でも、あんまり多くない料理だったのに、足りないってこともなく終わったのにはびっくりした」
「あれか?俺のチームにはティーパーティーだから来る前にしっかりと腹は膨らませてこい。パーティーで腹を膨らませようなんてせこい真似を考えるなって言ったからな」
そうだったのか。でも達也さんのチームの人は大半がスタッフさんだったからそんなに一杯食べる訳じゃないのに。
「いやあ、イナゴの様に食いつくされたんじゃお前も困るだろう?だから食堂のおばちゃんに腹もちがいいようにって、パーティーに出る人には磯辺餅が出たんだよ……今日の食堂」
おばちゃん……そこまでしてくれたなんて。
「おばちゃんは今度、寮の料理を管理栄養士として見て欲しいって」
「いいわよ。そのうち行ってくるね。シーナがいなくなって、再来年の春までにはとし君がいなくなって……」
「そうだな。寂しいか?」
「寂しくないって言ったら嘘になる。専門学校で知り合ってから、この店を軌道に乗せるって夢に協力して貰っただけだもの。これからは私一人で頑張らないと」
「高橋や山下も……いずれは開業するんだろう?」
「そうなると思う。とし君はエトワールの二号店として開店させるって。そうなると、高橋君と山下君の店は姉妹店って括りにして傘下に入れるっていうのもありじゃない」
「あの二人は、二人で開業を目指すのか?」
「その予定のようよ。ケーキと焼き菓子はうちから仕入れて、簡単な軽食を出すらしいわ」
「ふうん、それじゃあカウンターの方も新人をしごくのか?」
「どうなのかしらね?詳しい開業プランはまだこれからの話だから。将来的には店を出したいって話が出たってレベルみたいよ」
皆が夢を見つけてここから歩き始めるのならいいかなあって私は思っている。
「江藤さんの管理栄養士はどうなりそうなの?」
「合格水準にはいるわ。あの子は管理栄養士に合格するが条件の内定だから大変と言えば大変だけど」
江藤さんが私と同じように商品開発系統を目指している事を聞かされたのは最近の話だった。本人いわく、結果的にはオーナーと同じですが、最初からオーナーを目指した訳じゃないんです。オーナー達を見て私でもできたらいいなあと思ったんです。これからも恋のパートナーは探していきますよ、相変わらずの様子らしい。
「麗ちゃん達は……どうなのかしらね?」
「さあ、あの先生が逃がすとは思えないんだけど……俺」
「そうね、達也さんが帰国して三人で暮らす予定だったのに隣から麗ちゃんをとられたって思った位だったけど……。思った割に穏やかに進んでいるみたいじゃない?」
「ああ、最初に婚約指輪を出してきたから本当に驚いたけど。恋愛初心者の麗ちゃんが怯えないように少しずつ接触しているみたいだな。なんかいやらしい」
「そうやって言わないの。麗ちゃんみたいな初心な子の最初の恋のお相手にはいいかもしれないわよ。あの二人9歳差なんですって」
「それはまた……。先生の自制心がどこまで続くのかね」
「そんな事を言わないの」
私は姿見に映る自分の姿をみる。自分なら絶対に着ない様なブラッドリーオレンジのカジュアルドレス。
これを選んだのは誰だろう?
「ねえ、このドレスを選んだのは……達也さん?」
「正解。イタリアにいた時に知り合ったデザイナーに作って貰ったんだ。少しだけ大きめに作って貰ったから、今の梨佳のサイズに補正して貰ったりはしたけど」
「えっ?私サイズ計る様な事した?」
「したよ。披露宴で着るドレスって事で採寸したろう?式を上げないからってドレスを着ないと俺が認めるとでも思っていた?あの式場には、大学の同級生が働いているんだ。だから安心してくれ」
サプライズパーティーの後に知らされる更なるサプライズ。このまま喜んでしまっていいのだろうか。
「ねえ、私喜んだままでいいの?皆に何かお礼をした方がいいかな」
「そうだなあ……梨佳はいつものように笑っていて。そうしたら皆がもっと頑張るから」
「そんなんでいいの?」
「それがいいの。俺だって昔も今も辛い時は梨佳の笑顔を思い出して踏みとどまっている」
「やっぱり……辛いの?」
「そんなこと、今の生活では一番言ってはいけない事って分かっているさ。でもさ体力のピークはとっくに通り過ぎて控えのままの時もあるけど現役でやれているって凄く有難いことだと思っている。おればイタリアリーグに行くって最初に行った時にさ、困っても大丈夫。私が養ってあげるからって笑顔で言ってくれた言葉に俺は救われたから。極端な事をしなければ、梨佳は絶対に付いてきてくれるって信じる事が出来たから。梨佳だけだったから……俺のイタリア行きを反対しなかったの」
「語学は心配があったけど、私が少しだけだけど、イタリア語が出来たからいいよって言えたのかもしれない。スペインだったらどうだったろうって逆に思うわ」
私が答えると、達也さんは笑いだした。達也さんの笑いのツボは今でも分からない所が多すぎる。
「達也さん?」
「いいよって言ったのが、お前の語学能力だったとは。そこまでは気が付かなかった。でもイタリア行きを決めてから、日常会話をイタリア語でっていうのは結構効果があったぜ」
あの頃は、互いに電子辞書を片手にイタリア語でやり取りをしていたのだ。あの時使っていた電子辞書は今でもリビングに置いてある。俺は黒で梨佳はシルバーにすこしだけカラーストーンでデコレーションをしている。店のレジの傍には雑貨が置かれていて、スイーツデコと呼ばれる雑貨も置かれている。これが思った割にコンスタントに売れているらしい。店の近くの雑貨屋さんから作家さんを紹介して貰って、定期的に納品をお願いしているようだ。店で使っているのはカップケーキを土台にしたメモスタンド。これは結構使い勝手がいいので、俺も職場のデスクで使わせて貰っている。外出先はホワイトボードに記入はしているが、メモスタンドに張り付けて真ん中に置いておくと、俺宛の書類がきちんとスタンドに下に置かれるようになったので、机の上が綺麗になった気がする。それ以来、少量の雑貨を使って机周りを使いやすいようにしている。水溶性の糊のボトルの上には梨佳がふざけてくっつけたスイーツデコのパーツ……生クリームが乗っかっている。事務の女の子は可愛いと言っていたが、それを見て腹が減らないのだろうか?たまに見るとシーナのケーキが無性に食べたくなるから不思議だ。
もしかしてそれが梨佳の思惑なのだろうか?だとしたらかなり怖い子だよな。恐るべし嫁。
「これからは前よりは一緒に過ごせるんだもの。それだけで十分幸せよ」
梨佳は俺の座っているソファーの背もたれに寄りかかっている。その位置で見えるのは、俺と梨佳が付き合う前の梨佳が俺を撮影した写真だ。なんて事のない写真だけども、梨佳が達也さんらしいこの写真が一番好きって言って飾っている。飾ることなく笑っている写真だが、梨佳のスマホの待ちうけはこれだし、手帳の中に忍ばせている写真もこれなのは知っている。手帳の写真を大学の同級生に見られて俺の追っかけと勘違いされたって事があったっけ。あの頃は付き合い始めていたけれどもオープンにはしていなかったから梨佳には申し訳なかったと思っている。
「なあ、その写真もいいけどさ。俺がいるんだから俺を見てくれてもいいと思わないか」
「そうなんだけど……今の達也さんより皺がないんだもの」
お前……それは言わないでくれよ。あの写真は10年前のものだ。そりゃあ皺なんてある訳がないだろうよ。まさか、10年前の俺が今の俺の最大のて気になるとは思わなかった。しかも来ているユニホームも昔のチームの緑に白字でチーム名が書かれているものだ。俺がイタリアリーグに行っている間にチームは解散になってしまった。そんなチームをほぼ全員受け入れてくれたのが今のチームになる。
イタリア帰りの俺も拾ってくれた事には本当に感謝をしている。
「梨佳、こっちにおいで」
俺は梨佳を呼ぶ事にした。この呼び方は10年経っても変わる事がない。俺と彼女の両親以外は梨佳と呼ぶ事はない。周りはそんな俺に遠慮しているのか、りっちゃんと呼んでいる。どうしてそうなったのかと聞くと、家政学部の同じ学科にりかが複数いて、りかとりかちゃんとりっちゃんになったそうだ。今日のパーティーでも大学の同級生と専門学校の同級生達だけがりっちゃんと読んでいた。高校の頃の友人達は、麻生じゃないんだよな……大槻さんって言い直していた。一人だけスムースだったのはたまに梨佳の店にやってくる樋口位だろうか。今日のパーティーに参加を頼む時に、始めて本人と話す機会が持てた。
「あなたが彼女を攫うとは思ってもいませんでした」
「恋はどこに落ちているか分からないものだと思わないか?」
最初から挑発気味に発言してくる姿は、時折テレビで見かける様な眼光は鋭くても穏やかそうな表情とは違って見えた。最初は電話で接触したのだが、本人が上京していると言うので急遽会う事にしたのだ。
「それは、俺が手ぬるかったということですか?」
「君と俺だと知りあった頃はほぼ同じだ。それでも俺を選んだって事は君がもっと攻め込んだ方がよかったのではと思っただけだ。棋士になるのも大変だって聞くからそこには同情はするけど」
「貴方にそれを言われると痛いですね。確かに俺がもっと接触していたらパートナーになっていたかもしれませんし、今のままだったかもしれません」
今のままと答えた事に気になって俺は問いかけた。
「今のままって……君にとって梨佳はどういう存在?」
「夢に向かって進んでいく、異業種のライバルみたいな存在です。彼女に恋心を持った事もあります。でも彼女が選んだのは貴方だ。貴方達の間に割り込もうなんて気はもうありませんよ。今、ちょっといい関係になっている人がいます。好感を互いに持っていても互いを知らないので、互いを知っていから今後を考えようと思っている相手です。今回の会場にその彼女を同伴させてもいいでしょうか?」
「構いませんよ。ぜひその将来のパートナーさんを梨佳に見せてやって下さい。梨佳なりにあなたの女性の話を聞かないなあって言っていましたから安心させてやって下さい」
樋口はそうですね、それでは彼女を同伴してい伺いますよと言って先に帰って行った。そんな俺としての修羅場が起こってからまだ二週間しかたっていないのだから驚きだ。
「達也さん、疲れましたか?」
「うん、少しな」
梨佳が俺の隣に座る。かなり重くなるだろうけど、彼女に少しだけ体を預ける。
「困った人ですね。いいですよ。今日はサービスです」
そう言うと梨佳は俺の体をずらして膝枕の形にしてくれた。俺が今回のパーティーで走り回ったと思っているのだろうか?
「今回のパーティーで一番頑張ったのはシーナだぞ」
「分かっているわよ。今まで樋口先輩の事ライバル視していたでしょう?違う」
この鋭い奥さんはどうやら全てがお見通しだったようだ。こうなるとお手上げとしか言えない。
「そうだ。俺は樋口に対していい感情を持っていなかったぞ。でも今はそうでもない」
「そうね。今日の先輩を見ていたら……幸せになれそうよね」
パーティーの場での樋口は、彼女にかいがいしくお世話をしている姿が微笑ましくみえた。
「それとね、麗ちゃん……成人式が終わったら、入籍するらしいわ」
「どうしてそこがらしいなのさ?」
「麗ちゃん、誕生日が一月の末なの。成人したら婚姻には親の同意はいらなくなるでしょう?」
渡辺先生……そこまでも計算しているのですか。完全に麗ちゃんを操縦していませんか?
「成程。でもすんなりとそれで収まりそうなの?」
「先生は収めるから気にするなって麗ちゃんに言っていたから、もう何らかの動きを始めているんだと思うの」
「俺達の時間も皆の時間も順調に進んでいるようだな。その姿を見て、安心しているりかも好きだけど、俺としては、今からは俺とのこれからの過ごし方に集中して欲しいんだけどな」
「十分しているでしょう?」
「足りない。俺の中の梨佳が足りない。今まで足りない状態で突っ走ってきたんだから、その分を補給させてくれよ」
「達也さん、我儘過ぎです。そんな達也さんも嫌いじゃないですよ」
「嫌いじゃなければ何?ちゃんと答えてくれよ。いつも見たく察して下さいはなしな」
いつも言葉にして欲しい言葉を聞きたいのに、梨佳は恥ずかしがって答えてくれない。でも今日はその言葉を聞きたいと思うのは俺の我儘な事位分かっている。
「好きですよ。そうじゃなければ、膝枕もしないし、入籍もしません。愛しています」
好きって言葉でも聞ければいいと思っていたけど、愛していますまで聞けたらそれ以上を求めてしまいたくなるのは健全な男としては当然のことだろう。
「なあ、今夜はいつもより早く店から帰ってきた事だし、俺達だけの時間を過ごしてもいいだろう?」
「それもいいね。私達だけの優しい時間の始まりね」
「優しい時間?なんだそれ?」
「互いに想い合って、相手に優しくなれる時間。素敵にだと思わない?」
梨佳が俺に聞いてくる。本来だったらもっと甘えてくれてもいいのに。付き合い始めたころから梨佳はあまり甘えてくれる事は少なかった。
「そうだな。今夜は折角だから、梨佳を思い切り甘やかそうかと思う。さあ俺達の優しい時間を始めよう」
夜はこれから。明日もあるからそんなに夜更かしはできないけど、いつもよりも優しくて甘い時間を過ごす事はできそうだ。