君がポラリス 再び
「今日はお疲れさん」
「お先に失礼します」
厨房のメンバーが帰っていき、活気があった厨房に俺一人が取り残される。りっちゃんから修正案を出されたランチメニューをチェックする。
今回の修正は、ハンバーグランチのハンバーグにおからと入れてヘルシーハンバーグにしたらどうだろうという事だった。
おからを使うのは悪くは無いのだが、大豆アレルギーの人には使えないなあと漠然と考えていた。他に何か使えるものは無いだろうか。そういえば、かさましレシピって一時はやったよなあと思ってスマホで検索をすると、そこには使えそうな食材を見つけて、帰りにスーパーによって朱音を相手に作ってみるかと思うと表情が崩れる。
「とし君、いい?」
「ああ、りっちゃんか」
厨房の電気を消そうとしたところにりっちゃんがやってくる。
「とし君、朱音さんは元気?」
「ああ、今は論文に向けての実験に追われていて……それがどうかしたのか?」
「そっか。あのね、今日は珍しくスイーツが残ってしまったの。良ければ持って帰って貰えないかしら?」
「達也さんは?あの人も甘いもの食べるだろう?」
「達也さんは、コーチ兼任だから運動量が減っているの。筋力が落ちているのに今までと同様に食べるなんておじさん体系まっしぐらよ。私が許せないわ」
達也さんは、夢を追いかけてイタリアリーグでプレーをした事もあるバレーボール選手。三年前に達也さんと一緒にイタリアに行くわって言うかと思ったら、入籍をしてヨーロッパのスイーツ事情を見て来るという名の修行兼新婚旅行をしただけだ。帰って来てからはイタリアに行く事もなくスカイプとメールのやりとりだけだったのは俺は隣で見ていたので知っている。
「成程。それなら貰って帰るよ。ありがとな」
「それと、私の修正案のアイデア……意図が分かったかしら?」
「ああ。アレだと純子さんが食べられないからだろう?」
「そう言う事。分かってくれてありがとう。どうも悪戦苦闘しているみたいなの。シーナも調べて頑張ってはいるんだけどね。私達が出来る事はこう言う事位だから」
りっちゃんは、管理栄養士としてアレルギー除去をしながらマタニティー生活をしているシーナの嫁の事を気にしているのだ。
「りっちゃんは……まだなのか?」
「そうね、皆でこの店を持ったわ。でもその先の夢……とし君はいずれは地元で開業でしょ?だったらのれん分けって形にしたいから厨房を仕切ってくれる人を探さないと行けなくなるもの」
りっちゃんに言われて俺は驚いた。いずれは地元って発言をしたのは、知りあってすぐの頃の話だ。確かに朱音が品種改良の拠点を地元の農業センターに移すのであれば大学院を修了した時になるだろう。本人は博士論文が通ってから先の事を考えたいわって言って今は頑張っている。
「そうだな。シーナの夢はアレルギー対応のスイーツ店の開業か。小さい店なら後数年すれば持てるかもしれないな」
「そうでしょう?そのうちでいいから……三人で本音で話をしましょう。私達の夢のベクトルがもう一緒でなくてもいい頃よ」
「それでいいのか?」
「何とかなるわ。また優秀な人を探して仕込んでいって託せる様になればいいだけよ。二人ともここで満足してはいけないわ。ここを踏み台にして先に進んで欲しい」
「ありがとうな。もしも……俺が開業する時は、エトワールの名前を貰ってもいいか?」
「いいわよ。その位。朱音さんの将来を考えてそろそろ決めた方がいいと思うの」
「シーナには話したのか?」
「うん。家族が増えた時にね。子供が小さいうちは両親は傍にいた方がいいと思うの」
「それで、ワークショップはどうするんだ?」
「最初のうちは、それだけ通うって。人に任せるのは嫌だって」
「シーナらしい。それであいつはどうするんだ?」
「修行していた店に相談したら、一緒にやっていこうって言われたって。シーナは歩き始めたわ」
あいつ等の優しさに甘えている俺を分かってこうやって背中を押してくれるりっちゃんに何度助けられた事だろう。
「いいのか?俺達がいなくなっても」
「店のコンセプトだけは絶対に変えないわ。私達が決めて頑張ったこの店を私は守り抜くわ」
「分かった。朱音と相談してみる。俺がここを離れる時は朱音が大学院を卒業する時だからまだ時間はかかると思うぞ」
「それでいいのよ。急だったら私も対応しきれなかったわ」
「それじゃあ、俺はこれで帰るから悪いけど最終の戸締りよろしくな」
俺はそう言うと店を後にした。
朱音と一緒に暮らし始めたこのマンションは、店からちょっと離れているが朱音の大学からは徒歩5分で行ける近さが気に入って引っ越した。
自宅はひんやりとしていて無人であった事がすぐに分かった。
「さっきのりっちゃんのアイデアを形にしてみるか」
俺は自宅にあったはずの車麩を下ろして粉にする。それを合挽き肉と炒め玉ねぎで混ぜて捏ねる。
最後に成型をしてから熱したフライパンでゆっくりと火を通してふんわりと焼けるようにしていく。
焼き上がった頃に、朱音から着信がかかる。俺はワイヤレスのスイッチを押して会話を始める。
「朱音。終わったのか?飯は食べたのか?」
「少しだけ。何か音がしているけど、何を作っているの?」
「りっちゃんから再提出って言われたランチメニューの試作。そこにいるのはお前だけか?」
「今日はね。実験も今日はひと段落したから今日は帰るわ」
「そうか、だったら俺が車を出して迎えに行くから校舎の入り口で待っていろ」
「うん。それじゃあ待っているね」
俺はフライパンの火を止めて、デミグラスソースを入れて再び煮込んでいく。煮立ったところで火を消して俺はゆっくりと朱音を迎えに行く準備をした。
大学の研究等の前に車で行くと俺を見つけた朱音がかけだしてきた。俺だから危なくは無いが、それにしても無防備な事は変わりがない。
「俺じゃなければどうするつもりだ」
「ごめん。早く帰りたくって」
「そうだな。帰るぞ」
俺は車のハンドルを切って自宅に戻る事にした。
「とし君のご飯は美味しいんだけど……何かあったの?」
「なあ、朱音は大学院を卒業したらどうしたい?」
「どうって?」
「働く場所だよ。りっちゃんに背中押された。朱音の進路を店で狭める様にはするなって」
「私……品種改良出来そうなの。論文のテーマは違うんだけど。苗になってビニールハウスで栽培実験が成功したら……大学院を卒業したら、近くの農業センターで働きたい」
「そうか。朱音も夢に向かって進んでいたんだな。いいよ。大学院を卒業するタイミングで地元に帰ろう」
俺は頑張っている彼女に微笑みかけた。
「でも、エトワールは?辞めちゃっていいの?」
「りっちゃんがいいって。俺達の店のコンセプトを再現できる人を教育してから辞めてくれとは言われたけど」
「シーナ君は?それでいいって?」
「同じ事をりっちゃんはシーナにも言っていてさ。シーナは修行していた店を最終的に引き継ぐ方向で戻る事になったらしい。シーナの方も引き継げる相手を探している」
「そうなの?シーナのワークショップは?」
「あれだけは自分でやりたいから続けるって。純子ちゃんの傍で働いた方がいいって背中を押したんだって、りっちゃん」
俺は自分が未来まで見据えていなかった事で自分の小ささを痛感していた。りっちゃんは最初に会った時も器が大きいと思ったけど、最近は更に大きくなった。
「で、とし君は?私と一緒に地元に帰ってもいいの?」
「最終的にはそれが俺の夢だったよ。地元で店を持つ。お前は時々女将さんしてくれたらいいから」
「それなら……実家の近くに帰りたいけど……」
朱音が言い淀む先が何であるかは俺も分かっている。大きく深呼吸して俺は朱音に問いかける。
「今度の休みにさ、俺と買い物に行かないか?お前も気分転換が必要だろ?」
「いいの。だったら、冬ものを買いに行きたいなあ」
「そうだな。久しぶりに銀座に行かないか?久しぶりに宝くじを一緒に買うのいいだろう?」
俺達の店を開店するきっかけになった宝くじを再び買いたくなった。今度は朱音と一緒に。
「いいけど、宝くじなの?お兄ちゃんに資産運用して貰っているでしょう?」
「それはそれ。実はさ、俺達の開業は早まったのは、共同購入した宝くじを立て続けに当てたんだ」
「嘘……それ知らない」
「そうだよな。一番宝くじで収益があったのがりっちゃんだったからオーナーなんだよ」
「りっちゃんがしっかりしているからだと思っていた」
「だって、あの店……りっちゃんの名義な」
「中古でも……思い切り高い買い物したわね」
「そうだろ?俺達には、その先の投資金だからってあまり使わせてくれなかったんだ」
「で、その額がそれなりに溜まっているって事?」
「ああ、中古のレストランを買い取れれば開業は出来る。ここでのレシピは分けてもらえるって話だし」
「やっぱり、りっちゃんは太っ腹ね。りっちゃんには勝てないわあ」
「そんな本人は、お前の方が凄いって言っているぞ」
朱音はそんなことないわよって顔をしている。
「お前の品種改良は、種として今後も残っていくんだからいいなあ。形のあるものを残すって素敵ね。私達はお客様の記憶に残るシーンの片隅にいられるように頑張りましょう……だって」
「どんなに成功していても、自分にないものを求めるものなのか。私達もまだまだ修行中ってことね」
「そういうことだな」
さっき言おうとした事を思い切りはぐらかされてしまったので、俺は仕切り直す事にする。
「なあ、地元に戻る時……桐谷朱音になるか?それとも俺が朱音の家の名字を名乗ろうか?」
「とし君、それってどういう意味?」
「そういう事だよ。地元に戻る時には婚姻届を役場に提出してからにしような。お前の卒業までは今のままで俺はいいから」
「それでいいの?とし君は私でいいの?」
「朱音、ストップ。俺が朱音じゃないと嫌なの。それとも俺以外にいいやつがいるのか?」
「そういえば、そういう可能性もあったなあとぼんやりと思い返す」
「そんな人いない。とし君だけだよ。じゃなければ親に内緒で一緒に暮らしていない」
ちょっと待て。朱音との同棲は親も知っているものだと思っていたぞ。俺が一人暮らししていたのは、最初の二年間でその後は朱音と一緒に暮らしている。四年間も親を騙していたのか?
「朱音?そんなに俺が頼りない?」
「違うよ。私の我儘で同棲した事を親に言うのが恥ずかしかったの」
確かに同棲する時の切っ掛けはもっと傍にいたいから一緒に暮らしたいって、朱音が泣きじゃくったからだ。あの頃は俺も、朱音も切羽詰まっていたのかもしれない。
「じゃあ、銀座に行く時に一緒に見てもいいよな?」
「何を?」
「給料の三カ月分ってやつだ。俺の場合だとそれなりのものが買えるからいろんな店を見に行くぞ。絶対に朱音に似合うものにしような」
「とし君、急にいろんな事が起こったから……私が付いていけないよ」
朱音はちょっと涙目になっている。普段は落ち着き払っているのにちょっとしたことでうろたえてしまうのだから。俺は朱音の後ろに立って、椅子に座ったままの朱音を後ろから抱き締めた。
「俺の我儘を押しつけてごめんな。でも、俺もお前との未来を形にしたいんだ。こんな俺は嫌か?」
「そんなことないよ。私……とし君のお嫁さんになる」
「それは朱音しかなれないから。それともう一つ俺の我儘聞いてくれるか?」
「それって難しい?」
「いいや、簡単な事。そろそろ……俺の事を敏也って呼んでくれよ。とし君はもうあいつらだけでいいって」
俺は耳元で朱音に囁くと朱音の耳は見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
「前向きに努力します。はい、頑張ります」
「頑張ったら言えるものなの?だったら本気で頑張って貰うか」
俺は再び耳元で囁く。
「とし君!!」
「はい、ダメ。やり直し」
俺は椅子ごとホールドしたまま暫く羞恥に耐えながら俺を呼ぶ朱音を堪能するのだった。