あごがれ∞ループ再び 1
「梨佳、腹減った」
「お帰りなさい。達也さん」
黄色に紺のラインのチームカラーのエナメルバッグをオーナーに渡して、達也さんはカウンターに座りこんだ。高橋君が音を立てないでお冷を用意した。
「サンキュー、久しぶりの古巣もいいなって思ったよ」
コップ一杯の水の飲み干した達也さんはもう一杯ってお代りを要求している。
「なんか変な健康ドリンクみたいですよ」
江藤さんがそう言うと皆が笑いだす。
「じゃあ今度は健康食品のCMが来たら受けちゃおうかな」
「達也さん、チームの広告塔の姿でそう言う無防備な発言は控えましょう?」
今の達也さんはチームのジャージ姿のままだ。いつもだと一度着替えてからこっちに来るのだからこんな日は珍しい。
「悪い。追いかけられてさ、必死になって巻いていたら店に着いてしまったんだよ」
「仕方ない人ですね。マスコミが嗅ぎつけたら、こちらで対応するからいいですよ。夕ご飯はこっちで食べますか?」
「でもディナー頼んでいないぞ」
「大丈夫ですよ。今夜は予約がありません。達也さんとオーナーなら喜んで用意しますよ」
「敏也ありがとうな。こう言われたら食って言ってもいいだろう?」
「いいですが、持ち出しじゃなくて売上ですからね」
「しっかりした奥さんだと大変だあ」
山下君が二人の光景を見て呟いた。
「当然でしょう?達也さんがイタリアから戻って来てからのエトワールの質が下がったなんて言われたくないもの」
実際、達也さんが戻って来て、麗ちゃんが渡辺先生と同棲を始めてから、達也さんがオーナーと入籍していたとマスコミ発表した。オーナーの事を一般人としてくれたので、マスコミはここまでは来ていないが、二人の自宅の辺りには来ているようで少しだけ疲れている様に見える。
二人の自宅は、店から徒歩二分程離れたちょっと和風な家を改装して暮らしている。
「麗ちゃんは?」
「さっき渡辺先生が迎えに来ましたよ。あれは同居じゃなくて同棲ですよね?」
「いいや、麗ちゃんが同居って言うのならそうなのだろう。あの先生もそう言う所はきちんとしていそうだから本人達が言う事を信じてやれよ」
達也さんは妙に渡辺先生の肩を持つ。二人の間に一体何があったのだか。
「あっ、そうだ。梨佳、俺ナショナルチームに召集がかかったから……コーチとして」
「そう、必要なものは?」
「そのうちチームにスーツが届くと思うから。しばらくは西が丘にいる時もあるだろうから俺を探す時はメールにしてくれないか?」
「メールというか、ラインね」
「そうそう、それだ。頼んだからな」
入籍は三年前と言っても、ほとんど一緒に暮らしていないから新婚家庭のはずなのに、新婚らしさは一切ない。
「オーナー……新婚さんですよね?」
「そうね。この三年間で一緒に過ごしたのって……一ヶ月あったかしら?」
「その位だろう。俺はあっちのチームで、梨佳はここを守るのに必死だったからな」
「そうよね。今回の契約は今期だけよね。来季はどうするの?」
オーナーは聞きづらい事を直球で聞いてくる。傍にいると相当心臓に良くない。
「コーチのポジションならオファーはある。だから現役では今期で引退しようと思うんだ」
「いいと思うわよ。安心して。私がしっかりと稼ぐから。達也さんは心配しないで」
「俺の奥さんは本当に懐が広いなあ」
「それしか取り柄ありませんから。そうそう、ご飯を食べたら先に帰っていて下さいね。達也さんの後にいらしたお客様と一緒に。どうしても取材というのなら自宅にお連れしておもてなしをして下さいね」
「梨佳……俺、何かした?」
「達也さんは、十年経っても達也さんのままってことです。それでいいんです。達也さんは達也さんのままで」
「御馳走様です」
山下君が二人にあてられたようでカウンターから逃げだした。
「あの二人、どうにかして下さい」
「オーナーどうにかなりませんか?」
「そうね。達也さん、ユニホームでエトワールに来るのは今後禁止です。分かりましたか?」
「そんなあ。そこをどうにか」
オーナーは大きく溜め息をついた。
「仕方ないから妥協点。裏口から入って三階で私服に着替えてから来て頂戴。それ以外は一切認めません」
「本当は一緒にいたいんでしょう?オーナー。達也さんにクールにしている様に見せて実際はメロメロなんだから」
「えっちゃん、そういう事を言うの?管理栄養士の勉強はしているの?」
「ちょっとピンチですけど、やっています」
「そう、私が直接教えてもいいわよ」
「オーナーが教えると厳しいじゃないですか」
「もちろんよ。ハイスコアで合格する事を前提にしているんだから」
「うっ……頑張ります」
オーナーを弄ろうとして江藤さんは自爆をしている。オーナーに弱点なんてあるのだろうか?さっきポロリと明かしていたけど、十年前から達也さんは変わらないと言っていた。二人は少なくてもオーナーが女子高生の頃から知っているってなる。オーナーの女子高生姿……相当気になる。
「オーナーとはどうやって知りあったんですか?」
「試合会場で見つけて狩りをしたとか?」
笹野君は思いついた事を言うと、オーナーが人を獲物扱いしないで頂戴。いくらなんでもそれはないわ。っておかんむりな状態。気が付くと、タブリエを装着している。俺はそっとカウンターから出た。
「久しぶりにコーヒー入れたいんですか?構いませんよ」
「ありがとう。それじゃあよろしくね」
ランチではカウンターに立つ事は無いけど、幼稚園児を連れたママさん相手にはオーダーを提供している。その日の気分で気まぐれなラテアートが結構人気がある。
達也さんがディナーのメインを食べ終わったちょうどその時に、音を立てないでスッと食後のコーヒーを差しだした。
「ドリンクはコーヒーでよろしいでしょうか?」
「ああ。サンキュー。お前もカウンターに立つんだな」
「ランチはサポートで立つ事はあるけれども、夜からは腕が鈍らない様に忙しくない時はやっているの」
「そうか、折角習得したのにって思っていたからな。お前がイタリアで作ってくれたラテアート本当に旨かったから」
「あら、あの時言ってくれたら良かったのに」
「それを言ったら、お前日本に帰らなかっただろうから言わなかっただけさ」
二人には二人の葛藤を乗り越えて今がある訳で、二人だから今の俺達がこうしてここにいる訳だ。
気が付いたら、二人の出会いを追求しようとしていた笹野君も諦めてしまったらしい。
バレーボール選手を追っかけていたとはどうにも考えられないのは見ていて明らかだからだ。全てを赤裸々に明かす必要はないのだろう。
「お疲れ様です。達也さん」
「椎名は終了か?お疲れさん。嫁の方はどうだ?」
「嫁ですか……ちょっと神経質になっていますから、俺がやれる事は限られます」
「りっちゃんをお借りしてもいいですか?」
「ああ、店内なら」
椎名さんは達也さんに許可を貰うとカウンター越しに日曜日のワークショップの相談を始める。店の開店二周年を迎えてから、店があまり忙しくない日曜日を中心に二階の厨房を中心にワークショップを始めている。今までは男性でも作れるスイーツ講座とか昼食後からすぐに出来るお手軽スイーツ講座とかバレンタイン攻略講座っていうのもあったっけ。ワークショップはアシスタントとして俺か山下君かオーナーがサポートとして手伝ってくれる。一番声がかかるのはパティシェの専門学校で一緒だったオーナーだろう。オーナーは今回のレシピをレジュメで纏めてくれたり、ひと手間加えてちょっとだけリッチに見えるディスプレイとか、カロリーオフのヒントとか加えて冊子にして参加者に渡してくれる。
「今回はこのテーマで行きたいんだ」
「いいんじゃない。シーナの原点だしね。今回のリクエストはこの生活エリアで調達可能な食材で準備して貰える?」
「そうなるとコスト高になるけど」
「それじゃないと困るのよ。作るのは子育てをしながら作るお母さんよ。お取り寄せができると言っても限度があるわ。資料のレジュメに店で取り寄せが出来るものは店が仲介をしてお客さんに分けてあげたらいいと思うの」
「それでいいの?」
「だって小売店よりは業務店で一括購入した方が安いし、うちの店でもアレルギー対応スイーツを常備したらいいんじゃない?小麦と牛乳除去をメインにして」
「いいの?」
「いいわよ。最近はアレルギー対応のケーキのオーダーがあるんだから曜日を決めて作ればいいんだと思うのね。週に二日くらい。シーナが純子さんや妹さんにしている事をワークショップで教えてあげて欲しいの。参加者には幼稚園児からの同伴参加にしたらどうかしら?」
「それって……」
「食育も同時にすすめるのもいいかなって思うの。今回の参加者でファミリーさんは?」
「三組です。後は渡辺先生からの紹介で小児科と皮膚科の先生だそうです」
「そう、先生なら食育があった方がいいわね。こっちの方もちょっと考えるから金曜日に最終調整をしてスーパーで買える食材を調達するのは土曜日にしましょう。達也さん、一緒にお使いにいきますよ」
「えっ?俺も行ってもいいの?」
「うん、スケジュールが開いているのならね。これで運転手と自動車確保ね」
「何それ?俺ってそういう役割?」
「半分よ。お使いが終わってからシーナを下ろしてから何処かに行きましょう」
オーナーが提案すると達也さんの目が輝いた。
「いいね。梨佳、ラテアート作ってくれない?何でもいいから」
「いいわよ。ちょっと待ってね」
オーナーがラテアートを作ると言う。久しぶりにオーナーのラテアートを観察したくなって俺は邪魔にならない場所に立って見学する事になった。
久しぶりだから簡単なのにするわって言いながら簡単にリーフを作ってみせた。
「はい、どうぞ。これからは自宅で練習しようかしら」
「そうですよ。久しぶりって言いながらもこれだけ完成度が高いんですから」
「持ちあげたって何も出ないわよ」
さあ、自分達の作業をしましょうとオーナーは俺達に動作を促す。時間を見ると飲食のラストオーダーは過ぎていた。厨房は片付けをして作業終了になろうとしているところだった。