手を離したくないんだ
梨佳の高校の先輩である棋士の樋口の場合。
梨佳に恋心を抱いていた彼でしたが……。
『達也さんとのことを公表する事にしました。先輩にはご迷惑をかける事は無いかと思いますが、マスコミが来たら対応をお願いします。』礼儀正しさでは定評のある高校の後輩が昨日までイタリアリーグでプレーをしていたアスリートと三年前に入籍を済ませた事をマスコミ発表するという報告メールがあった。それはいいことだ。よくもまあ、三年間も隠し通せたものだ。
このタイミングで発表すると言う事は、達也さんが帰国したという証拠だろう。
「ふうん、それはめでたいな」
「どうかしましたか?名人?」
「いや、高校の後輩が入籍したんだよ。これからは人妻だからあまりからかう事は出来ないなあと思って」
「このお菓子を販売しているお店でしたっけ?高校の後輩って」
「そうそう。去年あたりから情報誌に取りあげられているんだけど、君も行ってみたい?」
「いいんですか?このお菓子本当においしいんですもの」
俺は雑誌に取材を受けている。こないだ梨佳ちゃんの店で買ったケーキを持って簡単な打ち合わせをしたばかりで、今日は梨佳ちゃんが送ってくれた焼き菓子を差し入れで持ってきた。
僕を担当してくれる女の子は、どこかあの頃の梨佳ちゃんを思い出させる。一所懸命なところが本当に彼女にそっくりだ。もちろんそれが理由で彼女を気に入っている訳ではない。梨佳ちゃんと似ていると思ったのはごく最近の事だ。
「彼女のいる編集部でワイドショーが流れている。早速達也さんと梨佳ちゃんの話題が出てきている」
「大槻選手って三年前から結婚していたのですか。何かショックです」
「そう?彼女が一般人だったら仕方ないんじゃない?大槻選手は僕の高校に休みの度に来ていたよ」
「そうなんですか?羨ましいですね」
「僕は学校の講習の合間に見かけただけ。さあ、対談を始めようか」
「はい、それではお願いします」
終始和やかに取材は進んでいく。一時間程して無事に終了した。
「ありがとうございます。ところで名人はいつも着物姿なんですか?」
今日の俺は刺子縞の着物を着ている。対局で着るようになってしまって今ではどちらでもあまり気にはならなくなっている。
「写真撮影もあるかと思って着物にしたんだ。棋士っていうと和装ってイメージが強いだろうからイメージを崩さない様にとは思っているよ。スーツで対局だってしているよ。忘れていないかい?」
彼女はそう言えばそうだったかもしれません。ああ、本当にって苦笑いしている。
俺としては着物だろうが、スーツだろうがそんなに大差はない。本音を言えば、冬の間……雪が積もる様になると着物を着るのを自然と避けている。無駄に濡らしたくはないからな。
「君は、この編集部に来てまだ半年だろう?それなら仕方ないんじゃないか?ルールは覚えたかい?」
「うっ、まだです。仕事が忙しくてどうしても覚えられないんです」
「その気持ちは分かるから、今日は久しぶりに実家に戻るから少し教えてあげようか?」
「いいんですか?お願いします」
取材の時に使った簡易将棋盤を取り出して、かつての彼女に教えたように教え始める。
必死に覚えながら途中でメモを取っている。
「名人、樋口名人」
「ああ、ごめん。ちょっと呆けてしまったね」
「お疲れの所なのに、つきあって貰ったのはこっちの方です。ありがとうございます。また復習しますね」
彼女はにっこりと微笑んで彼女の将棋の練習は終了になった。
「分からない所を知ったかぶりしないで、ちゃんと聞いていいんだよ?」
「本当にいいのですか?」
「僕が答える事が出来るものだったら答えるよ」
俺が答えると、彼女は大きく深呼吸をしてから僕の目を見て問いかけた。
「名人の目に映っている女性っているんですか?」
「僕のプロフィールは知っているでしょう?あの通り僕は独身だよ」
「そう言う事ではなくて、何処かで追いかけている女性がいる様な気がします」
とっくに諦めたはずの恋を諦めきれずにきている俺の事を当てられてしまう。
「ちょっとだけ、諦めきれない恋をしていただけ。大丈夫ふっきれてはいるんだ。最初に一歩を踏み出せないだけだから」
詳細は離せなかったけど、俺は彼女に打ち明けた。
「あの……私ではダメですか?」
「君が立候補してくれるの?」
いきなりの彼女の申し出に面喰ってしまう。
「はい、それとも私じゃ役不足でしょうか?」
彼女の事は嫌いじゃない。今回の取材が彼女で嬉しかったのは本音だ。
彼女の手を取ってしまってもいいのだろうか?
「そうだね、君のプライベートを僕は知らない。君も僕のプライベートを知っているかい?」
「私も……知りません。ごめんなさい」
「怒っていないよ。だったら、一緒にこれからお互いを知っていけばいいと思わない?」
君と一緒なら、ゆっくりと恋ができる様な気がするんだ。ジェットコースターのような展開の恋がしたい訳じゃない。のんびりと二人で寄り添って歩いて、立ち止まって微笑みあうような……そんな恋がしたいんだ。
「是非お願いします」
彼女が手を差し出してくれる。そう言えば最初の顔合わせの時にもこうやって握手をしたっけ。
俺はゆっくりと彼女の手に自分の手を重ねて優しく包み込んだ。
「こちらこそ。でも僕は、のんびりとしているから君の方が飽きてしまうかもしれないよ」
「そんな事ありません。名人の事……だいすきですから」
最後の方は小さな声で呟く彼女が可愛いなあと思った。
さっきまで、昔の恋が完全に終わったと打ちひしがれていたはずなのに、男というのは勝手なものだなあと俺は思うのだった。
棋士=和装ということで出してみました。
(対局によってはスーツの時もありましたので、正式なルートというよりは、おまけ的な扱いにさせて貰います)