もっと君の事を知りたいのだけど?3
翌日、オフィスに入ると教授は早速実験室に籠っているらしい。指示のあるメモは、十時のお茶には日本茶とどら焼きがいいなあと書かれている。今の時間に開いている和菓子屋は駅前に一軒ある。早速電話をかけて、注文予約をしてから私は出社早々外出する羽目になった。
無事にどら焼きを購入する事が出来た私は、ゼミの子達の差し入れの分も購入する事にした。お見合いパーティーに着て行く服を買う必要があるから予算的には一人一つしか買えないけど無いよりはいいだろうと開き直る事にした。
オフィスに戻って、濃いめの日本茶を入れて実験室に向かう。
「教授。おはようございます。お茶の時間ですよ」
「沙織君。待っていたよ。お腹すいたあ」
そこにいるのは、昨日の服を着てヨレヨレの白衣を着たままの教授の姿。
「やっぱり実験室でお泊まりですか」
「大丈夫。ちゃんと寝袋で寝たから」
「そういう問題じゃありません」
私は思わず教授を叱る。今の教授の姿は夜の新橋で見かけるおじさんそのものだ。
私に叱られた教授は、子供の様に小さくなっているけれども……ちょっと気持ち悪いです。そんな姿を院生たちはクスクスと笑って見ている。
「いいですか?こんな大人になってはいけません。規則正しい生活。それが健康維持の最低条件です」
「沙織さん、理系学生にそれを求めないで」
「そうなれるように努力位はして下さい。付き合わされるこっちの身にもなって下さい」
私はプリプリと怒って実験室を後にした。
オフィスに戻った私は教授あてに来たメールをチェックし始める。内容は、講演会依頼とか原稿の依頼とかが多い。それらを日程の順番に並べるのだ。開催日・開催会場・講演内容。原稿ならば、掲載雑誌・掲載時期・原稿のテーマ。ここから教授が選んで参加したり寄稿したりするのだ。
論文の追い込みの今にそれを選択して貰うのも酷かなと思うけど、ここは心を鬼にして作業をして貰おうと覚悟をした。
日が陰り始めるころ、教授が実験室から戻ってきた。可哀想な位にヨレヨレだ。
先生も、先生のトレードマークと言える白衣も試薬が付着したりして変色しているようだ。
「早くシミ抜きをした方がいいと思うので貸してもらえませんか?」
「帰りにクリーニング店に出すからいいよ。水溶性の汚れじゃないからね」
あら、残念。水溶性のシミ抜きしか持っていないから、今回は無理か。
「ちゃんとクリーニングに出して下さいね。先生、実験は終わりましたか?」
「うん。再現実験も無事に終わったから、後はこっちで纏めるだけだよ」
机に体が折れ曲がってくっついていますよ。そんな学生みたいな格好をしないでください。
そうも言っていられないので、私は教授の隣に立つ。
「教授。申し訳ないのですが、講演依頼のチェックをお願いします。メールをチェックしてDM関連は削除させて貰いました」
「そうかい、ありがとう。沙織君は言わないでも定期的にチェックしてくれるから助かるよ」
「教授の秘書をしていると、手間のかかる子供ってこうなのかしらって思う事もありますよ」
「何それ?僕、お子ちゃまなの?それはちょっと悲しいなあ」
そこで頬を膨らませるのは十分子供だと思いますけど?口には出せないけど表情には出てしまっていたようだ。
「別に沙織君に言われる位ならいいや。えっと……今回の公演は、これとこれ。原稿依頼の方は全部引き受けようか……ってか、子供新聞?」
「はい、子供でも出来る環境破壊防止方法を伝授するようにって事らしいです」
「成程ね、それは環境学の先生の分野じゃないの?」
教授は子供新聞記事依頼の新聞を見ているようだ。気持ちは分かりますよ。
「多分……教授がお若いからオファーが来たのではないのでしょうか?子供新聞を購買するご両親は教授と同年代の方が多いかと思われます」
「成程ね。それならこれは過去の自然科学系の記事を探してそれをちょっと参考にしてから書くか。うっかり専門用語を連発するのは可哀想だからな」
おっ、子供の目線で書こうとするのですね。その努力は素敵だと思いますよ。
「教授、今日はこれで帰られるのですか?」
「そうだね、でも……流石に車で帰るのは辛いなあ」
「だったらエトワールでディナーの予約ができればご一緒しませんか?車は代行を手配して貰えばいいと思いますよ」
「沙織君は本当に賢いね。それじゃあ、久しぶりに僕が電話しようか」
教授はいそいそとエトワールにディナーの予約をするのだった。
「相変わらず、桐谷君の出す料理は野菜が多いなあ」
「皆さんが普段食べないだけですよ。定期的に通って下されば健康的になりますよ」
「そうですね、昨日なんて教授は研究室にお泊まりですから……酷いでしょう?」
「そうは言っても、論文の締め切りがあってだね」
必死にお店の人にちゃんとやっているとアピールしている教授を見て大きくため息をついた。
「だから、もっと早くから準備をしましょうって私は促しましたよね?違いますか?」
「前に教授がいらっしゃったときと同じ光景を見た記憶があります」
私の発言に、今日の給仕担当の笹野君が同意してくれる。サーフしてくれたのは今日のスープ。
「今日はちょっと寒そうなので豆をふんだんに使ったスープにしたそうです」
「ほらっ、ここにも食物繊維」
「いいじゃないですか。私も健康的な生活を維持できるんです」
「沙織さんは、かなり健康管理されているのでお綺麗ですよ」
「社交辞令にしても嬉しいわ。ありがとう」
私はスープを掬って口に運ぶ。豆のスープと言っても潰して裏ごしされているからなめらかで飲みやすい。
「そういえば、オーナーは?」
「オーナーはちょっと自宅に戻っています。もう暫くすると戻ってくると思いますよ」
笹野君の言うとおり、麻生さんは十五分くらいしたら店舗に戻ってきた。けれども、その姿がいつもとちょっと違っていた。常連の渡辺さんと一緒だったのだ。
「あれ?りっちゃんのパートナーって変わったの?」
「すみません。俺、オーナーのプライベートは知らないんです。椎名さん呼んだ方がいいですか?」
「いいや、そんな野暮な事はしないよ。りっちゃんもお年頃だからね。沙織君もかな」
教授のからかう言い方にカチンと来た私は咄嗟に啖呵をきっていた。
「来週末にお見合いパーティーに行くんですから。教授には関係ありません」
すると店内が水を打ったようにシーンとする。
「えっ、沙織さんお見合いパーティーに行くの?」
「はい、高校の同級生に誘われたので。会場とかは彼女に丸投げですけど」
「そうなんだ。でも出会いが少ないと外に求めに行くしかないよね」
笹野君が微妙なフォローをしてくれる。
「一人が嫌とかじゃなくて、もっと違う業種の人と知り合いたいかなって程度なの。だから結婚したいっていうのは無いのよ」
「それならば、この店でも十分じゃないか。業種だけならたくさんいるじゃないか」
いつになく教授が怒っているようだ。どうしてそんなに怒るのかが私には理解できない。
「そんなに怒る事ですか?教授?」
「だってそうだろう?この店の常連だけだって十分いるじゃないか。これだけいるのに更に出会いを求めるのか?女というのは本当に貪欲だな」
嫌気がさしたように発言する教授とこれ以上食事を共にする気が無くなった私はすっと席を立った。
「ごめんなさい。これ以上会食を共にする気分じゃありません。自分の分の料金は支払いますのでお会計いいですか?」
「沙織さん……ごめんなさい。私が途中で止めていれば」
麻生さんが宥めてくれるけれども、私が欲しいのはそんな言葉じゃなかった。
「誰が悪いって訳じゃないんです。一番悪いのは……きっと私です。丁度あるので、ここに置いて行きます。ごちそうさまでした。お休みなさい」
私はコートを掴んで足早に店を後にした。その後の店の事なんて気にする余裕すらなかった。
ただ、教授に安っぽい女と思われるのがとにかく辛かった。