もっと君の事を知りたいのだけど?1
大学教授とその秘書(沙織)の話
エトワールのオーナーの麻生さんと別れて、大きなケーキの箱をしっかりとした紙袋に入れて貰って私は大学への道をゆっくりと歩き出す。住宅地を歩いて、大学へ向かう道を歩いていると背後からクラクションを鳴らす音がした。立ち止まって振り向くとそこには私の上司である長崎教授が左ハンドルの車に乗っていた。いいお車乗っていますね。それだけなら好感度アップですよ、教授。
「沙織君、ランチの帰り?」
「はい、教授のリクエストのエトワールのケーキですよ。今日は一杯買ってきたので、おやつの残りはお持ち帰りで今日のうちに食べて下さいね。椎名さんから今度新作ケーキの試食しませんかってお誘いがありましたよ?」
「本当?絶対に行きたいんだけど……僕はまだお店に行った事ないよね」
「教授に教えてもらったのは私なのに。タイミングがわるいですね。本当に暇な時にお連れしましょう。それよりも、論文は書けましたか?」
「頑張ったよ。少しだけね」
私は頭を抱えたくなってくる。論文の締め切りはいつでしたっけ?教授?そんな事を言っても糠に釘なのでそんな事は言わずに冷ややかな視線を彼に投げかける。
「椎名君のケーキ食べたら頑張るから。本当だって。ほら、後ろに乗りなよ。行き先は同じなんだから」
「そうですね。お邪魔します」
躊躇う事もなく、私は車に乗り込んだ。少し残る新車の匂いがした。
「最近、購入したのですか……この車?」
「うん。満員電車嫌だったから」
そんな理由でドイツ産の車を変えるのだから生活に不自由はしていないんだろうけど……他の所には無頓着だよなあ。もうちょっとスーツも量販店の吊るしスーツじゃなくてせめてデパートで買ってきたらいいのに」
「先生、スーツにもお金をかけたらどうですか?」
「だって、僕は普段はこの上に白衣を着て過ごす事の方が多いから別に誰もスーツなんて見ていないって。第一本当はこんな服着たくない。実験するのもジーンズとシャツでいいと思うのに」
そう、この人は本来はカジュアルな服装で過ごしたい人だった事を忘れていた。講義がある日はちゃんとスーツを着てくるけど、講義がない日は本当にジーンズにシャツという学生の様な服装なのだ。実験で自宅に戻れなくなると、ジャージ姿がとても板についているなんて言ったらずっとジャージを着ていそうなので絶対に言わない。
あっという間に大学の職員駐車場に着いてしまって、私が持っていた紙袋は教授が持ってしまう。
「すみません。持って貰って」
「これは僕のおやつでしょう?だったら僕が持つのが普通じゃないかな?」
午後の講義が始まった教授棟は私達が歩く足音しかしていない。無事に教授室に入ったので私は自分のデスクに荷物を置いてからお茶の支度をする。
「先生、お茶の支度をしましょうか?」
「そうしてくれる?お茶は……今日はアフタヌーンティーにして貰おうか。君の分も入れるといいよ」
教授は幼い頃にイギリスで暮らした事が長い為、紅茶に関してはかなり好みがはっきりしている。基本的にはブレンドティーが好みで、茶園を楽しむ事はあまりない。普段はアフタヌーンティーをミルクを入れて楽しむのだが、今日はケーキがあるのでストレートで用意することにした。
「ありがとうございます。ストレートでお出ししますから食べたいスイーツを選んでもらえますか?」
私は来客が来ると通す打ち合わせスペースにデザートプレートにデザートフォークを添えておいた。
教授は鼻歌を歌いながら、楽しそうに椎名さんのケーキを選んでいる。教授とあの店の繋がりがよく分からない。
「教授、エトワールのどなたとお知り合いなのですか?」
「僕は、椎名君の実家の近くに住んでいるんだよ。だから修行中の椎名君のスイーツを結構食べたんだ」
「そうなんですか、だから椎名さんが試作品を食べて欲しいと言うんですね」
「椎名君は、家族想いの結果が今の仕事に繋がっているんだよ」
始めて聞く椎名さんのプライベートに興味が沸く。
「初めてですね。教授から椎名さんの話を聞くなんて」
「まあね。椎名君はああ見えて家族願望が強かったから妻帯者だし」
「結婚しているんですか?指輪してないですよ」
「仕事が終わるとしているよ。奥さんの命の子だからオンとオフの格差は激しいけど」
教授がクスクスと笑っているけれども、その椎名さんの姿が想像がつかない。
「君が椎名君の事を好きだったらいけないかなって思ったけどそうじゃないみたいだね」
「椎名さんは素敵ですけど、自分よりお料理できる男性はちょっと凹んじゃうのでお友達どまりがいいです。それに年下男性ですよ。いじらしい弟って感じでしょうか?」
「成程ね。君はオーナーの梨佳ちゃんと同い年だっけ?」
「そうですね。麻生さんと同い年です。麻生さんはいつもきりっとしていますよね」
「そうだね。彼女がいなければあの店は出来なかったと思うよ。でも彼女の前職が食品メーカーの開発部だった事は知っている?」
「それは知っています。かなり優秀だったんですよね」
私は抽出が終わったティーポットを持って教授の元に向かう。既にお茶の準備が完璧な形で出来上がっていた。
「それだけじゃないよ。彼女は管理栄養士。店のメニューを桐谷君が提案したらそれを元に栄養バランスを考えて再提案しているんだよ。だから、あの店の料理はああ見えて計算され尽くされている」
「そうなんですか?今まで意識していませんでした」
教授の専門は生物学。私は彼の秘書としてサポート業務をしている。エトワールも教授のランチのお伴で付いて行って教えてもらったのだ。
「それと、本当に暇だと梨佳ちゃんに頼むとラテアート作ってくれるよ。バリスタの資格は持っていないけれどもカフェコーディネーターの資格は持っているし、紅茶インストラクターも持っていたな」
「何気なく……最初から開業する事だけに特化していますね」
「事務の方もそれなりに自力で出来るだけの能力も持っているらしいけど、最近は自分で税務処理しているのかな」
「そっちまで自分でやるんですか?」
「うん。税務署の研修会には進んで参加しているよ。でも忙しいと公認会計士に任せちゃうらしいけど」
忙しそうだからやっぱりそれが自然だよね。それでも自力で店を回そうと思えば回せるって……同い年で秘書関連の資格しかもっていない私はちょっと恥ずかしいと思うのだった。