ある日のエトワール
アルバイトの麗の目線で書かれています。
「こんにちは。麻生さん」
「こんにちは。いらっしゃいませ。沙織さん」
今日も店は大忙しです。オーナー達がお店をオープンして二年のお祝いのパーティーがありました。
常連さんがいらっしゃったのはもちろんのこと、普段ご迷惑になりそうなご近所の皆さんもいらして終始和やかな雰囲気で終了したのです。
アルバイトの私達も家族やパートナーを連れてきていいのよ、お店にとっては最大の理解者だからその感謝の気持ちをお返ししたいのというオーナーの言葉に甘えて私は両親を呼ぶ事にした。都内に実家はあるものの、兄と二世帯同居を始めた実家にはあまり家にいるのもどうなのかしら?と思い始めて、大学の傍の女性だけのマンションに引っ越す事に決めた。大学とマンションだけの生活も寂しいなと思ったのでアルバイトを探そうと思って学生課にたまに求人がある事を思い出して顔を出して紹介を受けたのがエトワールでのお仕事だった。
制服も凄く素敵で、ホルターネックタイプのジレに白とペールブルーのシャツにリボンタイを付ける。動きやすいひざ丈のタイトスカートにギャルソンエプロン。ストッキングに五センチほどのパンプスを履くとホールとレジの時の制服になる。カウンターの中や、厨房のお手伝いをするときは、ロングエプロンとパンツと安全靴を履くルールだ。安全対策と言っていた。
男子の制服は、エプロンがソムリエエプロンで、シャツの色は女子と同じだけど、アルバイトはリボンタイで社員さんはネクタイを付けている。オーナーの梨佳さんもネクタイを付けている。その姿は素敵というか、可愛いという感じだ。
オーナーは高校の先輩だという和装姿のクールなイメージがする男性と談笑している。
「まさか、麻生が喫茶店経営とは。こないだ加瀬に聞いて驚いたよ」
「それを言うのなら、先輩だって全部は見ていませんが見ましたよ。名人戦。クラブで初心者な私に将棋を教えてくれたのは先輩ですから、感謝の恩人ですよ。アレルギーとかありましたっけ?」
「どうして?」
「今は実家ではなくて避暑地が拠点ですよね?」
「五月蠅いよりはいいだろうかと思ってね」
「成程。アレルギーがあるのだったら対応食の指示をするつもりでした。ところで今日はどういった御用で?」
「いろいろさ。家に買って帰るのと、差し入れにケーキでも貰いたいのだが」
「家に買って帰るのは焼き菓子で良ければ、配送にしますけど?」
「それならそれで頼もうかな」
「分かりました。後で伝票を送りますね」
それじゃあ私はこれで、ゆっくりして下さいねと言ってオーナーは自分の作業に戻るようだ。
カウンターにいる江藤さんがオーナーを引っ張った。
「オーナー、あのクールそうな和服イケメンは誰ですか?」
「高校の先輩。必修クラブで初心者の私にいろいろ教えてくれたの」
「それって何ですか?」
「入りたいクラブに入れなくてね、将棋クラブだったの。面倒だから卒業までずっといたわ」
「だからたまに常連さん達とオープンテラスで将棋を指していたんですね」
「あの方たちの方が強いわよ。私は教えて貰っているだけ」
オーナーは微笑んで作業の手は止めていない。その行為はお客さんを見つめる江藤さんに警告を発している様にも思えた。
ケーキのショーケースを見て、オーナーはスマホを操作している。上の階の椎名さんにケーキの在庫の報告とパンの残量の報告だろう。椎名さんは出来上がったスイーツとパンを下ろす時には店舗フロアに降りてくるけれども、内線代わりにスマホでやり取りをしている。同じように桐谷さんとのやり取りもスマホの事が多い。作業を邪魔したくないし、厨房まで行く必要性がある訳じゃないからこれで十分よって笑っている。仕入れ伝票はお店のポストに入れてもらう様になっているらしい。オーナーは焼き菓子用の箱にランダムに焼き菓子を入れて包装紙を巻いてから、宅急便の袋に入れた。天地無用のステッカーを張る事を忘れない。再びお客様の元に戻る。
「先輩、今の住所を聞いてもいいですか?」
「その位いいぞ」
「伝票に直接書こうか?」
「それはいいです。私個人名で出しますので。宅急便業者で送りますね」
「悪いな。料金は?」
「そんなのいいです。三年間の授業料として貰って下さい。今は先輩に教わるなんて無理ですもの」
「今回だけだ。ところでお前……大槻さんと連絡取っているのか?」
「大槻さんとはメールで定期的に取っていますよ。加瀬先輩情報ですか?」
「そうだな。あの人なら川野先生が一番だろう?」
「先生には私からメールを送っておきますね」
「俺がお前の店に行ってみるかって言っただけでこれだからな」
「その加瀬先輩が小学校の先生なのですから……かなり納得いきません」
「そう言うな。俺もそろそろ打ち合わせ先に向かうか。タクシー手配して貰ってもいいか?」
「いいですよ。タクシーですか?」
「ケーキ買って電車移動はできないだろ?」
そうでしたね。それではケーキを選んで下さい。私はタクシーを手配します。
オーナーがレジの傍でタクシーの手配をしていると江藤さんが張り付いている。
そんな彼女が分かり易くて、私は苦笑いしている。そんな事をして気分を害されないといいんだけど。
そんな江藤さんを上手く交わしている。仕事すらも明かしていない。
でも、私は分かっていた。名人戦って言っていたもの。でも私はその事を言うつもりはない。
「麗ちゃんは分かっているんでしょう?彼の事」
「多分ですけど。それをするのは、この店のコンセプトを壊す事になるのでこのままでいいと思います」
「そうね。私の祖父も将棋が好きだから多少は分かるの。あの方はこないだ名人戦の」
「オーナーの知り合いって本当に多彩よね。こないだはバレーボール選手がいたじゃない。運動をしていたって話を聞かないのに……不思議よねぇ」
「そうですね。不思議と曜日によってお客さんが別れたわね。水曜日は幼稚園のママさん達で溢れるじゃない?」
「それは店の前がバス停の幼稚園が早く終わるのでそのせいでしょう」
「他の日はこんなに隠れ家的存在なのにね。それに仕事のできる男性が一杯見られるなんて幸せ」
「沙織さんだって……仕事ができる男性は良く見るじゃないですか?」
「うーん、教授達はね、専門分野はすごくできるけど……それ以外は結構がっかりよ?」
「そうなの。それはあんまり知りたくないかな。学生の立場からすると教授ってすごい人のままでいて欲しい」
「そうね、私もそろそろ教授のお土産をチェックしようかしら?樋口名人もいなくなった事だし」
「あーあ、名前言っちゃいましたね。ダメですよ。江藤さんモノにするつもりだし……」
「あの子じゃ無理でしょう。中身がないから。もっと教養を詰めたらいいのにね」
「まあ、それはそれなので。それにしても沙織さんの担当の教授も凄い甘党ですよね」
「そうね、そっちが問題だと思うわ。ケーキがないと論文書けないってダダをこねられても困るわ」
沙織さんはそう言うと大きなため息を付いた。確かに、自分の娘さん位のお嬢さん相手にそんな屁理屈を言われるのはちょっと……問題かもしれない。
沙織さんが腕時計を見て、そろそろ戻るわと言いながら席を立った時に、時間はバラバラだが欲お店に来る常連のお客さんの携帯がけたたましくなり始めた。
不思議なのは、彼が携帯に出ることなく着信を切った事。急いで残っているランチを食べ始めたのが凄く異色に見えた。
「すみません、急に携帯が鳴って」
「仕方ないですよ。お仕事でしょう?」
「そうなんですよ……あっ、デザートプレートまだ食べてない。どうしよう」
「デザートはキープしておきますんで、シフトが終わったら来て下さい。先にお会計だけ貰った事にしておきますから」
「すみません。オーナー。助かります」
「走って帰るのでしたら、私の私物ですけど自転車乗っていきますか?」
レジの隣に置いてある自転車の鍵を手渡す。
「いいんですか?」
「これなら多分2分位で到着しますよ。さあ、言って下さい」
「それじゃあ、後で自転車返しに来ますね。お借りします」
「はい、行ってらっしゃい」
いつもなら、ありがとうございますって言うのに、手を振って送り出していた。
「麻生さん、いいんですか?自転車貸し出して」
「大丈夫ですよ。この店が出来てから本格的に知り合った人ですが、彼は従兄の後輩に当たる人物なので。あの従兄が気に入った人なので悪い人ではないです」
「あの方の職業は?タクシーか何かですか?」
「違うわ。あそこよ」
オーナーは入口の窓から見える真っ白なビルを差した。そこにあるものは一番近い総合病院だ。
「成程、そう言う事ですか。それなら納得ですね」
「でもね、店の子達はあまり知らないの。だからそっとしておいてあげてね」
オーナーと沙織さんは声のトーンを下げて何かを話しながらケーキのテイクアウトの準備をしていた。
「あの……さっきのお客様なんですが。」
「何?麗ちゃん」
「デザートプレート食べてないです」
「そうね、いいわ。トシ君にはこっちから指示を出すわ」
珍しくオーナーは厨房の入り口に行って、調理長に話をしていた。
「分かったよ。渡辺さんらしいけど、あの人も本当に忙しいな」
「そうね、渡辺さん仕様のランチボックスに変更可能なランチメニューを考える?」
「あっ。それいいかも。急に戻ってもランチボックスなら後でも食べられるな」
「でしょう?ちょっとメニューを考えて貰ってもいいかしら?」
「分かった。オープンの時には無かったメニューがどんどん増えるな」
「ごめんね。でも対応してくれるとし君には感謝しているわ」
さあ、仕事に戻りましょうと言ってオーナーはフロアーに視線を落した。
渡辺さんが慌ただしく戻っては言ったけど、他のお客様はのんびりと過ごしている。営業日報を作成している営業さん、生命保険の社員章を付けたスーツを椅子の背もたれにかけてグラタンランチを食べている人。この時間は、忙しいサラリーマンの休息の場になっている。
「こんにちは。宅急便です」
さっき、犬がシンボルマークの宅配便会社に連絡を入れたばかりなのに早速やって来てくれる。
見慣れた、真っ赤なトレーナーとベージュのチノパンツが宅配便のお兄さんらしく見えない。これでハンチング帽を被ったらカジュアルなカフェの制服でも通用しそうだなって私はお兄さんを見て思う。
「御苦労さま。夕方にも顔を出して貰いたいのだけども、この荷物を発送して貰ってもいい?個人名で送りたいから普通の送り状一通貰ってもいい?」
「いいですよ。珍しいですね。麻生さんが個人名で伝票だなんて」
「うん、この個人名を無防備に晒すにはちょっとね。はい、これでお願いします」
「これからは雪が降ってくるので着日指定は辞めた方がいいですね」
「相手が確実に自宅にいる日に届けたいので急に送る事はないですよ」
「この名前って……」
「あっ、高校の先輩なんです。こっちに来たと言う事で顔を出してくれたんです。私に教えてくれた師匠さんでもあります」
「俺も少し将棋やるから……そのうち会えるといいなあ」
「分かりました。今度先輩が来た時にシフトだといいですね。ではお願いします」
「はい、お預かりしました。料金は……丁度ですね。今回は明日のお届けになります」
「よろしくお願いします」
「毎度ありがとうございます。じゃあ夕方来ますね」
若い宅急便のお兄さんは笑顔を残して走って行った。
「そろそろ皆お昼を食べ始めて頂戴」
オーナーの一言で、私達のランチタイムが始まるのでした。
次回から、新たな制服の職業の人が現れます。
ようやく、エトワールの制服が出せました。