謎の男
「うふふふふ。跪いて命乞いをなさい…あなたはこっちの坊やより見目がいいから、わたしの隷属にしてあげる」
映司はボロボロになった服の袖を破り、器用に口を使って腕を縛ると、
「生憎、間に合ってるんで遠慮させてもらう」
「どこまで強気でいられるかしら?」
いくらか平静を取り戻したらしいカミラは、妖気の漂う微笑を浮かべた。
行け、と短い命令で再び彼女の下僕が走る。
「さあ、その血を喰らいつくすのよ!」
咄嗟に飛びのこうとするが、思ったより足が動かない。
仕方なしに逃げることを諦めて、映司はその場に後ろ向きに倒れこんだ。そのまま手近に落ちていた木切れを掴んで、目前に迫った望月だったものの、その大きく開けられた口に突っ込む。
上顎と下顎を引っ掛けるように縦に無理矢理押し入れると、口が閉じれずに、彼は目を白黒させた。
多少良心が痛みながらも、素早く立ち上がると四つん這いになった横腹を蹴り上げる。
「ギャウンッ!」
犬の悲鳴によく似た声を出しながら、それは転がった。どうやらもう、完全に動物化してしまったのだろう。
何とも言えない複雑な表情をしながら、映司は胸の前で十字を切った。しばらく動けないはずだ。
「役立たずな坊やね……わたしが直接相手をしてあげるわ」
にたり、と爬虫類に似た笑み。背筋に寒気が走る。
映司が動くよりも早く、カミラが飛んだ。およそ人間には不可能な跳躍力。笑う口元からは鋭い犬歯が覗き、目は妖しく赤く光っている。
ほんの一瞬だった。
一瞬、その瞳を注視してしまった。
それだけで、映司の体は金縛りのように動かなくなる。
それは彼女の一族が持つ、魔眼のせいだ。
魔眼は、それを見た相手に暗示をかけることができる。例えば、味方を敵と思わせたり、ありもしない化け物を見せたりする。
暗示は目を見ている時間と比例して強くなるため、一瞬見ただけならばその動きを止めるぐらいが関の山だ。
だが、それはこの場合致命的だった。
カミラの長い爪が、肩にかかる。
バヂイィィッ!!!
瞬間、電気が弾けるような音がした。
体を走る衝撃。しかし彼以上に衝撃を受けたのは、目の前のカミラだ。
見れば両手の先が焼け焦げている。
「……これは……防御結界……?これほど強い結界は見たことがない……」
思わず恐怖心も忘れて、映司はつぶやいた。
直後、ガサガサと草むらを掻き分けて歩いてきたのは壮年の男性だ。
黒縁の眼鏡をかけ、豊かな黒髪を後ろに撫でつけている。
「主の御名において命ずる……闇の眷属よ、あるべき場所へ戻るがいい!貴様らの住処はここにはない!消え去れ、吸血鬼カミラ・ホークウッド!」
男性が声を張り上げ、ロザリオを掲げた。カミラはというと、驚きと嫌悪の混ざり合った形相で、それを見ている。
しかしそれも一瞬のこと。
彼女の足元から炎が噴き出すと、その体を包み込んだ。
「いや、いやあああああああ!!なぜ、なぜ?! なぜわたしが!!」
「我は汝の名を知る者、古の約に従いその身を燃やせ!」
さらに一歩踏み出しながら男性は叫ぶ。
やがて炎がすべてを焼き尽くし、後に残った灰が風に乗って散っていく。
ふう、と安堵の息を吐いて、男性は映司の方へ振り返った。
「もう大丈夫だ。よくがんばった」
「……あなたは……」
問いかけようとした時、校舎の方から走ってくる足音と、彩芽の声が聞こえる。
無事だったことに安心しながらも、映司の視線は変わり果てた望月へと向けられていた。
「これも……あなたが?」
「邪魔されては厄介だったからね」
柔和な笑みを称えて男性は言う。映司の蹴りのダメージなどすでにない彼が、立ち上がることすらできなかったのも、男性が結界を張ったからだというのは解っていた。
そして、再びの疑問が頭をもたげる。
「あの……あなたは、いったい?」
「わたしはバリー。バリー・フィーア」
男性は淡々とそう答えると、動かないままの望月を片手で担いだ。
それから映司を見やり、微笑んで言う。
「お友達はわたしが預かろう。元に戻せるかどうかはわからないが、できる限りのことはしてみるよ」
「……でも」
「わたしが信用できないかい?」
助けてもらっておいてそれでは、あまりに失礼だろうと彼は首を横に振る。バリーは少し落ちた眼鏡を中指で直しながら、
「ほら、お友達が呼んでいる。早く帰ってあげなさい」
「……はい」
「縁があれば、また会うこともあるだろう」
どういう意味なのか。問いかける間も与えず、彼は森の奥へと望月を連れていった。
駆け寄ってくる二つの足音が、何故だかずいぶんと遠くに聞こえる。
完全にバリーの姿が見えなくなってから、映司はその場に膝をついた。今になって、冷や汗が大量に湧き出てきていた。