逃走失敗①
仕事に追われている間に、気付けば1か月過ぎてしまいました(汗)
スローですが、ぼちぼち更新しますので、良ければ読んでください!
爺フェチなので、気を抜くと爺が主役の座を奪ってしまいそうです。
-御大。
関東一円のヤクザが言えば、その相手は一人しかいない。
関東最大にして、鬼頭組にとっては上位組織に当たる関龍会の組頭、長谷川菊蔵その人だ。
齢七十歳だが、依然その立ち居振る舞いに老いは感じさせない。
手に持っているというか、振り回している杖は、杖としての本来の用途はあまり発揮されておらず、どちらかといえば使えない構成員をぶちのめすための愛用品だとか、中に仕込んだ剣で大立ち周りをするだとか、実はライフルに変わるだとか、眉唾物の逸話に絶えないが、とりあえずあれで叩かれると痛いことは零でも知っている。
上質な利休鼠の絣の着物に羽織、パナマ帽を小粋に被って笑うその様からは、到底血で血を洗う裏社会のボスとは連想できず、孫に甘いお爺ちゃんとしか思えないだろう。
何がむかつくといって、本人がそれを意識して効果的に活用していることだ。
「なんじゃラン。出迎えてくれたのか? ほれほれ、久々に会えて嬉しいのはわかるがな、まあちょっと落ち着いて座れ、座れ」
逃げ損ねたことに落ち込んでいる間に、ソファに戻されてしまった。
女と黒服は入れ替わりに退出し、鵬春と並んでの着席である。広いソファとはいえ、斜め後ろには筧に立たれ、自分は何の罰ゲームを受けているのかと、やや現実逃避気味な零はうつろな視線を明後日の方向に飛ばした。
零達の向いには菊蔵がどかりと腰を下ろし、その後ろに妹尾が控えた。こちらもほんわかとした雰囲気の優男なのだが、「長谷川の懐刀」といえば裏社会では知らないものはいない。名を聞けば青ざめ、胆力のないものはその名を聞くだけで腰を抜かすとまで言わしめる、関龍会の夜叉こと「妹尾継人」である。
零にとっては、菊蔵より妹尾の方が触れ合った時間は長い。そしてその濃密な時間は幼い零にとって、若干トラウマになりかけるものであった。巷では「鬼頭の狂気」などど呼び名があるようだが、本物の修羅には敵わない、というのが零の本音である。
というよりは関わりたくない。
最近の自分を振り返ってみるが、こんな仕打ちを受けるような悪事を働いた記憶はない。せいぜい篠宮で疾しい想像をしたぐらいで、それだってこの年齢の男であれば、健全なレベルのはずだ。
あとは慧とつるんで、ちょっと目障りだった年少組をぼこったぐらいで…。
「慧のやつが何かしたんですか?」
狼狽と現実逃避とがほどよくブレンドした思考回路が弾き出した問いかけが失言だったことに、目の前の爺が「にや~」としか表現できない笑みを見せた瞬間に気付く。が、今頃自失から覚めても遅かった。
「…ほーう、ランは慧とまだつながりがあったんじゃのう?」
「い、いや。お二人を見たらなんというか思い出しまして…。別につながっているとか、遊んでいるとか、そんなことは」
冷静に考えればもう少しまともな切り替えしができたのだろうが、残念なことにその時の零は平静ではいられなかった。
にやにや笑う爺の後ろで、にこやかな優男が携帯をかけ始めたからだ。
-あ、あれ俺のに似ているなあ…。などど考えてしまうあたり、立ち直れていない証拠ともいえる。
「おやあ、そうかい? 昔は結構仲が良かったじゃあないか。慧もランにだけは懐いていたしなあ」
「それは年が近いのが俺だけだったことと、二人とも妹尾さんにぼこられーい、いや稽古をつけてもらっていたからじゃないですか?」
笑っている妹尾に見られただけで言い直す零は、傍から見れば先ほどの傲岸不遜さはなんなのかとからかいたい程だが、妹尾の恐ろしさを知っている男たちは誰も何も言わなかった。
「ああ、慧君? 宿題中ですか? 今ラン君にお会いしているんですが。…ええ。…いえ? 同じことをラン君も言っていましたねえ。」
ふふふ、と含み笑いをする妹尾に、もはや零は声もでない。
「おや、この前いないと思ったら、そんなところに行ってらしたんですか?」
妹尾の相槌が怖い。一体いつの何の話をしているのかと怒鳴りつけたいが、生憎携帯は到底手の届かない場所にあり、何より妹尾に飛び掛かろうものなら、明日の朝日は拝めないだろう。
ちらりと隣の鵬春を見ると、相も変わらずの苦虫顔で目をつぶっていた。
「…色々と聞きたいことはありますが、とりあえずこちらにいらっしゃい。…ええ、銀座の。…そこですよ。20分以内に来なければ、忘れられない思い出を作ることになりますよ?」
まったく笑えない脅し文句を最後に、妹尾が携帯を一方的に切った。電話の向こう側で怒鳴り声が聞こえた気もしたが、ちっとも可哀そうとは思えない。
「…それで、俺とは何の縁もない方々が、いったいこんな手の込んだことをして、何だっていうんですか」
妹尾が慧と話している間に、少し落ち着きを取り戻すことに成功した零は、未だに笑みを浮かべている老人をにらみつけた。
「ふむ。孫とも言える子供が息災にしているか、会いたいと思うのはいけないことかのう?」
「もう一度言いますが、俺とあなた方は縁もゆかりもないはずです。瀧和零が、あなた方と接点を持つことはない。今までも、これからも」
それがルールだったはずだ。どのような事情があれ、それを破るつもりも破らせるつもりも、零にはなかった。その意思を込めた眼差しを受け、ようやく菊蔵は笑うのをやめた。
柳のように零の威嚇を受け流してた菊蔵が、真っ向から零と睨み合うと、それだけで空気が軋むような威圧感がある。筧などはプレッシャーに耐えきれず、一歩後ずさってしまう。
一触即発の均衡を破ったのは、それまで沈黙を保っていた鵬春だった。
「…お前が、瀧和零であり続けたいと思うのなら、今は黙って御大の話を聞け」
突然話しかけられて、思わず零は視線を鵬春へと向けた。菊蔵と同じく和装の鵬春は、ぴんと背筋を伸ばして腕を組み、零を見つめていた。
こちらもやはり、すぐにヤクザとわかる人はいないだろう、藍色の着物に羽織の赤紐が映え、泰然としたその佇まいから連想するのは梨園や文学者などの芸の者だ。切れ長の瞳は闇を吸ったように黒く容易に肚の内を見せない。久しぶりに会った最後の肉親である叔父は、まるで鏡の向こうの自分を見ているような、奇妙な安堵と嫌悪感を思い起こさせた。
「…何がありました」
菊蔵とその忠実な僕である妹尾は、それこそ本当に「孫に会いに来た」と言い出しかねないが、鵬春は違う。零が絶対と決めるルールがあるように、鵬春も一度約したことを違えることはない。
その鵬春が渋々とはいえ、ルールを破った。いや、破らざるを得ないことがあったのだ。
決してその決断は零のためではなく、鬼頭組のためだろう。そして鬼頭と零が交わる先には、「ラン」と呼ばれる、今は死んだ少年しかいない。
「哭鬼が動いたんですか?」
いきなり核心に切り込んできた零に、男たちは瞠目し、思わずため息をついたのだった。