3.真夜中の密会
零がこの世から消えてしまえば良いと思っているもののうち、上位ランクに「場をわきまえない女」というのがある。ちなみに、それが男であった場合は二度と零の前に姿を見せないよう教育するので、考慮に値しない。
これみよがしな赤いルージュの刷かれた唇が、頬に触れる寸前で身を引く。
気弱な笑みを浮かべて見せながら、うんざりとした溜息を噛み殺した。
鼻腔に侵入してくるきつい香水の香りには嫌悪しか催さない。豊満と呼ぶにはいささか締まりのない体を、窮屈な一昔前に流行ったと思わしきチューブトップのワンピースに押し込み、更に身を寄せようとしてくる女から離れようとする。
こちらを初な少年と思っているのか。ソファの隅に追い詰められたところで、どうにかしろと向かいの席に座っていた男に視線を送れば、にやけた笑みが返ってきた。
「…樋さん」
こちらの嫌がることを楽しんでいる男には、助ける気などさらさらないようだ。
無遠慮な手が粘ついた仕草で膝から上がってきそうになった段階で、零のあまり長くない堪忍袋の緒が切れた。
音が鳴るほどの勢いで女の手を叩き落とすと、相手は鼻白み声を上げようとする。しかし、見下ろしてくる零の視線の冷たさに喉の奥で悲鳴を押し殺すと、打って変ったようにソファの反対側にまで後ずさった。
そこまで馬鹿ではなかったようだと、嫌悪感を払拭するよう触られた膝をはたき、さて目の前の男はどうかと視線を戻す。
樋は、にやけた表情はそのままに、ただ眼の奥には底冷えのするような冷たさを宿していた。
「まだ鈍っていないようで。安心しましたぜ、坊っちゃん」
「…その呼び方は止めてください」
今更取り繕う気分にもなれず、憮然とした顔で吐き捨てる。
過去を断ち切ったつもりでいても、過去の方が自分を放っておいてくれないらしい。
自分の来し方にも、自分を値踏みするような男の態度にも苛立ちが募るばかりだ。
ここで男を葬ったとして、見つからずにいる可能性はいかばかりだろうか。そんな埒も明かぬことさえ考えてしまう。
男を上手く始末して、警察の目はごまかせたとしても、組の目はごまかせないだろう。
樋大祐―鬼頭組の若頭ともなれば、一介の高校生が立ち向かえるものではない。
「それで、こんな場所に未成年を連れ込んで、いったい何だっていうんですか?」
留守番で一方的に指定され呼び出されたのは、銀座の一等地の裏通りにある高級クラブの一室だった。金をかけ重厚さを狙ったつくりなのだろうが、しょせんはクラブ、品があるとは言い難い。
幅も厚みもあるガラステーブルの上には、高価なボトルが置かれ、重い扉の前には黒服が2名突っ立っている。
窓のない個室は密談には最適なのだろう。大物政治家たちも使用するこの店が、鬼頭組系列のものだとは簡単には気付かれない仕組みにはなっているのだが。
最近青春の真っただ中にいた零の目からすれば、薄暗く重苦しい部屋に、何が悲しくて中年の男女と閉じ込められなければならないのかと、不貞腐れたい気にもなる。
もっとも、座り心地は良いこのソファの上で、篠宮と何ができるか想像するのは、かなりそそられることではあったが。
「その面で未成年と言われてもなあ」
確かに、今の零を見て未成年だと思うものは少ないだろう。学校の同級生が見ても、決して零とは気づくまい。
トレードマークの黒縁眼鏡を外し、黒のカラーコンタクトを外した零は、がらりと印象を変えていた。
もともと四分の一は欧州の血が入っているだけあり、本来の零はかなり明るい茶髪に、金に近い琥珀の瞳をしている。
学校では悪目立ちをする上、その色合いは裏社会で有名になりすぎたため、堅気の生活に入ると決めた時から、髪と瞳の色を変えることにしたのだ。
髪は染を落とす余裕も時間も気力もなかったが、カラーコンタクトを外しただけでも、生粋の日本人には見えなくなる。さらには学校で標準装備していた柔和な微笑を消し去り、完全な無表情となっているので、身に纏う雰囲気すら変わっていた。
もともと自分の容姿が好きではなかった零にしては、まんま「日本人」コスプレの黒髪黒目に大変満足していたのだが、まさか深夜の銀座に同級生が徘徊しているとは考えられないものの、変装はどうしても必要だったのだ。
くくく、と喉の奥で樋が笑い、手酌で注いだウィスキーを差し出してくる。
悪ふざけに付き合う気は毛頭ないので、目線で黒服を呼び寄せミネラルウォーターを持ってこさせた。
僅かな視線と手の動きで、難なく黒服を扱うその様は、まかり間違っても単なる高校生とは言えない。
ノーブルな顔立ちと、その佇まいから滲み出る品格が、やや陳腐さの否めないこの部屋すらも、貴族の屋敷のように感じさせてしまうとは、本人ばかりが気付かぬことなのだろう。
現にさきほど冷たい態度を取られた女ですら、零の一挙手一投足を魅入られたように追っているのだから。
途中から組に入ってきた樋は、目の前の少年の幼い日を知らない。零が滝島へと姓を変えた事件の顛末には関わっていたものの、古参の組員たちの多くは今の組長に代替わりした際に粛清を受け、残っているものは過去に対して頑なに口を噤んでいるためだ。
ただ、裏社会に生きる者の多くがそうであるように、少年も幼少より闇を背負い生きてきたことは想像に難くない。気怠げな態度の下から時折見せる冷徹さに、冷たい手で背筋を撫でられるような感覚を覚えるからだ。
同時に、絵画から抜け出たようなその美貌に潜む残忍さには、腰骨が痺れるような酩酊感もあり、思わず足元に額ずきたい気持ちにさせられる。
樋が零と居た時間は、2年ちょっとのことだった。零の世話係という名の監視役として、四六時中傍に付きまとっていたのである。
その頃から突出したものを持っていたが、年を重ねたことでそれは更に磨きがかかったようであった。あのまま組に居られたら、零を擁した一派が今の組長と対立していた可能性もあり、想像するに恐ろしい。
今回のやまについて、零の協力を得るよう組長から命令があったとき、正直樋としては堅気の少年に是非を仰がなければならないのが苦痛であった。
零が組を離れてから2年。その前でさえ、彼が「鬼頭 の狂気」の片鱗を見せたのは件の事件のときだけである。
当時、世話係として傍に控えていた時の零の印象は、美しいだけで中身のない人形、だった。実際どれだけ殴られても、悪しざまに揶揄されても、頬の筋一本動かさないそのさまは、動く人形のようで。樋としては、この子供は「壊れている」と思っていたものだ。
しかし、その後の事件で、彼の壊れ方が樋の想像していたものとは異なることを知り、そして組の中で囁かれていた「鬼頭の狂気」なるものを目の当たりにした時、この世に修羅は実在するのだと知った。
2年経った今でも、悪夢として甦るその光景。
けたたましい嗤い声。怒声。床にも壁にも飛び散った血糊に、誰のものとも判然としない熟れたトマトのように潰れた…。
あいにく期待に反して―組長に言わせれば期待通りに、零はあの頃の容貌を陰らせることなく、むしろその輝きは昇華され、見る者の目を奪い、悲しいかな樋の悪夢も当分塗り替えることは叶わそうである。
「それで。御用の向きはなんなんですか?」
明日は朝から英語の小テストが控えているので、早く帰りたいんですがね。と、いっそ清々しいほどの厭味ったらしい口調で問いかけてくる零に、自失していたことに気づき、樋はグラスの縁で苦笑を隠した。
「英語なんざ、お勉強する必要ないじゃないですか、坊っちゃんなら」
樋が知るだけで、少なくとも3ヶ国語は流暢に話しをしていたはずだ。通訳を雇う必要がなくて良いと、組長が笑っていたのを覚えている。
「わざと間違えるのが、案外難しいものでね。どれがひっかけ問題か見分けないといけないんですよ」
憮然と嘯く内容は、思わず絞めてやりたいほどふてぶてしいものだ。あまり勉強の類の得意でなかった樋からすれば、羨ましい限りである。
「…最近、ウチのシマでおいたをしている奴らがいるんで」
「とっととバラせば良いんじゃないんですか?」
天気を語るような口調で、平然と返してくる少年に、樋は苦笑を禁じ得ない。2年間のかたぎとしての生活は、しかし彼の本質を変えるだけの力はなかったようだ。
「まさか天下の鬼頭組が、しめしの一つもつけられないんですか? 自分たちで解決できないようでしたら、とっとと警察に助けを求めればいい」
「ウチがバラす前に死体になられちゃあ、こちらも動きようがないんですよ」
「何ですか、それは? 勝手に死んでくれるんなら万々歳じゃないですか」
「それが1回ですめば良いんですが…。もう今月で5体目かな。シマを荒らすだけ荒らして、ウチやワン公がアジトを叩く前に、ぶち殺されちまってね。…しかも、顔を滅茶苦茶に潰されて」
興味なさそうにグラスの中の水を回して遊んでいた零が、その言葉に視線を上げた。
瞬間、突きつけられた殺気に、知らず樋はソファの上で後ずさろうとしていた。
「…それが、今回僕を呼び出した理由ですか?」
炯炯と光る琥珀の瞳は、冷たく揺れる焔を宿し、溶けた黄金のような輝きを放つ。居竦む樋を、鬼気を纏った少年が嘲笑う。
「まさか2年も経って、こんな腹の立つことを言われるとはね。組長は、よっぽど僕がお嫌いのようだ。それで? 樋さん、僕は今からどうするべきでしょう?」
「…どうする、とは?」
気おされて無意識のうちに聞き返す樋に、零は幼子を諭すように答える。
「ですから、まずは見せしめに貴方の身体のどこかを切って組に戻すか、それとも殺してから返すか、ですよ。やはり、顔面を潰してからお返しするのが良いですかね?」
無邪気な問いかけに樋は唾を飲み込む。零の背後にいる黒服に視線を走らせ、何とか優位に立とうと思うが、それでも冷や汗が止まらず、脳裏には2年前の惨劇が甦る。
当時、あの部屋には屈強な男が3人もいた。そして、少年は今よりもよほど幼かった。にもかかわらず、最後にあの部屋に立っていたのは…。
息を殺す樋の耳に、朗らかな笑い声が聞こえてきた。
はっと逸らしていた視線を戻すと、零が腹を抱えて笑っているところだった。
「…っ、冗談ですよ、冗談。あ~そんなあからさまに怯えなくても、ねえ」
くくく、と目尻に溜まった涙を拭う少年からは、先ほどの威圧的な気配は微塵も感じられない。
「樋さんがあんまりにも僕を苛めるから、思わず意趣返しを。僕を疑っていたら、あの組長がこんな温い手を使いませんって」
零にとっては、唯一残された血縁者―戸籍の上では、まったくの接点はないものの―である叔父。鬼の血をひく鬼頭鵬春 は、零が一人逆らうことをしない人物だ。
逆らって騒ぎを起こすのが面倒というのもあるだろうが、ある意味叔父は零の恩人でもあった。こうして堅気としての生活を送れるのも、叔父のおかげと言えなくもない。もっとも、そこには余人に知られぬ取引があったりもする。
「鬼頭の狂気」を地でいく叔父は、零の唯一の理解者でもあり、また零も叔父を理解できる数少ない一人と言える。お互いに相手の胸の内が読めるのを、ありがたいと思ったことはなかったが。
「それで、あの組長が僕に何をさせたいって言うんですか? 二度と顔を見せるなと仰っていたのは、あちらだったと記憶していますがね」
それが別れの言葉であったはずだ。
全てを帳消しにし、全てを忘れることで得られた自由。自分が優秀な駒であったことを零は認識している。同時に、組を第一と考える叔父にとって、非常に邪魔な存在となることも。それゆえに、お互いに利益の出る形で事の始末を終えたのだ。
「…今回の件は組長の判断ではないんで」
だから樋の言葉はある点においては納得のいくことであった。
「まさか樋さん、死ぬつもりですか?」
しかし組長の命令で動いていないのであれば、それはすなわち組への背信。裏切り者には容赦ない制裁を下すのは裏社会のルールだ。そして零は事実として、樋と叔父の力量の差を知っている。
「ち、違いますって。洒落にならんことを言わんでください。組長からではなく、御大からの指示なんですよ」
思わず呆れた声を上げる零に、焦った樋は慌てて弁明する。その瞬間、零は顔色を失った。冗談ではなく、まずいことになりそうな予感に背筋がざわめくのを感じ、零はさっと立ち上がった。
「坊ちゃん?」
「…樋さん、叔父には宜しくお伝えください。僕は明日早いのでここらで失礼させていただきます」
せかせかと別れの言葉を告げながら、突然の事態に唖然とする樋を残してドアに向かう。自分は平穏な時間を過ごすのだ。闇も腐臭も血も関わりのない、光の世界で暮らす。こんなことに関わっている暇はない。
だが、零の決意も願いも虚しく、彼がドアに手を伸ばした瞬間、別の誰かの手によって、ドアは外側から開かれた。
ドアの外側には、飄々と笑う好々爺と、静かな笑みを張り付けた優男。そして苦虫を百匹ほどかみつぶしたような鬼頭鵬春の姿があった。
「いよう、ラン。元気だったかよ?」
かかっと笑う老人に、零が答えられたのは唸り声だけだった。
零君、逃げ損ねました(笑)