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この手の先に  作者: tendon
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2.ヘブンズドア

 3Kの仕事の条件はなんだったか。

 青木大地(あおきだいち)の脳裏には、一日一回その問いがめぐる。

 きつい、汚い、臭いである。

 まさしく、青木がしている仕事といえるだろう。

 俺、なんでこんな仕事しようと思ったんだっけ。そう考えてしまう青木は、今完全な燃え尽き症候群にかかっていた。

 ノンキャリアとして警察に入った当初は、青木だって意欲に燃えていた。自分が町の平和を守るんだ! と青い理想を掲げていたのだ。

 だが、40歳も目前に控え、6年付き合っていた彼女にはIT系の社長に鞍替えされた今、はっきり言って青木からやる気というものは失われていた。

 自分一人では世界は変わらない。悪人を捕まえても、別の悪人が湧いてくる。世界が悪意を求めているとしか思えないほど、10年前より確実に治安は悪化していっている。正義の門番たる警察内部でも悪は蔓延り、利権争いは醜悪なほど。

 ぶち当たる壁の高さに辟易しても無理からぬことだろう。

 しかし、青木の思惑とは裏腹に、それでも世界は進んでゆく。食べてゆくためには働かなければいけないのだ。

 というわけで、青木は今日もやる気のない顔をしながら足もとの撲殺死体を調べていた。

 初夏とはいえ、死後数日経過している死体は、早々に腐乱が始まりかけている。

「…ぜってえ、3Kだよな」

 ぼそりと呟いた声が、斜め後ろで今にも青木のスーツに吐きそうになっている新人にも聞こえたらしい。「ふへ?」とハンカチ越しの間抜けな問いかけを無視して、青木は現場を鑑識に譲った。

 遺体遺棄現場だった地下から外に出ると、高く上がった日差しが目を射る。

 空は能天気なほど明るく青く、どこかで昼寝でもしたい気分である。

 スーツから煙草を取り出そうとして禁煙中だったことを思い出し、眉間に皺を刻みながらガムを口に放り込んだ。先日祖父が肺がんで死んだのをきっかけに禁煙を始めたのだが、すでにニコチンが恋しくてたまらない。

「あの、青木刑事…」

 よろよろと階段を上がってきた新人の青ざめた顔に、そういやいつから死体に慣れたのかな、と思い返す。

 刑事部に配属された当初は、青木もご多分にもれず吐き気を堪えるのに一杯いっぱいだった。憧れの刑事部ではあったが、やはり実際の現場はテレビなどとは比べ物にならない。

 テレビとはまず色が違う。しかもテレビは臭いを伝えない。人の死体というものは、ある種独特な臭いをしており、慣れるまでにはそれなりに時間がかかった覚えがある。

 隣に置いてあった自販機で缶コーヒーを買い、一本を新人に渡してやる。

 恐縮して受け取る新人を視界の隅に追いやりながら、先ほどの死体を思い出す。同様の事件がここ1カ月で連続しており、今回も顔をめった殴りにして原形を留めていない手口から同一犯と思われた。

 顔をつぶされた撲殺死体を見ると、いつも刑事課に配属されたばかりに扱った件を思い出す。

 今でも鮮明に焼きついたその姿を。

 当時わずか12歳だったその少年は、血塗れの木刀を手に血の海の中に佇んでいた。

 血を洗い流したその姿は天使のようにあどけなく、栗色の髪と瞳も相まって高価なビスクドールを連想させたが、淡い色のその目はぞっとするほど表情がなかった。

 悪意と狂気の満ちた屋敷の奥で隠されて育ち、大人たちからも恐れられていた彼は、結局事件の経緯から少年院に送られることはなく保護観察処分となったのだが。

 その後中学卒業を目前に、組の若手衆の抗争に巻き込まれ、死んでしまったと伝え聞いた。

 その知らせを、当時の事件を担当していた、定年を間近に控えた老齢の刑事から聞いたとき、二人とも俯いて押し黙ったのは、己の無力さに打ちひしがれていたからだ。

 血ぬられた凶行現場に不釣り合いな子供に、結局大人たちは何もすることができなかった。自分の母とその愛人をその手にかけても、何の感慨も抱かないほど壊れてしまっていた彼が、救われる道はないかもしれないと思っていたのは確かだったが、それでも殺伐とした世界しか知らないまま逝かせたくはなかったのだ。

 結局それが青木のエゴに過ぎなくても、すべての子供たちが恵まれた環境に育つと限らないとわかっていても、生きていればきっと「良かった」と思えることに出会えると、そのころの青木はまだ信じていたかったのだろう。

「…なんて名前だったっけか」

 少年の目だとか、木刀を握りしめていた手の冷たさだとか、そういったことは今でも鮮明なのに、事件自体はすぐ収束に向かったためか、肝心の名前はうろ覚えだった。

「青木刑事、鑑識がこれを」

 とりとめない思考を遮ったのは、まだ青ざめた顔をした新人刑事だ。その手に持っている白い粉の入った小さな袋を見て、青木は深い溜息をつく。

「ヘブンズドアか…」

 ここ数か月若者たちの間に出回っている新手のドラック、そしてそのバイヤーに警察が接近するたびに増える撲殺死体。

「あ~、胸糞わりい」

 ふとした拍子にあの少年を思い出すのは、虚ろではあってもその目がどこか澄んだ美しさを持っていたためか。中毒者達特有の濁った目ではなく、どこまでも達観したあの静謐さに、自分は哀れみと同時に憧れも抱いていたのだろうか。

 埒もない想像を振り払い、青木は鑑識の待つ現場へと戻って行った。


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