不安も期待も
結局、俺は悶々とした気持ちを抱えたまま、12月24日、コンクール当日を迎えた。
今日まで、亜沙美とはすれ違う日が続いたものの、気晴らしに出掛けたり食事をしたりと、忙しい合間を縫ってお互い時間を作りあった。それが繰り返しの日常のスパイスというか楽しみというか、二人にとって何ともいえない貴重な時間で。
しかし、亜沙美の本心だけは聞けずにここまで来てしまった。後悔といえばそうとも言えるのだが、その反面、心のどこかでは安堵している自分がいる。そんな自分がまた許せなくて悪循環しているのだ。それは、まるで3年前亜沙美に出会うまでの、自身の夢を軽んじていた頃の俺に戻ってしまったかのようだった。
自分のことのように俺の留学を喜び、顔をほころばせながら話す亜沙美。
――行かないで、そばにいて
しかし、笑顔の裏、心の底ではそう訴えているように俺には感じられる。
けれど、きっと。
――私よりも夢を大切にして欲しい
これも彼女の本心なんだ。
人一倍、他人思いでつよがりな彼女。二人の時くらい弱音を吐いたって構わないのに、亜沙美は絶対にそれを許さない。こっちがどれだけ心配しているかなんて知らないのだろう。でもそれが彼女の良い所でもあり欠点でもあって。俺はそんな亜沙美が大好きで。
だから、俺はそんな亜沙美のありのままを受け止めたい。受け止めたいけれど、現実はそううまくいかなくて。……まあ、上手くいっていれば今頃自信満々でコンクールに挑んでいるところだ。
「参ったよ。もう……」
俺は、パイプ椅子にもたれかかって、盛大に溜息をついた。目に入るのは、殺風景な控室の白く塗られた天井、壁、床。この中にいるだけで、狭い箱の中に閉じ込められたような圧迫感に苛まれる。普段ならそんなことつゆも感じず、演奏の前の程よい緊張感を味わっているというのに。それなのに、今日はいままで感じたことのないくらいの不安感がのしかかってくる。
出番まであとどれくらい? 何か忘れていることはないだろうか。上手く演奏できるだろうか。……本当に不安が付きない。
こんな時、亜沙美がいてくれたら――。
ふと、今日は来られない彼女の顔を思い浮かべてしまう。
彼女がそばにいるだけで、いや、客席にいるだけでも良い。それだけでこんな暗い感情は一気に消し飛んでしまうはずなのだ。
いつも俺の背中を押してくれる彼女。今日のことだって、来られないことをあんなに気に病んでいて。大丈夫だから、と見栄を張ってみたものの、この始末。いや、今までは本当に大丈夫だったのだ。離れたところにいようとも、気持ちだけは寄り添っているようで、亜沙美と繋がっているようで不安なんてなかった。でも今は、その存在がそばにないだけでこんなにも俺は脆くなってしまう。留学は嬉しいはずなのに、亜沙美にあんな顔をさせてしまった。それが後悔となって後から後から押し寄せてくる。加えて、少しずつ増えていくすれ違いの日々。そして近づく別れの時。
こんなことになるのなら、やはり出会わなければよかったんだ。またそんな思いが胸に浮かぶ。しかし、そんなこといくら考えたって、過去に戻れるわけがない。
そう。いつだって俺は亜沙美の存在に助けられていた。この3年間、俺は彼女に寄りかかって生きてきたんだ。こんな形で思い知るなんて、予想もしていなかった。
やっぱり俺は、彼女と会う前と何も変わっていなかったんだ。亜沙美という存在がなければ、何にもなれないままの子供で、何もできない弱虫で。
ならば、本当にこのままでいいのだろうか。俺は大切なものを失ってまで夢を追いかけるべきなのだろうか。
いっそのこと、留学を取りやめてしまえば――。
と、思いはさらに悪化して、そんな考えに至った時だった。
ドアを叩く控えめな音が控室に響いた。出番を知らせに来た会場スタッフだろうか。しかし、時計を見ると、それにしては少しばかり早いように感じる。では、本番を直前に控えた出演者――といっても、俺自身それどころではないが――に、誰が何の用があるというのだろうか。
返事をしないでいると、ドアは先程よりも若干力を込めて叩かれた。どうやら、居留守は通じないらしい。俺は仕方がなく椅子から重い腰を上げ、廊下へと通じるドアへ向かった。
「どちらさまでしょう」
そう言って、少し気だるげにドアを開ける。その先に、亜沙美がいたら。なんて、ありもしないことを考えてしまう、都合の良い俺。いるはずがないのに馬鹿な奴だ。
「あの……」
案の定、そこにいたのは亜沙美ではなく、「運営スタッフ」という札を首から下げた女性であった。スーツに身を包んだその人は、申し訳なさそうにしてこちらに上目の視線を送る。
俺は何も言わずに、目だけで要件を促した。すると女性は後ろにあった手を前に回して、
「本番直前に申し訳ないのですが、こちらお届け物です」
「届け物って……これを?」
女性が俺に向かって差し出したのは、小さな花束であった。何故こんな時間に届け物なんて。知り合いからの応援の花束等贈り物は、事前に目を通して片づけてある。花束の一つくらい本番終了後に届けてもらえれば十分だ。それをこんな非常識な時間に。
「受付で、どうしても今渡してほしいと言われまして。お断りするのが普通なのですが、その……申し訳ありません!」
俺のそんな感情を察したのだろう――というか察する前に持ってこないのが普通なのだが。女性は早口にそう言って、俺に花束を押しつけそそくさと去っていった。
取り残された俺は、花束を片手に仕方がなく控室のドアを閉めた。
明るい色とりどりの花で作られた花束。中央で一層美しく花開いているのはガーベラといったか。まあありふれた、というか少し小さめの花束である。俺はそのまま差出人を確認することもなく、何の気なしにテーブルの上にそれを置いた。そして椅子へと戻り、本番前、いつもは見もしない楽譜を手に取った。
今はともかく、演奏のことを考えよう。その方が良いに決まっている。
「三波さん、準備お願いします」
そして、数分後。今度こそ出番を告げるノックの音で俺は席を立った。
緊張する。不安だ。失敗してしまったら……。そんな考えばかりが頭をよぎり、思考がマイナスの方にしか傾かない。
しかし、本番は目の前に迫っているわけで、返事をしないわけにはいかなかった。
「はい。今……ん?」
立ち上がり、視線をドアの方に向けると、何かが床に落ちているのが目に入った。目を凝らすと名刺サイズの紙切れだと分かった。ゴミだろうか。俺はドアに近づき、それを拾い上げた。
それは一枚のメッセージカード。きっと先程の花束に着いていたものが落ちて――
「これ……」
それを見た一瞬で、俺は胸の内にくすぶっていた靄が晴れ、目が覚めたような気がした。
「三波さーん。いますか? 出番ですよ」
なかなか出てこない俺を急かす、係員の声。
「はい! 今行きます!」
俺はカードをそのまま胸ポケットに突っ込むと、控室を飛び出した。
* * * * *
模試を終えて試験会場から転がるようにして出てきた。それでも、コンクールが行われているコンサートホールに着いてみると、夕方5時を過ぎていた。もう殆どの演奏は終わってしまっているだろう。
残念ながら、途中から入場することはできないそうだ。それでも、間に合えばと思って、受付のお姉さんに無理を言って手渡した花束は、無事彼のもとへ届いただろうか。
それよりも心配なのは、彼のこと。最近会えない日が続くせいで、ろくに話もできていない。会えば留学について楽しそう話す彼だけれど、実際のところどうなのだろう。ここのところ彼が何か抱えているようで、心配でたまらない。私が問いかけると、大丈夫だよ、と言って笑うけれど、そうは見えない。たいていの場合、大丈夫だという人間に限って、そうではないということを私はよく知っている。何故なら今の私がそうだから。
「早く来ないかな……」
ほとんど人のいない静まり返ったエントランスの片隅で、私は一人溜息をついた。
そういえば、先程の花束に私の名前を書いておくのを忘れてしまった。カードに何を書くかばかりを考えていて……ああ、なんてそそっかしいのだろう。他の豪勢な花束たちと比べて目も当てられられないような小さな花束なのに、その上差出人不明だなんて。だんだんと恥ずかしさがこみあげてくる。そんな花束なら、贈らないほうがましだったかもしれない。
なんて、いまさらなことばかり考えて、小一時間。立ち上がって窓の外を眺めてみたり、高級そうなソファに座ってみたりを繰り返しながら、彼の姿がエントランスに見えるのを待った。
やがて、少しざわついた空気が感じられ、ホール内へ続く両開きの扉に視線を向けた。内側から押し開けられた扉からは、大勢の人が出てきた。それは客席へと通じる扉である。ということは、コンクール自体は終了したということになる。ならば、彼が片づけを終えてこちらに来るのもあと少し。
「そうだ」
思い立って私はソファの傍らに置いた鞄から、携帯電話を取り出した。演目が終了したのなら、通話はともかくメールを送るくらいは差支えないだろう。彼も忙しいだろうし、簡潔にエントランスにいることだけを伝えて、携帯電話を閉じた。
エントランスを抜けて行く人たちは、それぞれに満足げな表情をしながら私の前を通り過ぎて行く。こんな時、音楽ってすごいな、といつも感心してしまう。時に人を癒し、時に楽しませる。反対に悲しみや恐怖を抱かせることもできる。人の感情を動かすことができるなんて、なんて素敵なことだろう。私も何か一つでもできたら良かったのに、とここ数年のうち何度思ったことか。それに音楽ができたら、もっと彼に近づけたかもしれない。
暫くすると、人波は通り過ぎていった。人がまばらになったエントランス内は再び静寂の間へと姿を変えた。
「もう少し、もう少し」
自分にそう言い聞かせたのは何度目かは知れないが、待つ時間は私にとってあまり苦にはならなかった。待つ時間が長いほど、彼の結果が良いものであった可能性が高いからである。これまで幾度かこうして演奏終わりの彼を待ったことがあるのだが、どうやら待ち時間が長ければ長いほどそれは結果に比例しているようなのだ。聞いてみるとやはりそのようで、賞取ったりなんかすると何やらいろいろとあるのだそうだ。詳しくは知らないけれど、そのため私の期待感も時間と共に徐々に増していくのである。
とはいえ、何もすることがない時間というのは、暇なもの。苦にならなくても、飽きはやってくる。
(参考書、持ってくるんだったかな……)
生憎、私の鞄の中にはほとんど何も入っていない。入っているものといえば、財布に携帯電話にペンケース……暇をつぶせるようなものは持ち合わせていなかった。
荷物になるからと参考書を自室の机に置いてきたことが悔やまれ、一人肩をすくめる。まあ、模試さえなければ今日くらいは受験のことは忘れたいというが本音であったので、ここまで来て勉強する気は少しもなかったけれど。もうこうなったら、この暇な時間を満喫するしかない。私はソファに腰掛け足をぶらぶらさせながら、ただぼうとエントランス内に視線を巡らせる。
天井から下がる細かい装飾のなされた照明。そこからあふれ出す暖かなオレンジの光が、磨き抜かれた床に反射して少々眩しい。そして壁に掛けられた幻想的な絵画は見るからに高価なもの。間違っても手を触れるようなことはしないでおきたい。さすがは有名コンサートホールとだけあって、どこも抜け目なくきらびやか。エントランスですらそうなのだから、今回入ることができなかったホールやその裏もさぞ豪華なことだろう。普段目にする学校の講堂もそうとう力が入っているように思っていたが、こうもお金のかかっていそうな施設に足を踏み入れると恐縮してしまう。いったい0をいくつ並べたら、こんな施設が立つのだろう。
「やっぱりすごいよなあ。こんなところでしかも大勢の前で……」
こんなところで自分を表現するなんて、それだけで私にとってはすごいことのように思えてならない。
と、ここでようやく人の話し声がエントランスないに多数響き始めた。見ると控室へと続く関係者出入り口から、パラパラと人が出てきたところだ。そのきらびやかな服装を見るにコンクール参加者だということがすぐにわかる。
予想はしていたが、その一団の中に彼の姿は見つからなかった。きっと良い結果だったのに違いない、と私はソファに深く座りなおした。
そして、あくびを一つ落とす。そういえば、最近受験勉強に追われて睡眠時間が極端に短い。さすがに眠たい。
(このまま寝ちゃったら、樹に気づいてもらえなかったりして……)
伸びをしてどうにか眠気を飛ばそうと試みる。けれど、一度襲ってきた睡魔はなかなか手ごわいもので……。
* * * * *
ソファにもたれかかり、スヤスヤと静かな寝息を立てている亜沙美の顔を見ただけで、何だか幸せな気分になった。これまでの緊張が解けてほっとした、といえばいいのだろうか。まあ、とにかく無条件で安心した。教授や友人の誘いを丁寧にお断りしてきたかいがあったというものだ。
起こそうとも思ったのだが、まだホールは閉まらないそうなのでそのままにしておくことにした。室内とはいえ冷えるだろうと、自分のコートを掛けてやる。
連日に渡る模試や受験勉強のおかげでだいぶ疲れていたのか、起きる様子は少しも見られない。
(夕飯でも行こうかと思ってたけど……。まあ、いいか)
俺は眠る亜沙美の傍らに腰を降ろした。お互い時間ができたというのに惜しい気もするが、そこはこの寝顔で許してやるとしよう。やっぱり少しくらいいたずらでも……いや、やめておこう。
つまらないいたずらに心惹かれる自分を、頭を振ってなんとか制する。気を紛らわすように窓の外へ目線を移動した。
「あ……」
外の様子に思わず声が漏れてしまった。
初めは傘をさした通行人を見て雨でも降っているのかと思っていた。しかしよく目を凝らして見ると、すっかり暗くなってしまった外の闇に交じって白い塊が見えた。
(どうりで少し寒いと思った。ホワイトクリスマスか。見たら喜びそうだけど、寝てるしな)
亜沙美は寒くはないだろうか。コートを掛けなおし、亜沙美の顔を覗き込む。それにしてもこんなところでよく寝ていられるものだ。
幸せそうな顔で眠っている亜沙美の頬をそっとつついてみる。起きるかとも思ったが、それでも身じろぎ一つしない。
「おーい」
結局いたずらという誘惑に勝てないで、今度は遊び半分で頬をつまんでみた。動かない。……外でこんなに無防備なのも、さすがにいかがなものか。少々心配になってくる。でもちょっと可愛い。
「まったく、お前もなかなかやってくれるよな」
一向に起きない様子の亜沙美に片手でちょっかいを出しながら、俺はもう片方の手で胸ポケットをまさぐった。
そして、取り出したのは先程のメッセージカード。
イチョウの柄があしらわれた可愛らしいデザイン。そこには、見慣れた少し癖のある丸文字。差出人は書かれていなくとも、俺にはそれがだれであるのかがすぐにわかった。
『三波君の夢は何ですか? 顔をあげて前を見て。それからメリークリスマス』
その短いメッセージは、迷いの中にいた俺を一瞬で救いだした。
たった一行のメッセージ。ただそれだけなのに。
それは出会った頃の、3年前のあの日とまったく同じで。あえてそう書いたのか知れないが、三波君なんて書かれているからそこがまた――。不安も迷いも、亜沙美には完全に見透かされている。俺が必要としている言葉をくれるのはいつも亜沙美なのだ。やっぱり俺は、3年前も今も亜沙美に前に進む勇気を貰ってばかり。俺は亜沙美に何をしてやれているだろう。
――それでも。
ただ一つだけ解かったことはある。
「……フランス、行ってくるよ」
もう、迷わない。前だけを見よう。
「いってらっしゃい」
「……?」
気づくと亜沙美が目を覚ましていた。
「ごめん。寝ちゃってた」
「いいよ。待たせた俺が悪い。おはよう。寒くない?」
「うん」
亜沙美は小さくあくびをして、ゆっくりと起き上がった。
「あと、急いで来たんだけど、間に合わなかった。それもごめん」
起きて早々2度も謝られた。ああ、またそうやって気を使う。
「いいって。そんなに謝られるとこっちが困るだろう。大丈夫だったから」
まあ、それも亜沙美のおかげであるのだけれど。
亜沙美からの花束が届くまでは、あんな状態だったわけだから、まあ何とも言い難い。
「……大丈夫なんかじゃないくせに」
「え、なんか言った?」
ぼそっとこぼした亜沙美の言葉は、小さすぎて聞き取れなかった。
「…………」
どうしたのだろうか。亜沙美からは何も返事が返ってこない。そのまま黙ってこちらを上目遣いに見つめるばかり。
「亜沙美?」
「……何でもない」
そう言って、亜沙美は俺の方にもたれかかってきた。
そして、よく分からないまま疑問の表情を浮かべていると、ソファに投げ出されたままの俺の手に亜沙美の手が重ねられた。そのまま軽く力を込めて握り締められる。
俺が何度問い返しても、亜沙美はそれ以上何も言わなかった。
3話のつもりが、結局続きます。次こそ最終話です。
迫る樹の出発の日。二人のつのる思い。二人にとって一番良い道は……?