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喜びも後悔も

「ストップ、ストップ」


 パンパンッと手を打つ乾いた音が、講堂内にこだまする。俺はそれを合図に鍵盤から手を離し、演奏を停止した。

 場内には残響だけがしばらく残っていた。


「俺の言いたいこと分かってるよな、三波」


 その残響を上からかき消すように、鋭いテノールが講堂全体を振動させる。

 俺のいるステージの反対側、客席の最後部。そんな離れた場所にいるというのに、田所教授の声はまるですぐ隣りで発せられたかのように、良く通る。決して怒鳴ったりなどしていない。しかし静かに怒気をはらんだその声は、俺を一瞬で緊張させた。


「……」


 暑くもないのに嫌な汗が背中を伝う。もうこの場所で止められたのは何度目だろう。練習が始まって約1時間、冒頭8小節より先にはまだ一度も進んでいない。

 俺は黙ったまま、ただ鍵盤に目を落とすことしかできなかった。

 その場が凍りついたかのようないやな静寂。一瞬のそれが、俺にとっては気が遠くなるほど長く感じられた。

 やがて、その静寂を破ったのは、高く響く靴音だった。顔をあげると、席を立ちあがった教授が講堂を出ていく後ろ姿が目に映る。

 扉が音も立てずに閉まり、講堂には俺一人だけが取り残された。




 色付いたイチョウの葉が、風が吹くたびに並木道に舞い落ちる。

 もうそんな季節になったのか。一人イチョウ並木を歩く俺は、ふと足を止めて暗くなり始めた空を仰ぎ見た。

 11月、ほとんどの人が人生二度目となる受験シーズン。普通科は勿論のこと、俺の属する音楽科も大学受験一色で毎日(あわただ)しい。そんな中俺のような春からの留学組は、他の学生の忙しさからは置いて行かれたように、残りの学生生活を消費している。亜沙美も例にもれず受験生。おかげで、最近では二人でいる時間がめっきり減ってしまった。

 とはいっても、留学組にもやることは沢山ある。先程の講堂での練習もその一つ。年末にあるコンクールへ向けて、マンツーマンで教授に見てもらっていた……わけなのだが。どうにもあの様子なのである。


「はあ……」


 思い返すだけで、自然と溜息が洩れる。

 楽譜通りに間違いなく弾いているのにすぐに止められてしまう演奏。講堂を出ていく教授の後ろ姿。

 『俺の言いたいこと分かってるよな、三波』


「分かってるよ、そんなこと……」


 俺は一人呟き、こぶしを握り締める。

 そう。分かってはいるのだ。けれど、どうにもならない。できないのだ。


「……分かってるんだよ」


 要は俺の集中力の問題なのだ。

 留学が正式に決定してからここ一カ月というもの、俺は何をしても気分が晴れずにいる。楽譜をひらいてもピアノを弾いていてもそう。常に胸の奥深くに何かがつかえて取れないでいる。その何かだって分かっている。

 『おめでとう』と言う、留学が決まったことを報告した時の亜沙美の笑顔。あれは俺にとってはただただ残酷なものでしかなかった。

 だってそうだろう。誰だってあんな顔されたら……。

 きっとあいつは気づいていない。自分がどんな顔で笑っていたかなんて。



 


 あれは確か中学三年の2月の終わり。良くも悪くも人生の分かれ目、合格発表の日だった。

 高校まで続く並木道、俺の隣を歩くのは、数ヶ月前の説明会の日、ちょっとした出来事がきっかけで知り合った他校の女の子。彼女と会うのはその日以来だ。

 だが、連絡先を交換し、メールのやり取りは数回あった。そこは中学生。メールを数回かわしていれば、親しいも同然。偶然駅のホームで再会してから、互いが打ち解けるにはそう時間がかからなかった。

 


「そっか。じゃあ、三波君は将来、ピアニストになるんだね」


 女の子――亜沙美は、いつか外国で勉強をして、大きな舞台でピアノを演奏みたいという俺の話を受け、目を輝かせながらそう言った。

 どういう話の流れだったのかはもう忘れてしまったが、あの時は自然と将来の話になったのだ。

 そういえば、当時はまだ「三波君」「小宮さん」と苗字で呼び合っていたんだっけ。もっとも、4ヶ月後には互いを名前で呼び合うような仲になるんだが。……まあ、中学生のころの俺たちがそんなこと知るわけもない。

 


「うん、まあ。なるっていうか、今はまだなりたいって域だよ。まだまだ実力も何も全然足りないし」


 亜佐美の純粋な目と「ピアニスト」という言葉に、俺はなんだかくすぐったい気持ちになってしまった。曖昧な笑いを浮かべることで、ごまかすようにしかできなかった。

 勿論、その夢は嘘ではないし、幼いころから思っていたことだ。しかし、その道の厳しさは年齢を重ねるごとに目の前の現実となってのしかかってくる。いつの頃からか、その夢は夢でしかなく、俺は「ピアニストになる」なんて大きな夢、気恥かしくて公言できなくなっていた。


「だめだなあ。だめだめ!!」

「うわっ」


 突然、右肩に体当たりをされた。そんなに大きな力でもなかったが、俺は横に弾き飛ばされてしまう。

 『そうだね。音楽の道って厳しいもんね』

 こういう話になると、たいていの人がいう遠慮を(ともな)った言葉。てっきりそういう言葉が返ってくると思って待ち構えていたので、完全に不意を突かれてしまった。

 思わず呆然としていると、横を自転車がベルを鳴らし迷惑そうな顔をしてすり抜けていった。反射的に二人して同時に頭を下げる。


「だめだよ、そんな弱気じゃ」


 少々自転車による邪魔が入ったが、それはなかったことにされたようだ。亜沙美は少し背伸びをして、俺の鼻先に向けて人差し指をつきつけてきた。だめだだめだと、いったい何度言えば気が済むのだこの娘は。


()()()()? そんなじゃ、なれるものもなれないでしょう? なるって言わなきゃだめだよ。ううん、なるっていいなさい。実力がなくても、自信がなくても、下手でもお馬鹿でも!」


 実力の話はしたが、下手とか馬鹿とは言っていない。それでも、何故だろう。亜沙美の言い分には説得力があった。俺は何も反論できない。


「口に出さないと、その夢、他の誰かに持っていかれるよ? それこそ、これからはライバルでいっぱいの高校生活になるんだから」


 これから発表を見に行くわけで、まだ高校に受かったとは決まっていないのだが……。いや、その考え方からして間違っているのかもしれない。

 ピアニスト、ましてや外国で、世界で活躍できる奏者なんて、ほんの一握りの中の更に限られた逸材だ。気持ちが弱い時点で、俺はもう他の同年代のライバル達から一歩遅れたところに立っているんだ。本当になりたいのなら、自信過剰くらいがちょうどいいのかもしれない。彼女の言うことは(もっと)もすぎて、俺はこれまでのどこか控えめに将来を静観していた自分を恥じた。

 そして、俺に向けた手を下げた亜沙美は、深呼吸を一つ。今度は何を?


「はい。たった今、私はこれまでの数分間の会話を、都合の悪い所だけ切り取ってきれいさっぱり消し去ってしまいました。ということで、時間を巻き戻してやり直すことにします。良いですか?」

「…………?」


 亜沙美が眩しいばかりの笑顔を向けてくる一方、俺は疑問の表情を浮かべるばかり。

 歩き出した亜沙美に俺は後から付いて行く。


「将来三波君は、ピアニストになるんだね。ね?」


 振り返って、可愛らしく小首をかしげる彼女。

 ああ、なるほど。


「う、うん。なる……なります」

「もう一回」

「なります!」


 亜沙美は少しの間を置き、考えるように顎に手を当てた。やがて、


「まあ、良しとしましょう」


 なんとか、OKをもらえた。

 会話の流れとしては微妙にぎこちない気がする。しかも、合格発表目前にしていったい俺たちは道端で何をやっているんだ。という気にならないでもない。しかし、そんなことは二の次であった。なると断言した俺はなんだかすっきりとした気分になっていた。それを思うと、俺はずっと誰かに受け止めてほしかったのかもしれない。幼い頃から抱き続け、いつしか胸にしまいこんで口にすることのできなくなっていた夢の話を。


「良し。行こう、三波君。二人ともきっと……ううん、絶対受かってる」


 そして、自信を持って挑んだ合格発表。結果は二人とも合格。春からはめでたく美奏学園の制服を着てイチョウ並木を歩くことができるのだ。


 

「次に会えるのは入学式の日かな」

「そうだね。学科が違うと難しいかもしれないけど。でも三波君の美奏の制服姿、気になるから教室まで行っちゃうかも」

「あはは。似合えばいいんだけど」


 合格発表を終えた俺たちは、結局帰りの電車も途中まで一緒にすることになった。いくら自信を持っていたとはいえ、合格したことにやや浮かれ調子でとりとめのない話に花を咲かせては笑いあう俺たち。肩の荷が下りた、そんな心境だと、混み合い若干の熱気を持った車内も、座れないでドアの前で立ちっぱなしの状態も、不思議と苦痛ではなかった。しかし、そのような時はすぐに経過してしまうもので、電車はやがて俺が降りる駅へと到着してしまった。


「それじゃあ、俺はここで」

「そっか。うん、じゃあまたね」


 そして、ゆっくりと開くドア。俺は人の流れに合わせるように電車の外、もう3月も間近に迫っているというのに未だ寒さの残る2月の夕空のもとへ足を踏み出した。

 ――と、その時。


「み、三波君!」

「……え?」


 丁度ホームに降り立ったと同時に、名前を呼ばれた。振り向くと、電車のドアが閉まろうかというぎりぎりのタイミングであった。


「これっ」


 と、一言。それと同時に何か小さな紙袋を無理やり押し付けられた。それが何か確認する間もなく、ドアは二人の間を隔ててしまう。

 顔を紙袋から前方へと移すと、亜沙美がやや頬を赤く染め(うつむ)き加減にこちらを見ていた。


「えっ、何これ。ちょっと。小宮さんっ」


 俺が訳も分からず困っていると、彼女はガラス越しに紙袋を指差し、


『あ・げ・る』


 そういったように見えた。そして電車は立ち尽くす俺を残して走り出した。

 電車が見えなくなったころ、やっと我に返った俺はとりあえず紙袋の中を確認することにした。


「あげるって一体なにを……」


 テープを丁寧にはがし中をのぞくと、そこには手のひらサイズの小箱と何かメッセージカードのようなものが入っていた。



――――三波君へ。甘いものは大丈夫ですか? ちょっとだけ遅いバレンタインだけど、もらって下さい。(注意:勿論義理チョコです!!)



 読んだ瞬間、足の方から頭に向かって一気に血が上昇していくのを感じた。恥ずかしさに耐えきれず、その場にしゃがみ込んでしまう俺。


(こらこら。チョコを貰ったからといって勘違いするな、俺。ちゃんとカードには義理チョコって書いてあるじゃないか! い、いや待て。でも……)


 でも、箱のふたの透明部分から見えるチョコレートは、完全に手作りだ。しかも、今日はバレンタインから1週間以上が経過している。そんなにも長く手作りチョコは保存しておけるものなのだろうか。いや、無理だ。と、いうことは、このチョコレートはわざわざ今日俺に渡すために作られたものなのでは……。

 え?ちょっと待て。そもそも、今日俺たちは会う約束はしていなかった。本当に偶然、駅に着いた時に俺が見かけて声を掛けただけだ。彼女は当日会えるか分からない俺なんかのために……。

 一回整理しよう。彼女は大切な合格発表を控える受験生だというのに、当日会えるかなんて確率的な問題で、しかも一度しか会ったことがない数回メールを交わしただけの他校の男子生徒にあげるような()()チョ()()を、わざざわ手作りした。しかも宛名明記のカード付きで。ということになる。……それは本当に義理チョコといえるのだろうか。と、いうか、あんまり整理になってない!散らかってるよ!

 俺の頭はもう沸騰寸前だった。もう何が何だかわからない。でも、一つだけ分かることはあった。


「……やばい。嬉しい」


 それまでピアノばかり見てきた当時の俺は、そういうことに関してはかなり鈍感で、今思えば笑ってしまえるくらい奥手だった。だから亜沙美を女の子として意識したのは、その瞬間が初めてだった。まったく女の子というものは同年代の男子よりも一枚も二枚もうわてで……。

 俺はその日結局、一度にいくつもの物を得てしまった。夢を語る勇気と自信。合格通知に義理(・・)チョコ。それから――。


 その後、入学式で再会した俺と亜沙美は、その年の6月には恋人として雨のイチョウ並木を歩くことになる。あの時俺が走って届けた傘を二人で差しながら。




 そんな、出会って間もない頃の出来事を思い出して、俺は一人溜息を洩らす。

 あの時、もしも将来の話なんてしていなかったら、その数ヶ月後“夢を優先させる”なんていう約束なんてしていなかったかもしれない。まさか、今になって、その夢の一歩が叶うかという時になって、その約束が、あの時の何げない会話が、重たい(かせ)となるなんて思いもしなかった。これは俺のわがままなんだろうけれど、そんな約束しなければよかった、なんて思いがいまさらになって湧いてくる。いや、それは無理な話だ。たとえ、約束をしていなくとも、どの道俺は亜沙美にあんな淋しげな笑顔をさせないとならない状況に陥ったはずだ。


 それならば、いっそのこと――。


 あの時、俺が傘を持って追いかけたりしていなければ。電車の中に置きっぱなしにされた傘なんて見なかったことにしていれば。

 そうすれば今頃は、ピアノのこと、留学のことだけを考えていられたのかもしれない。亜沙美にあんな顔をさせずに済んだんだ。


 このイチョウ並木を通るようになってから、大切なものがあまりにもたくさん手に入りすぎてしまった。


 ――出会わなければ良かった。


 そう、思わずにはいられなかった。

 次回、完結です。亜沙美と樹は、どういう選択をするのでしょうか。

 何を選び、何を手放すのか。道の選択。それは人それぞれ、本人たちしだい。

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