出会いも別れも
「俺、留学することにしたんだ」
「え……」
黄金に染まったイチョウ並木の中、肩を並べて歩く彼からの突然の告白。それは私たちの別れを意味していた。
“自分の夢を優先させること”それが付き合い始めてからの私と彼の唯一にして絶対の約束事。
だからって、何もこんなに急に言わなくたって。相談くらいしてほしかった。
それでも私は、笑顔を作って声を振り絞る。約束だもの。
「そうなんだ。おめでとう」
「ありがとう。前から希望してたフランス行き、やっと正式に決まってさ。あっちで権威のある先生に教えてもらえることになったんだ。ほらこの前見せた雑誌に載ってた――」
隣を歩く彼は嬉しさのあまり興奮気味に話す。けれど、私の耳には殆ど届いていなかった。
私と彼――三波樹が出会ったのは、今から丁度三年前。今日のように晴れた秋空の下、この並木道でのことだった。
中学三年生、受験シーズン真っ盛りであった当時の私は、その日現在通っている高校の入試説明会へ向かうべく、地図を片手に一人緊張した面持ちで歩いていた。説明会とはいえ第一志望の高校であるがため、普段よりも長くしたスカートと新しくおろした買ったばかりの靴をはいて挑んだことを今でも覚えている。
電車を降り、慣れない道をなんとか迷わずに行くと、高校へと一直線に続くイチョウ並木に差し掛かった。後はこの道をまっすぐに進むだけ。道に迷うことなく行きついたことで、私は僅かに胸を撫でおろした。その時――。
「あの、すみません」
突然、後方から声を掛けられた。といっても、初めは私に向けられたものだとは思わなかったのだけれど。
私はその声を気にも留めずに歩き続けた。早く高校に辿り着いてしまいたい一心だったのも声を無視した理由の一つだった。
「そこの制服の人! ええとセーラー服の……」
しかし、その一言で私は足を止めることとなった。
制服姿の学生は並木内に幾人か見受けられた。けれど、その中でセーラー服は私だけ。つまり呼ばれているのは私ということになる。
振り返ると、こちらに向かって駆け寄ってくる学生服が。目を凝らして顔を見ても、見覚えのない他校の男子生徒。何故、そんな見知らぬ人に呼び止められるのか。私は首をかしげて相手がこちらへ近づいてくるのを見守った。
「これ、電車の中に忘れませんでした?」
私のもとまでやって来た男子生徒は、肩で息をしながらそう言って一本の傘ををこちらに差し出した。
「あ、これ私の」
それは水玉の青い傘。今朝、天気予報を見た父が、出掛けに持たせてくれた……。しかし、その傘は今私のもとでなく、目の前の彼の手の中にあった。それを見て、先程まで乗っていた電車の座席横に傘を掛けていたことを私は思い出した。電車の中はやけに込んでいて、駅についた時、私は降りられなくなることを恐れ慌てるようにして降車したのだ。どうやらその時に傘を持って出るのを忘れてしまったらしい。緊張していたとはいえ、なんとそそっかしい。
「ありがとうございます。ごめんなさい。私、うっかりしてて」
「いやいや、良かったです。俺、ちょうどあなたの近くに立ってて。制服着てあの電車に乗ってるってことは、同じ入試説明会に向かう人かな、なんて思ってたんです。で、あの駅で立ち上がったの見て、やっぱりそうかって。そしたら降りる時に傘がかかったままなのが見えたんで」
私は小さく頭を下げて、傘を受け取った。
「そうだったんですか。駄目ですね、私。他の学生が乗り合わせてたなんて全然知りませんでした。緊張すると周りが見えなくなっちゃうみたい。自分の持ち物さえ置き忘れるし」
「みんなそんなものですよ。実際俺も、今日の朝、危うく楽譜を忘れそうになりましたから」
彼はそう言って、クリアケースを私に差し向けて見せた。なるほど、彼は音楽科を受験する生徒なのだ。
私が志望する――現に通っている――美奏学園は普通科と音楽科からなる進学校である。特に音楽科はレベルが高く、合格率は普通科の数倍にも上る。それだけに、難易度の高い狭き門を通り抜けた者には、設備・環境共に充実した高校生活、ひいては将来の音楽の道が約束されている。まあ、それも本人の努力次第ではあるのだけれど。ちなみに音楽とは無縁の道を歩んできた私は普通科である。
「音楽科、受験されるんですね。私は普通科なんです。楽器は何を?」
「ピアノです。小さい頃からやっていて、唯一の取柄っていうのかな。両親が音楽関係の仕事をしてるんでその関係で自然と俺も」
「ふうん」
会話をしながらいつの間にか、私たちは肩を並べて歩き出していた。一緒に歩く人ができたことで、心なしか緊張が良い意味でほぐれ、気持ちが軽くなったように思えた。
「あれ。でも、どうして楽譜を? 今日は説明会ですよね」
「ああ、うん。説明会なんですけど、音楽科はその後すぐに実技の試験があるんです」
「嘘、もう始まるんですか? やだ、かさねがさねごめんなさい。私、そんな大切な日に忘れ物を届けてもらって、それに走らせて。余計な気苦労させてしまいましたよね」
音楽のことはよく分からないが、試験とあっては話が別である。誰でも試験当日という日は何の障りもなく平常心でいたいものだろう。それを走るというイレギュラーな事態を、しかも見ず知らずの他人によって課されるなんて。自分の身に起こった場合のことを考えると申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「そんなに謝られると、こっちが悪くなってきちゃいますって。大丈夫ですよ。逆に固い体がほぐれて、演奏前のいい運動になりましたから」
そう言って彼は謝る私に屈託のない笑顔を向けた。本当は余計な心配事などしたくはなかっただろうに――。それでも、なんともないと笑いかけてくれる彼の心づかいがとても嬉しかった。
「亜沙美、おーい。聞いてる?」
「え? ああ、うん。聞いてるよ」
気づくと、浮かれた調子でこちらを覗き込んでいる彼の顔が目の前にあった。
「いや、聞いてなかったね。じゃあ、今俺が話したこと繰り返してみて」
「うう……」
「ほら」
言葉に詰まる私に、彼は口をとがらせた。これは本気では怒っていない時にするいつもの彼の癖だ。子供じみてはいるけれど、何度目にしても私にはそれが可愛らしく見えてしまう。これが恋人ののろけというものかもしれない。
それでも、この顔をあと何回見ることができるだろうと考えると、今は無性に切なく、そして悲しくなってくる。彼はこんなこと、きっと考えていないんだろうな。今彼の心は、自分の夢に一歩近づけたこと、ピアノのことでいっぱいで、私の入る隙なんて――。
「そんなことよりも、本当におめでとう。あ、ねえ。お祝いしないとね」
「お、本当? 何してくれるの」
今までつんと澄ましてたのに、ほら。すぐに笑顔を向けてくれる。もう、そういうところずっと変わらないんだから。
「そうだな。何してほしい?」
「うーん。なんでも」
「ええ、何よそれ」
私はちゃんと笑えているだろうか。心から喜んでいるように見えているだろうか。
彼の前では笑っているけれど、やはり心は裏腹で。本当は言いたい。行かないでって。
でも、それを言うことは絶対にできないから。ピアノを弾いてる時のあなたが、いつも前だけ見てるあなたが、私は一番好きだから。
先程と変わらず並んで歩いているのに何故だろう。ぴったりだった私たちの歩調は、次第にずれが生じ、いつしかばらばらになっていた。
あまり長いと内容的にぐだぐだになってしまいそうなので、予定では全3編ということで。最後まで読んでいただけたら幸いです。
進路や恋愛、学校生活……高校生っていろいろと忙しいですよね?あ、私の高校時代はあまり忙しくなかったのですが(笑)。