嘘つきオオカミさんのあふたーすとーりー
*以前投稿した「嘘つきオオカミさん」の続きになります。
眼下に街を一望できる、昨今にしては珍しく未だに開発が進んでいない見晴らしのいい小高い丘陵に建てられた墓地の一角を歩いていた。
抜ける様な青さが広がる青空には羊雲が群れを成し、肌を撫でる秋風が髪をスゥッと梳いた。
そこに若干の肌寒さを覚えるであろうと予期して事前に用意しておいたコートは、しかし麓の駐車場から徒歩にしておよそ十分と云う行程を黙々と歩いてやや暑いくらいに温まった身体には不必要になり、今では右腕に畳んで持ち運ばれている。
――――――久しぶりだね
そう言って、私は目の前に建てられた石碑に微笑みかけた。
まるでそこにあの幼き少女を幻視したかの様に、我ながら酷く柔らかなそれを湛えた。
◆
二年前の、秋半ばにしては随分と寒さが身に染みた十月下旬の頃だった。
「せんせぇ……?」
回診に訪れた私に、あの子は酷くやつれて、けれどとても柔らかな笑みを浮かべてその双眸に私を映した。
九月に入った頃から彼女の容体が悪化し、十月に入る頃には立つ事すら儘ならなくなってしまった少女は、あの夏の日に見た元気な笑顔を浮かべる事が出来なくなってしまっていた。
日を追う毎に身を這い、刺す管ばかりが増え、それに反比例して彼女の元気はまるでそこから彼女の身体を内側から犯す溶液と引き換えに吸い取られる様にして失われていった。
「せんせぇ…………」
「寝たままでいいよ。無理をしたらいけません」
語りかけ、上体を起こそうとする彼女を手で制し、私はそのか細くなった腕を取った。
今にも折れてしまいそうな小枝程に細く、脆く、そして淡く見えるその腕にも、幾つもの管が喰らいついて溶液を彼女の身体に流し込む。
それがどれ程の苦痛を伴うのか、どれ程の精神的ストレスを感じさせるのか。
この仕事を続けてきた私にとって、そのストレスや苦痛をただ与えるだけの私にとって、それは理解できる筈もない事だった。
「せんせぇ……」
「…………大丈夫、もうすぐ良くなるから」
これまで幾人もの患者にそう嘯いてきた私の口がその単語を発した瞬間。
いや、正確に云えばそれを聞いて彼女が優しい笑みを浮かべた瞬間。
私はこの口を、喉を裂いてしまいたくなった。
裂いて、斬って、千切って。
そうしてこの嘘を平然と発する口を、声帯を捻り潰して、その存在の全てを否定したくなった。
彼女にその言葉を吐いてどれだけの時が経った事か。
一秒でも彼女の心を、その笑顔を欺き続けるこの身の全てを憎んでどれ程の時が経ったか。
「せん、せぇ…………」
儚く、消え行ってしまいそうな声音で彼女は私を呼び続ける。
そっと頭を撫でてあげれば、少女は少しだけ気持ち良さそうに目を細めるのだ。
「せんせ、ぇ……わたし、ね……?」
「……もう、いいから。ゆっくり休みなさい」
制そうとする私を、しかし彼女は病床とは思えない程に強い力で私の袖を握った。
そこには幼児程の力もない筈なのに、何故か彼女に袖を握られた瞬間から私の腕は鉄釘で打ち付けられたかの様に微動だにしなくなったのだ。
「わたし……せんせぇの作ったケー、キ……食べたい」
「……ああ。病気が良くなったら、いくらでも作ってあげるよ」
私が言うと、彼女はフルフルと首を横に振った。
そんな微細な動きすら、今の彼女にとっては物凄い負荷がかかる事であるというのに。
「食べるだけじゃ、ない……よ?」
言って、彼女は微笑んだ。
「せんせぇの作ったケーキで、私のお誕生日会をし、て……お父さんも、お母さん、も……学校のみんなや、近所のネコさん、や……病院の人も、みんなで一緒に」
「……私は、そんなにたくさんの人にケーキを作らなくちゃいけないのかい?」
「だっ、て……せんせぇのお菓子は美味しいんでしょう?だった、ら……ッ、みんなで……」
途切れ途切れで、とても小さい。
外に吹き荒ぶ風に掻き消されてしまいそうな程に淡い彼女の声を、しかし私は全神経を鼓膜に集中させて拾い上げた。
「みんな、で食べて……それで、一緒に笑えたら…………」
―――それだけで、私は幸せだよ?
窓の外に寂しげに佇む木の枝にあった葉が、風に飛ばされて虚空へと消えた。
◆
やや季節外れとも思える秋風が、一際強く墓所を吹きぬけた。
山々に生い茂る木々を撫ぜ、ぴゅう、ぴゅう、と呼吸器を通して伝わる様な音を立てる。
酷く聞き慣れた、酷く不快な音を。
茜色に染まり始めた大地と雲ひとつない青空のコントラストは、見れば作画意欲を掻き立てられる者もいるかもしれない。
だが私の胸中に浮かんだのは、彼の木々と同じ様で異なる朱色。
嘗て消え失せた、私のたった一人の妹だった。
◆
昨今の様に臓器移植が一般に普及しておらず、倫理的道徳云々という下らない建前に縛られていた頃。
私が小学校中学年、妹は入学したての折だったか。
生まれついて身体が弱く、心臓を患っていた妹は小学校の入学式当日を家で寝たきりで過ごす程に病弱だった。
日に日に身体は痩せ衰え、言葉も笑顔も弱弱しくなっていく妹の姿を、しかし私はただ見ているより他に出来得る事が何一つなかった。
この世でたった一人の妹だった。
級友との遊ぶ約束も断り、私は毎日の様に真っ直ぐ家に帰っては、やれ今日はこんな事があったの、明日はあんな事をするだの、様々な事を妹に話して聞かせた。
私の一言一句を妹が全て聞き取っていたか否かは瑣末な懸案に過ぎず、ただただ時折浮かべる彼女の笑顔を見られるのであればその程度何ら問題にもならなかった。
季節が肌寒い晩秋に移り変わった頃に、妹は市内の総合病院へと入った。
同時に、家の中までまるで冬将軍が居座ったかの様に冷たく感じられる様になったのもこの頃だ。
父は帰りが遅くなり滅多に顔も合わせない。
母は家事と病院への見舞いとで毎日の様にため息ばかりを洩らす。
私は家にいる事を拒み、外で遊び耽る様になった。
母が居ない時間を狙って病院に行き、それ以外の時は友人の家や近所の公園で警察官が巡回を始めるまで時間を潰した。
だが父母共に、そんな私の愚行を咎める気力さえ失っていた。
―――俺、ウチにいたくない
脹れっ面でそう呟くと、妹は少しだけ眉を困った様に下げて微かに笑んだ。
「お兄ちゃん、そんな事を言ったらダメだよ」
「けど、親父もお袋も俺の事なんかなぁんも考えちゃいねぇ。俺の事なんか、もうどうでもよくなったんだよ」
「お兄ちゃん」
少々ムッとした妹は、ほんの少し咎める様に口調を鋭くした。
バツが悪くなった私は目線を逸らし、頬の内側に溜めた空気を不平と共にふぅと吐いた。
◆
思えば、これが妹との最期の会話だった。
妹はその後まもなく、臓器提供者が見つかる事もなく呆気なくその生涯を終えた。
葬儀の時、涙すら出なかったのは何故かと未だに疑問を抱いていたが、思えば妹は、或いは自分がそう長くはない事を本能的に悟っていたのかもしれない。
だから私に「家に少しでも長くいてあげて」とか「お父さんとお母さんを困らせないであげて」とか、会う度に口癖の様に呟いていたのかもしれない。
妹は家族が大好きだった。
幼稚園の頃に言っていた将来の夢に「家族みんなでずーっと一緒にいたいです」と描くぐらいに純粋で。
そのままに逝った妹は、しかし今の私より余程聡い。
私は、妹のそんな心遣いに最期まで気づいてやる事は終ぞなかった。
愚兄とは正にこの事である。
幼年期の女性の臓器提供は、移植手術が公的に普及し始めた昨今に置いても尚適合者を見つける事が難しいとされる。
現状ですらそうなのだから、妹の時に見つかる筈もないのだと自認出来る程度に大人になったのは、最近になってからの事だ。
妹が死んで間もなく、私は医学の道を志す事を決めた。
あの時、妹を助けられなかった自分が。妹を守ってやれなかった自分が酷く無力で、そんな自分が何よりも嫌悪の対象に他ならなかったのが主たる要因である事は自他共に認める所だ。
結果論的に云えば、妹を助ける手段はあの当時でもあるにはあった。
しかし先に述べた通り、当時の倫理的観念云々などという――私個人にしてみれば過去も今も相違なく――馬鹿馬鹿しい愚論によってそのささやかな可能性の光は根こそぎ捻り潰されていた。
命を救う事と、命を奪う事が同時に起こるその行為は是か否か。
今でも議論は絶えぬこの疑問に、過去であればともかく現在の私は結論を下す事は叶わない。
医者として。
一人の人間として。
二つの命を天秤に掛け、一つを捨てるという行為そのものが、社会的道徳だの倫理的本性だのという世の御高説好きの大馬鹿共が垂れ下げる建前以前に許されざる行為だからだ。
例え一方が既に死したものであったとしても、だ。
同時に、救える命を何故救わない、という疑問も私の中で確かにとぐろを巻いている。
医者であれば、救える命を見捨てる事は出来ない。
だが、それなら既に死んだ命は、その入れ物だった身体は、遺族にしてみれば墓より掘り出されて辱められるに等しい解体などという行為を許せるか。
永遠にイタチごっこを続けるであろうこの疑問は、今も昔も変わる事無く続く。
しかし今、私が生きるこの世界では今日もまた人だったモノが他の入れ物の代替として使われている。
「―――オオカミさん」
倫理という論理が正義であり、死後の肉体を弄ぶに等しいこの技術によって救われた命が否であると断じられるなら、私はこれからもその悪行を重ね続けるだろう。
救われた命によって涙を流すのか。
救われぬ命を悼んで涙を流すのか。
いずれの涙も見、そしてこの身を以て知る私は、例え業罪であると世界が非難し続けようとその罪を重ねる。
二度と帰らぬ命の痛みを、涙を知るから。
「―――私は、『嘘つきオオカミ』だからな」
救えぬという世の理に嘘をつき、私はこの手で誰かに二度目の死を与え、誰かに二度目の生を授ける。
今日も。
明日も。
十年先も、二十年先も、五十年先も。
「――――――行こうか」
「ハイ」
あの日与えられる筈だった『死』という真実を騙し、そして守ったこの命と共に。
私は今日も、世界に『嘘』をつく。