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アルノー家とその周辺

次こそは絶対に、妹みたいな女のいない男と縁付きたい!

作者: 夢幻
掲載日:2026/07/25




 ──あいつは妹みたいなものだから。


 何度聞いたことだろう。前世はその妹みたいだと言われていた女に彼をとられた。憤死したのかそれ以降の記憶は曖昧だ。

 だから、今世こそは幸せになりたかったのに。


「ごめん、アイリス。君との婚約を解消したい」


「私が、ユリアン様を好きになってしまったばっかりに…ごめんなさい、アイリス様」


 何を言われてるんだろうと俯瞰する自分がいる。手と手を取り合う、婚約者と()()()()だったはずの女。



 前世の私は、まさに結婚式を数週間後に控えた時期に、当時の婚約者からまったく同じ言葉を投げかけられたのだ。


『ごめん、君との婚約を解消したい。彼女は幼い頃に親を亡くしていて、僕が守ってやらなきゃいけないんだ。理解してくれ』


 理解できるわけがないだろう。妹みたいと言い張りながら、裏で手をつなぎ、唇を重ねていただなんて。

 


 豪奢な貴族の夜会、華やかなシャンデリアの光が照らし出すサロンの真ん中で、私の婚約者であったユリアン・クロード伯爵令息が、可憐な少女の肩を抱き寄せて私に申し訳なさそうな目を向けてくる。申し訳なく思うなら今すぐ土下座でもして欲しい、少しは気持ちが晴れるかもしれないし。慰謝料はたんまりとってあげるわよ。

 その少女──ミミは、庇護欲をそそるクリクリとした大きな瞳に涙を溜め、弱々しく私の顔を伺っていた。手と手をしっかりと握り合い、まるで悲劇のヒロインとそれに寄り添う騎士気取りだ。


「ミミは、僕にとって妹みたいなものだと思って接してきた。だが……この可憐で儚い彼女を守りたいと思う気持ちが、いつしか男としての愛に変わっていることに気づいたんだ。君のような何でも一人でこなせる完璧な女性には、僕の助けなんて必要ないだろう?」


「……」


 既視感どころの話ではない。寸分違わず、前世と同じセリフ。同じ構図。


(何でも一人でこなせる完璧な女性? 私がどれだけあなたのために裏で根回しをし、社交界での立場を守るために泥をかぶってきたと思っているの? 妹みたいなもの? 妹なら血の繋がった実の家族だけにしておきなさいよ!)


 腸が煮えくり返るとは、まさにこのことだ。今すぐその取り繕った面を殴り倒し、二人の頭の上から手にしたワインをぶちまけてやりたい。

 けれど、ここで取り乱せば嫉妬に狂った醜い令嬢として処理されるだけだということを、嫌というほど理解していた。周囲の視線が集まっているのが分かる。

 深呼吸をひとつし、顔の筋肉を極限まで制御して、淑女としての完璧な笑みを張り付けた。


「そう、わかったわ。今までありがとう、ユリアン。お幸せにね、ミミ様と」


「え……あ、ああ。分かってくれたか、アイリス」


「アイリス様、なんて寛大な……!」


 あっさりと引いた私に、ユリアンは拍子抜けしたような、そしてどこか不満そうな顔をした。もっとすがりつかれ、泣きつかれるとでも思っていたのだろう。バカバカしい。

 ミミは感動したように胸の前で手を組んでいるが、その瞳の奥にはうっすらと勝ち誇ったような光が浮かんでいるのを見逃さなかった。

 静かに背を向け、ドレスの裾を翻して会場を後にする。


(次こそ……次こそは絶対に、妹みたいな女のいない男と縁付きたい!!)


 心の中で、血を吐くような叫びを上げながら。




◇◇◇





 婚約破棄から三日。世間の噂というものは、いつでも被害者に厳しく、加害者に甘い。


『クロード伯爵令息に捨てられたアシュトン嬢』

『可愛げがなく、男心を理解できない令嬢』


 社交界ではそんな不名誉な噂が駆け巡り、伯爵家である我が家にも少なからず火の粉が降りかかっていた。

 自室のベッドの上で、ボサボサの髪のままクッションを抱きしめ、天蓋を睨みつける。


「はあ……バカバカしい」


 前世と今世。二度も同じ目に遭うなんて、どんな大罪を犯したというのだろう。()()()()()()()というフレーズは、男が浮気を正当化するための魔法の言葉なのか? だとしたら、この世のすべての妹みたいな存在を根絶やしにしたいほどに嫌悪感が止まらない。

 トントン、と部屋の扉がノックされ、侍女のマーガレットが入ってきた。手に茶器の載ったトレイを持っている。


「お嬢様、またそんな格好をして……。お顔を洗って、お着替えをなさってください。旦那様と奥様がお呼びです」


「お父様とお母様が? どうせ『次の相手を探さなければ』とか『伯爵家の面目が』とか言うんでしょう。もう嫌よ。男なんてみんな嘘つきで、ちょっと庇護欲をそそる女が現れたらコロッとそっちに流れる生き物なんだから」


 クッションに顔を埋めてグチグチと呟く。完全にやさぐれていた。前世の記憶がある分、男性に対する不信感は人一倍強い。もう恋愛も結婚も懲り懲りだった。一生独身で、実家の一角で静かに本でも読んで暮らしたい。


「そんなことを仰らずに。旦那様方も、お嬢様のことを本当に心配なさっているのですから」

 

 マーガレットに半ば強引にベッドから引っ張り出され、身だしなみを整えさせられる。重い足取りで両親が待つというサロンへと向かった。

 サロンでは、父であるアシュトン伯爵と母が、重々しい表情で書類を広げていた。


「アイリス、体調はどうかね?」


「ええ、お父様。体調は問題ありませんわ。ただ、精神的に少し……男全般に対する嫌悪感が拭えませんけれど」


 私が嫌味っぽく微笑むと、父は困ったように眉を下げ、母は痛ましそうな溜息をついた。


「ユリアン殿の件は、我が家にとっても痛恨の極みだ。まさかあのような不誠実な男だったとは……見る目がなく、お前に辛い思いをさせた。すまなかった」


「いいえ、お父様のせいではありませんわ。私の可愛げのなさも原因だったようですし」


「そんなことはない!」


 父は机を叩いた。


「お前は伯爵令嬢として、婚約者として、完璧に務めを果たしていた! それを理解できんあの愚か者が全て悪いのだ。……しかしだな、アイリス。お前ももう19歳だ。このまま社交界の噂に晒され続けるのは、お前にとっても良くない」


 ほら来た、と心の中で身構える。どうせそんなことだろうと思った。


「そこでだ。お前に新しい婚約の話が来ている」


「お父様、私、当分はそういうお話は……」


「相手を聞いてから判断しなさい」


 母が静かな声で言った。


「デュノワ侯爵家のアレクシス様」


 その名を聞いて、思わずパチクリと目を瞬かせた。


「アレクシス・デュノワ様……? あの、王太子殿下の側近の?」


「そうだ」


 父が頷く。

 アレクシス・デュノワ様。

 社交界でもその名を知らない者はいない。王立騎士団の精鋭部隊を率いる若き英雄。漆黒の髪に鋭い翠眼を持つと言われ、剣の腕は王国一。

 そして何より「歩く鉄壁」「血の通っていない石像」とまで称されるほど、極度に厳しく、堅物で、浮いた話が一切ない男として有名だった。


「あの堅物で有名なデュノワ様が、なぜ私と……?大体、王太子殿下の側近かつ侯爵家次期当主なんて選り取り見取りではありませんか??」


「彼もまた、過去に一度婚約を解消した経緯があってな。お互いに社交界の不躾な視線に晒されている立場だ。デュノワ家側からも『お互いの利益と家門のために、形式的な婚約を結べる真面目な淑女を探している』と打診があったのだよ」


 父が出してきた書類には、デュノワ家からの条件が細かく記されていた。

 そこには『恋愛感情や過度な接触は求めない。しかし、互いの立場を尊重し、誠実に契約を全うできる女性を望む』といったような、まるで業務提携のような文言が並んでいた。


「……なるほど」


 顎に手を当てて考える。

 堅物で無愛想、恋愛に興味なし。一見すると冷たい条件に見えるが、今の私にとっては願ってもない条件かもしれない。

 変に「愛している」だの「君を守る」だのと甘い言葉を囁いておきながら、陰で妹みたいな女を作るような男より、最初から「ビジネスパートナーとして割り切ろう」と言ってくれる男の方が何倍もマシだ。

 それに、あの堅物で有名なデュノワ様なら、可憐で守ってあげたくなるような妹みたいな女が寄ってきても、「妹?邪魔だ、去れ」と一蹴してくれそうな安心感がある。


「分かりました、お父様。そのお見合い、お受けいたします」


 そう言ったらあれよあれよとことが進み、数日後。都の格式高い高級料亭の個室にてデュノワ様と対面していた。

 部屋に入ってきた彼は、噂通りの人物だった。

 背が高く、無駄のない引き締まった体躯。隙のない漆黒の軍服をビシッと着こなし、腰には飾りのない実用的な剣を差している。夜空のような黒髪に、見透かすような翠の瞳。整いすぎた容姿はまるで冷たい彫刻のようだった。


「初めまして、アイリス・アシュトン嬢。アレクシス・デュノワという」


 その声は低く、淡々としていて、社交辞令の温かみすらない。

 彼は椅子に座ると、背筋をピンと伸ばし、まるで軍の取り調べでも始めるかのように視線を向けてきた。


「初めまして、デュノワ様。本日お時間をいただき、感謝申し上げます」


 淑女の微笑みを浮かべながら、慎重に彼を観察する。指の先までかっちり、という言葉がよく当てはまる。石像といわれるのも納得の微動だにしなさだ。


「単刀直入に言う」


 デュノワ様は一切の無駄を省いて切り出した。


「俺には恋愛という感情がよく理解できない。女性を口説く言葉も知らなければ、華やかな社交界の駆け引きも苦手だ。俺が提供できるのは、デュノワ侯爵家としての地位、経済的な安定、そして貴女に対する絶対的な忠誠と保護のみだ」


(うわぁ、本当に堅物!)


 感心すると同時に、どこかホッとしている自分に気づいた。

 甘い言葉で飾られた嘘の愛など、もうコリゴリなのだ。これくらい潔い方が清々しい。


「承知いたしました、デュノワ様。私にとっても、その条件は非常に望ましいものです。私もまた、前回の婚約破棄により、男心というものに嫌気がさしておりまして。過度な愛情表現よりも、互いに自立し、信頼し合える関係を望んでおります」


「そう言っていただけると助かる」


 デュノワ様は眉ひとつ動かさずに言ったが、その瞳がわずかに細められたような気がした。


「一つ、確認させていただきたいのですが」


 そう、一つだけ。どうしても聞きたいことがある。意を決して尋ねた。


「何だろうか」


「デュノワ様には……その、可愛がっている幼馴染や、手のかかる遠戚の少女など……妹のように思っている女性は存在しますか?」


 こちらの唐突な質問に、デュノワ様は少しだけ首を傾げた。


「妹、か。俺には血の繋がった妹はいない。親戚にも年下の女性はいるが、年に一度手紙を交わす程度だな。仕事柄、部下や同僚に女性が交じることもあるが、すべて同僚以上の感情を持ち合わせたことはない」


「本当に……? 本当に『あいつは手がかかるから放っておけない』とか『妹みたいなものだから』と言って、特定の女性を優先したりはしませんか!?」


 思わず熱が入ってしまい、身を乗り出して詰め寄ってしまった。

 デュノワ様は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに大真面目な顔に戻り、深く頷いた。


「誓って、そのようなことはない。もし俺に守るべき女性ができるとすれば、それは俺の妻となる女性だけだ。──貴女だけだ」


 大真面目な顔で、何の含みもなくさらりと言い放たれた言葉。その誠実すぎる瞳に見つめられ、不覚にも胸がドキンと跳ね跳ねるのを感じた。


(いけない、いけない! 騙されるな私! 男はみんな最初はそう言うんだから!)


 内心首をぶんぶんと横に振り、自分を戒めた。確かに、今のところデュノワ様は完璧に見える。堅物で、真面目で、浮気の心配もなさそうだ。

 でも、人間いつどこで妹系女子に遭遇するか分からないのだ。現にユリアンだって、ミミが現れるまでは「君だけを愛している」なんて言っていたのだから。


「……分かりました。そのお言葉を信じましょう」


「ありがとう。では、婚約の手続きを進めさせてもらう」


 デュノワ様は淡々と立ち上がり、侍従と共に礼をして去っていった。


 帰り道、馬車の中で窓の外を眺めながら、複雑な溜息をついた。


「固い人だったわね……」


「本当ですね。でも、誠実そうな方でしたよ」


 同席していたマーガレットが苦笑する。

 冷たくて、隙がなくて、愛想もない。

 でも、あの過剰なまでの真面目さは、裏切りに傷ついた私の心に少しだけ安心感を与えてくれたのも事実だった。


「そうね。でもまあ……結局、この人もいつかは()()()()()()()の方に行ってしまうのかもしれないけれど」


「お嬢様…」


 自嘲気味に呟いた。

 期待しなければ、傷つくこともない。

今度の婚約は、いつでも捨てられる覚悟を持ちながら、静かに斜に構えて見守ることにしよう。

 そう心に誓いながら、夕暮れの街並みをじっと見つめていた。



◇◇◇




 お見合いから一週間後、正式に婚約が交わされた。

 世間は「あの血も涙もないアレクシス・デュノワが、捨てられたアシュトン令嬢と婚約した」と大騒ぎになったが、当事者である私たちは至って静かだった。

 アレクシス・デュノワという男は、およそ情熱やロマンチックという言葉から最も遠い場所にいる人間だった。

 彼からは、二日に一度のペースで定期連絡の手紙が届いていた。


『アイリス・アシュトン嬢


本日、騎士団の馬の買い付けが完了した。来週の予算会議に向けた書類作成を行っている。貴女の体調に変化はないか。何か必要なものがあれば知らせてほしい。


アレクシス・デュノワ』


(業務連絡じゃない!)


 届いた手紙を見て苦笑した。

 普通、婚約者への手紙といえば、愛の言葉や詩的な表現が並ぶものだ。しかし彼の手紙は完璧な報告書だった。

 だが、嘘がないことだけははっきりと分かった。彼は言葉通り、不器用ながらも真面目に私との契約を果たそうとしているのだ。



 しかしそんなある日、私は社交界の友人であるエリザベスとお茶会をしていた。


「アイリス、デュノワ様との婚約、本当におめでとう。でも……本当に彼で良かったの? あの方、すごく冷たい方だって噂よ?」


「いいのよ、エリザベス。私はもう、甘い言葉を囁く男には懲り懲りなの。デュノワ様のように真面目で誠実な方の方が、ずっと信頼できるわ」


 紅茶を一口すすりながら言う。


「そう……? でもね、アイリス。少し気になる噂を聞いたの」


 エリザベスが声を潜め、心配そうに私を見つめてきた。


「噂?」


「ええ。デュノワ卿、実は昔……とても仲の良い元婚約者がいらしたらしいの。その方とは家族ぐるみのお付き合いだったとか。訳あって婚約は解消されたけれど、今でもとても親しくされていて、彼女の私物を大切に持ち歩いている……なんて噂があるのよ」


 私の手が、ピタリと止まった。

 カチャ、とカップとソーサーが小さく音を立てる。


(仲の良い……元婚約者……?)


 脳内で、あの呪いのフレーズがリフレインする。

『あいつは妹みたいなものだから』

 血の気が引いていくのが分かった。胸の奥が、ぎゅっと冷たく締め付けられる。


「……本当なの? その噂」


「確かな証拠があるわけじゃないわ。ただ、騎士団の若い騎士たちがそう話していたのを聞いたという人がいて……。アイリス、大丈夫? 顔色が悪いわ」


「え、ええ。大丈夫よ。ただ……少し、ね」


 無理に笑顔を作ったが、心の中は再び黒い雲で覆われていた。

 やっぱりだ。やっぱり、男なんてみんなそうなのだ。

 表面上は「恋愛感情はありません」「貴女だけを尊重します」なんて澄ました顔をしておきながら、裏にはちゃんと特別で、庇護欲をそそる、切っても切れない妹のような存在を隠し持っているのだ。

 デュノワ様も、結局は同じなのかもしれない。

 あんなに真面目な顔をして守るべき女性は貴女だけ、と言っていたのに、それも全部、ただの社交辞令だったのだとしたら──。

 冷たくなった紅茶を見つめながら、強く唇を噛み締めた。


(信じちゃダメ。期待しちゃダメ。どうせまた、最後は私を捨てて妹みたいな元婚約者のもとへ行くんだから……)


 斜に構えた防衛本能が、心に固い殻を作り出していく。

 夕暮れ時、伯爵邸に戻った私のもとに、デュノワ様からの新しい手紙が届いていた。


『アイリス・アシュトン嬢


本日、演習中に見事な野花を見かけた。名前は分からないが、可憐な花だ。貴女に送る


アレクシス・デュノワ』


 手紙の箱を開けると、そこには無造作に摘まれた、少し潰れた小さな青い花が一輪入っていた。

不器用で、武骨で、どこか可笑しい贈り物。

 それを見た瞬間、胸にほんの少しだけ温かいものが芽生えたけれど、すぐにそれを打ち消すように、静かに箱の蓋を閉じた。


(……惑わされないわ。絶対に)


 自分にそう言い聞かせ、深まる夜の闇の中に身を沈めたのだった。




 けれど数日後。デュノワ様が珍しく、我がアシュトン伯爵邸を直接訪問してきた。


「アシュトン嬢、急な訪問を許してほしい」


 応接間に現れた彼は、相変わらず隙のない軍服姿で、背筋をピンと伸ばして立っていた。漆黒の髪と翠の瞳。相変わらず整った顔立ちは厳めしく、冷たい彫刻のようだが、手には何やら小さな箱を大事そうに抱えている。


「いいえ、お越しいただき光栄です、デュノワ様どうかお掛けになってください」


 勧めると、彼は失礼する、と短く言い、浅く腰掛けた。そして、テーブルの上にその箱をそっと置いた。


「前回の定期連絡の際、演習場に咲いていた野花を同封した。……だが、届いた時には少し萎れてしまっていたと聞き、配慮が足りなかったと反省している」


「え……?」


 思いがけない言葉に目を瞬かせる。

 確かに、以前手紙に添えられていた青い野花は、途中で押し潰されたのか少し痛んでいた。けれど、それは彼に伝えていない。おそらく配達した使者か、侍女のマーガレットあたりが漏らしたのだろう。


「花は摘んだ瞬間から傷み始める。だから今回は、根ごと鉢に植え替えたものを持参した」


 デュノワ様が箱の蓋を開けると、そこには素焼きの小鉢に植えられた、可憐な淡い紫色の花が綺麗に咲いていた。葉にはまだ水滴が残っており、彼が手塩にかけて運んできたことが窺えた。


「わざわざ、鉢植えにして……?」


「ああ。これなら枯れずに、長く貴女の部屋を彩ることができるはずだ」


 デュノワ様は大真面目な顔でそう言った。彼のゴツゴツとした武骨な手には、小さな土の汚れがうっすらと残っている。


(この人……わざわざ自分の手で、鉢に植え替えて持ってきてくれたの……?)


 胸の奥が、小さな熱を帯びてキュッと締め付けられた。前世の彼も、元婚約者のユリアンも、口では「君のために」と甘い言葉をいくらでも囁いてくれた。高級な貴金属や派手な薔薇の花束を贈ってくれたこともある。けれど、それらはすべて店に注文して買い与えられた既製品であり、そこに彼ら自身の時間や手間がかけられたことは一度もなかった。


「……デュノワ様。なぜ、そこまでしてくださるのですか? 私たちの婚約は、あくまで家同士の利害が一致した形式的なもののはずでしょう?」


 思わず尋ねると、デュノワ様は不思議そうに少し首を傾げた。


「形式的であろうと、貴女が俺の婚約者であることに変わりはない。婚約者に対して誠実でありたいと思うのは、男として当然の責務だ。それに……」


 彼は少しだけ言葉を区切り、翠の瞳でじっと私を見つめた。


「手紙に花が添えてあると嬉しいと、貴女が言っていたとマーガレット殿から伺った。貴女が喜ぶのであれば、俺はそれを遂行するまでだ」


「っ!?」


(マーガレット……!余計なことを……!)


 思わず顔が熱くなるのを感じた。やさぐれていた時期に、侍女に対して「昔読んだ物語みたいに、手紙にお花でも添えられていれば少しは気分も紛れるのに」と漏らした軽口を、彼女がデュノワ様に伝えてしまっていたらしい。

 しかし、驚くべきはデュノワ様の反応だ。

 彼はそれを令嬢のわがままとして切り捨てることもなく、手紙に躊躇なく花を添え、押し潰されるという失敗を経て、わざわざ鉢植えにして持ってくるという行動力。

 不器用すぎる。あまりにも不器用で、まっすぐだ。


「……ありがとうございます、デュノワ様。大切に飾らせていただきますね」


 鉢植えを受け取り、ふわりと微笑むと、デュノワ様は一瞬だけ息を呑んだように目を大きく開いた。そして、大真面目な顔のまま、耳の先端だけをほんのりと赤く染めて、小さくコホンと咳払いをした。


「……役に立ったなら幸いだ。では、俺はこれで失礼する。次の定期報告は明後日になる」


 嵐のように立ち去っていく彼の背中を見送りながら、私は抱えた鉢植えの紫色の花を見つめた。


(ダメよ、アイリス。こんなことで惑わされちゃ。彼はただ、生真面目な性格だから約束を果たしているだけなんだから……)


 そう自分に言い聞かせるものの、一度冷え切っていた胸の奥の氷が、ほんの少しだけ溶け出していくのを止められなかった。

 


 デュノワ様の有言実行ぶりは、それだけにとどまらなかった。

 季節は初夏に差し掛かり、社交界の夜会やサロンの誘いが増えていた時期のこと。

 前世のトラウマと元婚約者たちの噂に疲れ果てていた私は、デュノワ様との定期的なお茶会の席で、小さく溜息をつきながらぼやいてしまった。


「はあ……社交界の探り合いには、本当に疲れてしまいますわ。たまには華やかなドレスも格式高いお辞儀も全部忘れて、人里離れた静かな湖で、釣りでもしてのんびり過ごしてみたいものです……」


 単なる現実逃避の愚痴だった。

 貴族の令嬢が釣りをしたい、などと言えば、普通の男なら「淑女らしくない」「下品だ」と眉をひそめるか、流してしまうだろう。

 しかし、アレクシス・デュノワは違った。

 数日後、彼から届いた手紙にはこう書かれていた。


『アイリス・アシュトン嬢


明後日の休日、午前に迎えに伺う。動きやすい服装、出来ればドレスではなく乗馬服のようなものを用意されたし



アレクシス・デュノワ』


「え……?」


 当日、何事かと首をかしげながら軽装で待っていた私の前に現れたのは、黒い馬に引き連れられた簡素な馬車だった。

 乗っていたデュノワ様は、普段の煌びやかな軍服ではなく、上質な革のジャケットにシンプルなズボンという、驚くほどラフな格好をしていた。


「おはよう、アシュトン嬢。行き先は俺に任せてほしい」


 馬車に揺られること一時間。連れていかれたのは、都の喧騒から遠く離れた、深い森の奥にある静かな湖だった。

 木漏れ日が水面に反射してキラキラと輝き、聞こえるのは鳥のさえずりと風の音だけ。まさに私が思い描いていた理想の隠れ家のような場所だった。

 さらに驚いたことに、湖畔には完璧な釣りの準備が整えられていた。


「これは……」


「貴女が『静かな湖で釣りをしたい』と言っていたのでな。私領の管理地に最適な湖があったため、手配した。……この釣竿は貴女の手に合わせて軽量な木材で特注させたものだ。防寒用の毛布と、温かい紅茶も用意してある」


 デュノワ様大真面目な顔で、特注の釣竿を私に手渡してきた。

 思わず絶句する。


(嘘でしょ……!? たった一言、愚痴みたいに言っただけなのに、特注の釣竿まで作って湖を準備したの……!?)


「デ、デュノワ様……私は、ただの冗談のつもりで……」


「冗談?」


 デュノワ様は不思議そうに眉をひそめた。


「貴女が望んだことだ。俺がそれを叶えるのに、冗談か否かは関係ない。……それとも、気に入らなかっただろうか?」


 どこか不安そうに、透き通った翠の瞳で私を覗き込んでくる。そのあまりにも愚直でまっすぐな姿勢に、胸が激しく打たれた。


「いいえ! 気に入らないなんてこと、ありません! すごく……すごく嬉しいです!」


 声を弾ませると、デュノワ様はホッとしたように目元を緩めた。彼がそんな風に柔らかい表情を見せたのを、初めて見た気がした。

 釣りは楽しかった。というか、ほとんどデュノワ様に手取り足取り教わる時間となった。


「糸はこうして投げる。……そうだ、上手いぞ」


「魚がかかったら、焦らずに竿を立てるんだ。手を貸そう」


 背後から包み込まれるようにして釣竿を握らされ、彼の胸の鼓動や体温が直に伝わってくる。男らしい爽やかな汗と香木の香りが鼻腔をくすぐり、心臓が爆発しそうなほど高鳴っていた。


(どうしよう……すごく、ドキドキする……!)


 今まで男なんて、と壁を作っていたはずなのに、彼の差し出す無骨な優しさに、防衛本能は完全に崩壊しかけていた。

 釣りの途中、急に冷たい川風が吹き抜けて、小さく身震いをした瞬間だった。


「寒かったか」


 デュノワ様は即座に自分の革ジャケットを脱ぎ、肩にふわりとかけてくれた。彼の上着は大きくて重く、そして彼の温もりがしっかりと残っていた。


「デュノワ様、これでは貴方が寒くなってしまいます……!」


「俺は騎士だ。これくらいの寒さで体調を崩すほど弱くはない。それより、貴女の肌は冷たくなっている。着ていなさい」


 そう言って、彼は私の肩を上着越しにギュッと優しく抱きしめるようにして、風から庇ってくれた。その大きな手、厚い胸板、そして何よりも私を一番に案じてくれる眼差し。


(ああ……私、この人に惹かれてる……)


 前世で傷つき、今世で踏みにじられ、二度と誰も信じないと誓ったはずの私の心が、この堅物で不器用な騎士によって、確かに書き換えられていくのを感じていた。

 彼の前では、完璧な伯爵令嬢でいる必要も、誰かと競い合う必要もない。ただ、素の自分のままで笑っていられるのだ。


「デュノワ様……」


「何だ?」


「今日、連れてきてくださって……本当にありがとうございました。私、こんなに楽しい休日は初めてです」


 心からの笑顔でデュノワ様を見上げると、彼はじっと私の顔を見つめた後、耐えかねたように片手で自分の顔を覆い、深く溜息をついた。隙間から見える彼の耳と首筋は、真っ赤に染まっている。


「どういたしましたの?」


「……いや。貴女の笑顔が、思いのほか不意打ちだっただけだ。気にしないでくれ」


(不意打ち……?)


 彼のその言葉の意味に気づき、今度は私の方が顔を真っ赤にする番だった。




◇◇◇




 湖への外出を経て、私とデュノワ様の距離は飛躍的に縮まった。

 彼は相変わらず口数は少なく、甘い言葉なんて一つも言ってくれない。けれど、彼の行動のすべてが私への愛おしさで満ちていることを実感できるようになっていた。


 私が「このお菓子が美味しい」と言えば、翌週にはその店の新作が届く。


 私が「最近、夜眠れなくて」と漏らせば、質の良いアロマオイルと安眠効果のあるハーブティーが届く。


 彼の愛は、言葉ではなく行動なのだ。


(もう……妹みたいな女なんて、気にしなくていいのかもしれない)


 私の心からは、すっかりやさぐれた気持ちが消え去っていた。

 デュノワ様が向けてくれるこの愚直なまでの誠実さを信じたい。今度こそ、私はこの人と本当の夫婦になり、幸せな家庭を築きたい──そう心から思えるようになっていたのだ。

 しかし。

 運命というものは、いつも残酷なタイミングで試練を与えてくる。

 その日の午後、私はデュノワ様への感謝の贈り物を選ぶため、都で一番大きな仕立て屋や宝飾店が並ぶ繁華街を訪れていた。


「デュノワ様、普段は装飾品をあまり身につけないけれど……シンプルなカフスボタンなら、使ってくださるかしら?」


 ウキウキとした足取りで、ショーウィンドウを眺める。

 彼が喜ぶ顔を想像するだけで、胸がキュンと甘く痛む。私はすっかり、彼に恋をしていた。

──その時だった。


「あら……? あそこにいらっしゃるのは、デュノワ様ではありませんか?」


 お供でついてきていたマーガレットが、ふと通りの向かいを指さした。


「え?」


 視線を向けた先。高級カフェのテラス席の陰で、紛れるように座っている人影があった。漆黒の髪、高い背、引き締まった体躯。間違いない、デュノワ様だ。


(お仕事中かしら……?)


 声をかけようとして、言葉を失った。

 彼の隣には、一人の美女が座っていた。眩いばかりの金髪をなびかせ、華やかなドレスを纏ったその女性は、親しげにアレクシスの腕に手を絡めている。そして……あの堅物なデュノワ様が、その女性の肩を抱き寄せ、真剣な眼差しで耳元で何かを囁いていたのだ。そして美女の口が動く。おにいさま、と。

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。頭の中の鐘が、ガンガンとけたたましく鳴り響く。


『訳あって婚約は解消されたけれど、今でもとても親しくされていて』


 エリザベスの言葉を思い出す。

 前世の記憶。結婚直前に「妹みたいなものだから」と言っていた他の女を抱きしめていた男の顔。

 今世で「ミミは妹みたいなものだ」と言って私を捨てたユリアンの顔。


 そして──今、目の前で美女の肩を抱き寄せているデュノワ様の顔。


(嘘……嘘でしょう……!?)


 視界が真っ赤に染まり、血の気が一気に引いていく。


「デュノワ様……? 私だけに……私だけに誠実でいてくれるって……言ったじゃない……!!」


 信じていた。今度こそ幸せになれると、あの堅物な男の言葉を信じていたのに。

 結局彼も、裏ではこんな妹みたいな女を囲っていたのだ。

 胸の奥で、何かがパチンと弾け飛ぶ音がした。

 愛していたからこそ。信じていたからこそ。私の中で抑え込まれていた前世からのトラウマと怒り、そして絶望が、限界を突破して爆発した。


「──っ、許さない……!!」


 頭の中でブツリと何かが切れる音がした。視界が真っ赤に染まり、足が勝手に動きだす。マーガレットが後ろで、お待ちください!と悲鳴を上げているのも聞こえているが耳に入らない。

 前世の虚無感、ユリアンの薄笑い、そして何より──この数ヶ月間、私の心をあれほど温め、解かしてくれたアレクシスの武骨な優しさが、すべて嘘だったという恐怖と絶望。

 信じた私がバカだった。

 妹みたいなもののいない男なんて、この世に存在するわけがなかったのだ!

 人込みを押し分け、高級カフェの陰で寄り添う二人──デュノワ様と、その腕に親しげにしなだれかかる金髪の美女のもとへ一直線に躍り出た。


「デュノワ様っ!!」


 怒声に、デュノワ様が弾かれたように振り向いた。翠の瞳が一瞬にして見開かれ、驚愕に染まる。


「アシュトン嬢……!? なぜここに……」


「嘘つき!!」


 かける言葉など選ぶ余裕もなかった。涙で視界をぐしゃぐしゃに歪ませながら、彼の胸に飛び込む勢いでそのガッシリとした胸板を両拳で叩きつけた。


「嘘つき! 騙したのね! 『私だけを尊重する』なんて大嘘つき! 恋愛感情なんて分からないって顔をしておいて、裏ではこんな綺麗な方と仲良く街中でイチャイチャして……っ! やっぱり男なんてみんなそうなのね! 『あいつは妹みたいなものだ』って言って、最後は私を捨てるんでしょう!?」


 バンバンと叩く私の拳は、鍛え抜かれた彼の胸甲や肉体に対して何の痛手も与えられない。けれど、デュノワ様はまるで雷に打たれたかのように硬直し、両手を挙げたまま固まっていた。


「あ、アシュトン嬢、落ち着くんだ。これは──」


「落ち着けるわけないでしょう!!」


 ボロボロと溢れ出る涙を拭うこともせず、街中で大声を上げて泣きわめいた。淑女の嗜みも、伯爵令嬢の矜持も、何もかも吹き飛んでいた。


「もう嫌……嫌よ! また同じ目に遭うなんて……! 私がどれだけあなたを信じようとしていたか、あなたに惹かれていたか……!! こんな思いをするなら、最初から優しくなんてしないで欲しかった! この女の人と……その『妹みたいな女』と、末永くお幸せになればいいじゃない!!」


 胸の奥に溜まっていた前世からのドロドロとした泥が、すべて涙となって吐き出されていくようだった。

 周りの通行人たちが何事かと足を止め、私たちを遠巻きに眺め始めている。だが、今の私にはどうでもよかった。悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうだった。

 すると、デュノワ様の横にいた金髪美女がふ、と吹き出した。思わず睨み付ける。


「なによ!貴女みたいに可憐で守ってあげたくなるような女、だいっきらい!」


「ふふ、可憐だって?いやあ、最高。婚約したけどまた政略って聞いてたからどんなもんかと思ったけど、良かったねぇアレクシス!」


「うるさい、黙れレオン。お前のせいだぞ」


 返ってきた声があまりにも男で、デュノワ様から発された名前がどう考えても男で。血が上っていた頭が一気に冷えていく。


「……え?」


 涙が、ぴたりと止まった。

 思わず金髪美女を凝視するが、どこからどう見ても女だ。どういうことなのか。頭の中はぐちゃぐちゃだ。


「ごめんね、今ここでは明かせないから少し場所を変えて良いかな?」


「アシュトン嬢、俺からも是非この事態について説明させて欲しい」


「はぁ…?」


 意味が分からない。けれど、着いていくしかなかった。



◇◇◇




 俺が送るから、とデュノワ様はマーガレットを家に戻し、連れてこられたのは靴屋だった。


「いらっしゃいま…ああ、レオン様とアレクシス様でしたか」


「やあ坊っちゃん、邪魔するよ。ちょっと休憩時間にさせてね」


「あ、また勝手に看板を閉店中にして!」


「込み入った話するからさあ」


 これまた美麗な顔の店員が慣れた様子で二人を招き入れる。美女は、やっぱり男声で男の名でよばれている。店員は最後に入ろうとした私を見て、目を見開いた。


「えっこちらはどなたですか?」


「俺の婚約者のアイリス・アシュトン嬢だ」


「ああ、あのいつもお話ししてくださる」


「え、?」


 いつも、お話ししてくださる?店員相手に?見上げると、デュノワ様はふい、と視線をそらした。


「まあまあ、それより説明しようよ」


「ややこしいことをしているお前がいうな」


「今戻すからさあ。さ、レディ椅子にどうぞ」

 

「ありがとうございます…?」


 勧められるがまま椅子に座る。美女は、デュノワ様と軽口を叩きあっていると思ったら何事かを呟いた。


「えっ…!?」


 目の前で風貌が変わっていく。先ほどまでの美女の面影はあるが、どう見ても──男だ。


「分かっていただけただろうか、アシュトン嬢。こちらはレオン・アルノー。立派な成人男性だ」


「ごめんね、アシュトン嬢。ちょっとばかしデートの予習をしに行ってたんだ」


 レオン・アルノー様といえばデュノワ様と同じく王太子の側近を務める、次期伯爵。顔が真っ青になるのが分かる。


「も、申し訳ございません!!!アルノー様とは存じ上げず、不躾な真似を!!!」


 不躾どころではない。自分のしでかしたことの大きに、怒りとは違う意味で死にそうだった。


(嘘……私、次期伯爵に向かって『あなたみたいな可憐な女、大嫌い!』って叫んだの……!? 街中で……デュノワ様の胸をポカポカ叩いて……『私だけを尊重するなんて大嘘つき!』って……!?)


 逃げ出したいし、穴があったら入るどころか、このままどこまでも掘り進んで埋まりたい。

 あまりの事態にその場に崩れ落ちそうになるとデュノワ様がしっかりと私の体を支えてくれた。


「いや、どう考えてもレオンが悪い。なんだ店に男二人で入るのは嫌だから女装させろというのは」


「えー!だって、あの店の雰囲気的にもいきなり男二人が訪れるよりデートっぽくした方が合ってたじゃないか」


「面白がっていただけだろう」


「ま、そうともいう。私が悪いとは全く思わないけど、君が悪いとは更に思わないから大丈夫だよ、アシュトン嬢」


「少しは反省しろ」


 気のおけないやり取りに、少し力が抜ける。ふと体重を預けてデュノワ様を見上げると、いつも無表情で彫刻とも揶揄される彼が。耳まで……いや、顔全体を真っ赤にし、翠の瞳を熱く湿らせて、見たこともないような愛おしそうな表情で見つめていた。


「……アシュトン嬢」


「な、なんでしょう……」


「……不謹慎とは思うが。非常に不謹慎とは思うのだが……」


 彼の手が、頬に優しく触れた。


「貴女がそれほどまでに俺を想い、嫉妬し、涙を流してくれたことが……たまらなく嬉しい」


「っ!?」


「いつも澄ましていて、どこか俺と距離を置いていた貴女が、初めて俺に好きだと言ってくれた気がした。……俺は猛烈に感動している」


大真面目な顔で、何の臆面もなくそう言い放つ堅物男。


(ち、違う! 『好きだ』なんて一言も言ってない!! ……言ったようなものだけど!!)


 あまりの恥ずかしさと、彼の予想外すぎる反応に、頭は限界を迎えて真っ白になった。


「で、デュノワ様……私……私……!」


「何事ですか」


 気配を消していた金髪の店員は、もう一人を呼びに行っていたらしい。やってきた店員は女性だった。灰色の瞳がこちらを向く。


「お客さんですか?」


「いえ、あの」


「やあマルタ、こちらアレクシスの婚約者のアシュトン嬢。アシュトン嬢、こちらはマルタ。私の妹」


 妹。いもうと!?

 流れるようにアルノー様に紹介を受け、衝撃が走った。焦りつつ急いで腰をおとす。同じ伯爵家の令嬢と言えど、王太子の側近を務める程の家柄としがないただの伯爵家では大分格が違う。


「アルノー嬢、いきなり失礼しました、アイリス・アシュトンと申します」


「ああ、ここではそんなの気にしないでください。…兄上がご迷惑をお掛けしたようで」


「全くだ」


 ふん、と鼻をならす気安いデュノワ様の様子が少し気になる。同じ側近同士交流はあるのだろうが、それにしては女性に対しても大分ぞんざいなような。


「あの、デュノワ様もお知り合いですか?」


「元婚約者だ」


「えっ!?」


 目が点になったのが分かる。元婚約者といえばあの、仲が良いという?確かに仲は悪くなさそうだが。思ってたのと違う。


「最近靴の売れ行きはどうだ」


「まぁまあですね」


「レイナルドは鍛えてるのか」


「そっちもまあまぁですね」


「ひどいよ、マルタ」


 気安いやり取りは、妹みたいな女を通り越して本当に妹に接してるみたいだ。落ち着いてきたら、もう一人の店員が気になってきた。玄関で迎え入れてくれた、金髪の美麗な顔の店員。思わず見つめていると、こほん、とデュノワ様が咳払いをした。


「彼は、レイナルド・グランヴィル。俺が稽古をつけている」


「初めまして、レイナルド・グランヴィルです」


「初めまして、アイリス・アシュトンと申します」


 返事をしつつ、あまり働かない頭を無理矢理動かす。グランヴィルと言えば、なにかと噂の?たしか、アルノー家の令嬢と婚約したのでは。ちら、とマルタとよばれた女性に目を向けるとふ、と笑われた。


「私の婚約者です。綺麗な顔をしているから、見たくなる気持ちは分かります。ただ申し訳ありませんが、渡す気はありません」


「え、あらごめんなさい、そんなつもりでは、」


 慌てて手を振ると、不意に視界が暗くなった。大きな背中が私の前にすっと割り込み、視線を完全に遮る。


「……レイナルド」


「はい、アレクシス様」


「今日はもう上がっていい。帰って素振りでもしてろ」


「はい? まだ勤務時間中なんですけど…」


「アレクシス様、勝手なこと言わないでいただけますか」


「いいから上がれ」


「横暴だよ、アレクシス」


 アルノー様が即座にツッコミを入れるが、デュノワ様の周囲には、絶対零度というにふさわしい冷気が漂い始めている。グランヴィル様は少し肩をすくめ、後ろへと退避した。


「珍しいですね、アレクシス様がそんな理不尽なこと言うなんて」


「マルタ、余計なことを言うな」


「まあまあ、アレクシス。君の婚約者がレイナルドに目移りしたかとヒヤヒヤしたかい?」


「黙れレオン。次に口を開いたらその見苦しい髪を叩き切る」


「ひどいなぁ!元はと言えば君がデートの場所を調査したいって言うから着いていったのに」


 賑やかすぎる会話を背景に、デュノワ様がゆっくりと振り返る。先ほどまでの冷徹な空気はどこへやら、その翠の瞳はどこかじっとりと湿っていて、私を逃がさないように捉えた。


「……アシュトン嬢」


「は、はいっ!」


「あいつの顔が、そんなに好みだったか?」


「違います!! 本当に違います! ただ、アルノー嬢とのご婚約の噂を思い出して、少し確かめてしまっただけで……!」


 必死に弁明する私を、デュノワ様は黙って見つめている。手をそっと握りしめて、ぽつりと呟いた。


「……俺だけを見ていてほしい。頼むから」


 私の頭は今日何度目か分からない限界を迎えて、真っ赤に沸騰した。顔もそれに伴って熱い。


「意外だな、アレクシスってそういうタイプだったんだ?」


「静かにしろレオン。……アシュトン嬢が困っているだろう」


「困らせてるのは完全に君だと思うけどね?」


 アルノー様が呆れたように笑いながら、手際よく人数分のお茶を淹れてテーブルに並べた。アルノー嬢が感慨深げにデュノワ様を見る。


「本当に変わられましたね」


「全くだ。アシュトン嬢、アレクシスとマルタの婚約は、お互いに家同士の都合だけで決まった完全な政略だったんだよ。マルタは靴職人を続けたくて、アレクシスは貴族としての矜持があって。早々に『無理だね』って解消したんだ」


「そうだったのですか……」


「ええ。まあ、お陰さまでいい人に巡り合えましたから」


 アルノー嬢がグランヴィル様に視線を向けると、グランヴィル様は少し気まずそうに、けれど嬉しそうに目を細めた。色々と噂の絶えないお方だが、純愛らしい。お似合いの二人だ。


「それにしても、アシュトン嬢はすごいですね」


「えっ……? 私、ですか?」


「アレクシス様はレイナルドの武芸の先生なので我が家によくいらっしゃるのですが、余計なことを話さない人なのに貴女のことはよく話してたんですよ」


「そーそー、『アシュトン嬢の手紙はいつも想いがこもっている』『女性はなにを好むのか』ってね。遅い初恋は重症って本当だったんだなって感じ」


「マルタ!レオン! 余計なことを喋るな!!」


 あのデュノワ様が、耳まで真っ赤にして声を荒らげている。そんなお姿、見たことがない。


「嘘……アレクシス様が、私のことを……?」


「嘘じゃないさ」


アルノー様が楽しそうにまた口を挟む。


「君の肖像画を部屋に飾ろうとして、画家に発注しかけてたのを僕が止めたくらいなんだから。『不審者と思われるからやめろ』ってね」


「レオン、後で表へ出ろ」


 殺気立つデュノワ様と、ニヤニヤが止まらない様子の他の方々。

 先ほどまでの悲劇的な勘違いと涙が嘘のように、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。私の片思いだと思い込んでいたけれど……彼は本当に、ずっと前から私を想ってくれていたのだ。


「……もういい、行くぞアシュトン嬢」


 これ以上暴露されてはたまらんと言わんばかりに、デュノワ様がガバッと立ち上がった。手首をやさしく掴まれ、逃げるように店を出ようとする。


「あーあ、逃げちゃった。アレクシス、今度は女装しなくても入れる喫茶店にしなよー!」


「次は邪魔するなと言ったはずだ!」


 後ろから聞こえるみなさんの爆笑を背に、私たちは靴屋を飛び出した。




◇◇◇




 賑やかな通りから一本外れた、静かな街路樹の並木道。

 歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれるデュノワ様の手は、少し汗ばんでいて、けれどとても暖かかった。


「……すまない。あいつらの悪ノリに巻き込んでしまった」


「ふふ、いいえ。とても楽しかったです。デュノワ様が……そんな風に私のことを思ってくださっていたなんて、知らなかったので」


 チラリと見上げると、彼は気まずそうに視線を泳がせ、それから意を決したように足を止めた。視線が合い、その大きな手が私の両手を包み込む。


「……レオンたちの言ったことは、すべて事実だ。俺はずっと、貴女に恋をしていた。……嫉妬で泣かせてしまうほど、頼りない男だが」


「デュノワ様……」


「改めて、二人で仕切り直させてほしい。……俺と、デートをしてくれませんか。アイリス嬢」


 初めて呼ばれた、名前。彫刻のように美しい彼の顔が、いまは熱っぽく、切なそうに私だけを映している。

 胸がいっぱいになって、破裂しそうになる。


「……はい! 喜んで、アレクシス様!」


 今度こそ、勘違いの涙ではなく、溢れんばかりの笑顔で答えると、彼は心底ほっとしたように、眩しいほどの笑みを咲かせたのだった。




◇◇◇




 数ヶ月後。

 都の大聖堂にて、私とアレクシス様の結婚式が盛大に執り行われた。

 祝福の鐘が鳴り響く中、ウエディングドレスに身を包んだ私の隣には、完璧な礼装を纏った凛々しいアレクシス様の姿があった。


「アイリス様、おめでとうございます」


「いやあアレクシスを任せられるのは本当君だけだよ」


「お綺麗です、アイリス様!」


 参列者席の最前列で、賑やかなのはアルノー様ご一行だ。そのとなりにはなんと、王太子夫妻もいる。


「まったく、レオンはいつでも口が止まらないな」


 隣でアレクシス様が、いつも通りの大真面目な顔でボソリと呟く。


「ふふ、アレクシス様。今日は式なのですから、少しは優しくしてあげてくださいね」


「貴女がそう言うなら、そうしよう」


 アレクシス様は私に向き直ると、ふわりと優しく目元を緩めた。

 その甘い笑顔に、参列していた社交界の令嬢たちが「あのデュノワ様が笑った……!?」とざわめいている。


「ねえ、アレクシス様」


「何だ?」


「私、今……とっても幸せです」


 爪先立ちをして耳元で囁くと、アレクシスは少しだけ耳を赤くし、私の腰を優しく抱き寄せた。


「俺もだ、アイリス。貴女を二度と離さない」


 誓いのキスが交わされ、会場は大きな拍手と歓声に包まれた。

 前世で奪われ、今世でも一度は諦めかけた幸せ。でも、私はついに手に入れたのだ。

 妹みたいな女のいない男、ではなく。

 誰よりも誠実で、私だけを特別な女性として愛してくれる、世界一素敵な私の旦那様を。




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