この桜をあと何回見られるだろうか。
ふとした瞬間にセンチメンタルな気持ちになることもある。23時まで残業して帰りの駅に向かう道中などは、絶好のセンチメンタリズムタイムである。翌朝も6時起きして仕事だと思うと涙さえ流れそうだ(実際に仕事で涙を流したことはない。職場のトイレの個室から嗚咽が漏れるのを聞いたことはあるが)。
3月も中旬になるとチラチラと桜の花が目につくようになるが、日中はあまり気を回すことができない。どれだけ晴れやかで爽やかな空気を漂わせる朝であっても、仕事に向かう足は重く、俯きながらトボトボと歩くのがくたびれた社会人というものだ。桜の木に思いを馳せる余裕などない。陽気な空の下、陰気な顔でずるずると俯きながら歩く人間を目撃したら、それは行き詰まった芸術家か私かそのどちらでもない人間である。
仕事を終え、束の間の休息を得るための帰宅の帰路、ふと視線の先に見出す桜の木というものには特別の引力があるように思える。
人間の気持ちなどはどこ吹く風で咲き誇る桜の木を見ていると、自分の抱える悩みの矮小さを実感し少し気持ちが楽になることがある。常々植物のような人間になりたいと思っているのである。職場に置かれた観葉植物のように、ただそこにいるだけで良しとされる立場に憧れる。草食系〜という言葉が流行ったことがあるが、植物系〜という言葉はあっただろうか。あまり記憶にない。草食系の餌になるから、食物連鎖的というか、ちょっと生々しい印象を与えかねない。
疲れた体と精神で桜の木を眺めていると、感傷的な気持ちになることが往々にしてある。気持ちが楽になると書いたばかりだが、悲しい・寂しい気持ちも去来するのだ。なぜかというと、春先は仕事が繁忙期であることに加えて、ちょっとおかしな人間の相手をする機会も増えるからだ。クレーマーの電話が多くなるのは暖かい春先と、涼しげな秋口と相場が決まっている。暑さと寒さの厳しい時期はその手の人間は行動を抑制するらしい。冬眠する野生動物のようだが、人間への脅威という点では野生動物よりも厄介な存在である。
はっきり言ってしまえば春は憂鬱な季節であり、その象徴たる桜にも複雑な気持ちを抱かざるを得ないのだが、同時に、自分はあと何度桜の木を眺めることができるだろうかと考えることがある。
寿命という観点ではまだまだ先は長いという感覚だが、人生というものは一寸先も闇である。病気になることもあれば、何らかの事件・事故に巻き込まれる可能性もある。
春は新たな生活の始まりの季節であり、新たな命の始まりのイメージがあるが、同時に古いものが姿を消すというイメージも伴っている。変化の季節であり、生と死が入り乱れる季節なのである。それゆえ、ついつい自分のこの先の人生についても思いを巡らせることが多くなる。憂鬱な気持ちを感じさせると言っても、何も感じられなくなるよりは良いものなのだろうか。
以上のようなことを考えながら、先日も駅近くの街路樹を眺めながら帰路についていたが、妙に早く花が散っていることに気がついた。目を凝らすと、一羽の鳥が花をちぎっては投げちぎっては投げを繰り返していた。花の蜜を吸っているのだろうか。その行動原理は詳しくは知らないが、生きるために必要な行動を必死に行なっているということだけは伝わってきた。生命力に溢れる姿を見ると、感傷的な気持ちに外から活力を注入されたような気持ちになるというものである。
ちょっと前向きな気持ちになったが、そこであることに気がついた。これまで私が桜の木だと思っていたのは梅の木だったのだ。
桜の木に思いを巡らせている場合ではない。そもそもスタート地点に立っていなかったことに気づき愕然とすることになった。桜の花を愛でるにはまだまだ精神的な成熟が足りていない。人生はまだまだ先が長く、奥が深いと考えることにしよう。終わり




