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鬼とお兄ちゃん

第二話です。よろしくお願いします。

この物語はフィクションです。特定の団体・人物を指すものではありません。

まずは野菜を洗って皮を剥く。

それから鍋に水を入れて火をつけ、茹でる。

フライパンに油を挽き、豚肉を炒める。

茹だるまでの時間にキャベツときゅうりを水洗いして食べやすい大きさに切ってプチトマトを乗せる。これでサラダが完成した。

つぎに茹った鍋に肉とルーをいれてしばらく煮込めば、カレーの完成だ。香ばしい匂いが台所を通り越してリビングに充満する。上出来だ。

ワタルは時折こうしてカレーを作っていた。特段好物だと言うわけではないが、なんとなく心細い時はカレーを食べたくなるのだ。

炊いておいた米を皿に盛り付けてカレーをかける。きっちり5:5の比率になったそれをサラダと共にテーブルに置き、ワタルは一息ついた。

外は吐く息が白く染まるほどの寒さだ。空は雲に覆われていて、雪が降るかもしれない。それに対して暖房がつけられたこの空間は、外の寒さなど知らないというように暖かかった。

スプーンで掬ったカレーを口に入れ、咀嚼する。ルーと米の味に混ざるニンジンとジャガイモ、そして豚肉の食感が混ざって食べ応えのある味だ。ほどよく効いたスパイスが味にリズムを与え、飽きのこない味わいになっている。庶民派カレーの王道と言える味にワタルは満足して水を飲んだ。

カレーを食べ終えればシンクに皿を置き、水につけてそのままにしておく。冷蔵庫を開き、缶ビールとカマンベールチーズを取り出した。

リビングに戻ってテレビの入力を切り替え、加入したサブスクリプションのページを開くと、ドラマの月間ランキングが目に映る。舞台や設定が使い尽くされた今の時代でも、斬新な内容のものは沢山あり、それを見るたびにその発想力に感心する。

その中から適当に一つ選び、第一話を再生する。主演俳優は最近ヒットしたアイドルだ。顔面も演技力も、一線を画している。

『大人になんかなりたくない。』

ヒロインのセリフが再生される。今を謳歌する女子高生は、どの場面を切り取ってもその校舎に閉じ込められたままだ。同じ制服、同じ髪型。外と中に分かれた空間。彼女はそれでもそこに留まりたいと言っている。

自由だ。そう思った。好きなご飯を食べ、ソファに寝転がりながら酒を飲んでいる。子供には許されない大人の時間、と言えば聞こえはいいだろう。だが、それなら子供だけに許された時間というのはどこにあるのだろうか。

ワタルは早く大人になりたかった。

大人になって、自分を縛る自由から解放されたかった。施設に置かれている漫画の中のキャラクターはいつだって自由だ。帰る家があって、母親と父親がいて、自分だけの部屋があって。自分には初めから何一つなかった。暖かい家も、優しい両親もいない。誕生日に自分だけのケーキが出てきたことも、クリスマスの日に枕元にプレゼントが置かれたことだってなかった。

僕は愛されていない。少なくとも"僕の世界"では。いつしか、そう認識するようになった。

大人になれば、自由だと思っていた。それは半分正しくて、半分間違いだ。手に入れた自由を持て余して、自由なフリをして、結局自ら冷たい檻の中に入っている。あの光は、いつから見えなくなったのだろう。

机に顔を伏せる。

『お兄ちゃん…』

不意に呼んだその名に答える者はいなかった。




『おはようございまーす』

新宿区某オフィスビル、灰色で構成された建物の中で、ワタルは働いていた。申し訳程度に置かれたアロエの鉢植えが隅でちんまりと佇んでいる。

パソコンのタイピング音と、コピー機の音。自分が大人でいられていると思えるこの空間を、ワタルは存外気に入っていた。

『ああ、おはよう』

挨拶をしてきたのは直属の後輩の渡辺だ。お調子者だが、仕事に対する姿勢は真面目そのものだ。業績はそこそこ、だが確実にいなくてはならない存在として役割を持っている。

『最近寒いですねー。俺、昨日は彼女とくっついて寝てましたよ』

『お前はその小っ恥ずかしい話を堂々と話す癖をやめたほうがいいと思う』

『ええー?いいじゃないですか別に。幸せなことは誰かにお裾分けしないと!ワタルさん、彼女いないんだし』

『お前…』

先輩に対して容赦のない渡辺は、ワタルにも気を使うことなく平気でそういうことを言ってくる。その度に、なんだか心の底で湧き上がる思いがあるのだ。

別に恋人がいないことに不満があるわけではない。彼女がいない歴が年齢と同じなのも、全くではないが気にはしないほうだ。だが、幸せそうな話を聞くたびに、愛されない自分には他人事のような気がしてならないのだ。

『そういえば、今度の企業合同交流会、行きますか?たしか締め切り明日でしたよね』

そうだった。複数の企業が合同で行う交流会、通称企業合同交流会の存在をワタルは今思い出した。

交流会、といえど完全に気が抜けるわけではない。そもそもその目的は他社の人間と触れ合うことで自社の企業体制や仕事を見直すというものだ。当日は講習やセミナーで忙しくなるだろう。まだまだ若手のワタルは行かないわけにはいかない。そう思うとげんなりしてきた。

『ああ、行くよ。お前は?』

渡辺はさも残念そうな顔で言った。

『俺、その日彼女と旅行なんですよねー。流石にそっち優先しますわ』

その言葉にワタルは呆れていた。確かに交流会は強制参加ではない。だが、上司や重役も参加する以上、いないとなると体裁が悪くなるだろう。それだけの理由でワタルは参加を決めていた。それに比べて渡辺は自由である。それとも、逆にワタルのこういうところが自由になりきれていないという部分なのだろうか。

『まあ、好きにするといいよ』

流石に無理に参加しろ、とは言えないので当たり障りのない事を言っておく。渡辺はわかりました、と快活に返事をして自分のデスクに戻っていった。

渡辺はきっと、彼女と結婚するだろう。愛を誓い合って、新しい家族になって。それがワタルにはどうにも信じられない。家族なんて、結局ただの他人だ。どれだけ愛し合って、誓い合っても互いを縛る枷になる時が来る。そんなの、苦しいだけじゃないか。

そんな事を考えているうちに、ワタルは本当に1人になっていた。





『お兄ちゃん…?』

突然出てきたワードに困惑しながらワタルは言う。ケイゴ、と名乗った少年はなんの疑問もなく話を続けた。

『俺もお前も鈴木じゃん。それで同じ施設で暮らしてるって、それもうほとんど家族じゃん!それに、お前は今3年生だろ?俺5年生だから、俺の方がお兄ちゃんだ!もしかして、弟は嫌か?』

次々と飛び交う言葉にワタルは混乱した。全くもって理論が筋を通っていない。弟が嫌だとか、そういう問題でもない。ワタルは麦わら帽子を被り直すのも忘れて言う。

『何言ってるのかわからないし、そもそも血が繋がってないんだから兄弟にはなれないよ。一緒に暮らしてるから家族だっていうのなんて、おかしいと思う。』

ワタルとケイゴのいる児童養護施設の合言葉は、〈みんなが家族〉だ。そしてワタルはその言葉に多少の気持ち悪さを感じていた。家族。血の繋がりもない、顔も似ていない。ただ寝食を共にしているだけの他人をある日突然家族として扱うなんて無理な話だ。そのスタンスは入所して二年経つ今でも変わらない。ワタルにとっての家族なんて、誰1人いなかった。

『うーん、そうか。そうだよな。いきなり家族は難しいか』

ケイゴは一丁前に腕を組んで頷いている。なんだかよくわからないが、ワタルの言い分は伝わったようだ。見てみろ、簡単に家族になんてなれやしない。そう心の中で開き直ったワタルに、ケイゴは言い放った。

『そしたらいっぺん、試しに呼んでみろ!〈お兄ちゃん〉って!』

『…え?』

ワタルはポカンとした。どうやら先ほどの主張は全く伝わっていなかったらしい。呼べるようになれば解決する、という問題でもなかろうに。

『ほら、来い!お兄ちゃんはここだ!』

そう言ってケイゴは手を広げる。遠くからは相変わらず蝉の声が聞こえていた。夏の日差しがケイゴを照らす。その笑顔に、ワタルは少し、ほんの少しだけ自分を預けたくなった。理論はめちゃくちゃだが、なんだか寄りかかれる気がした。

恐る恐る、その目を見て。

『…お兄ちゃー、』

『あ、いた!嶋先生、ケイゴくんとワタルくん、いました!』

その時、ワタルの声は遮られた。複数の大人が駆け寄る足音がする。見つかった。そう思った。鬼はケイゴのはずなのに。

『もう、どこにいってたの!集合の合図かかってたでしょ?それに、ここは遠いから言っちゃいけないはずだよ。前にも言ったよね、言うこと聞かない子はダメだって!』

そうだった。ワタルはいつしか逃げるのに夢中で、遠くに行ってはいけないという言いつけを忘れていた。ルールを破ってしまった。その事実に冷や汗が走る。

嶋先生、と呼ばれた大人はケイゴに説教をしていた。お調子者で注意されることが多いケイゴが原因に違いない、と断定されたのだろう。

集合の合図。言う事を聞かない子。その一言で我に帰る。そうだ、ここはそう言う場所だ。いくら家族ごっこをしようとしたって、所詮僕らは大人の都合でひとまとめにされている子供なのだ。家族になんてなれるわけない。

叱られる。そう思った、その時だった。

『ごめんなさい、俺のせいです。』

ケイゴは謝罪した。ワタルは目を見開く。叱られても何かと言い訳をすることが多いケイゴが、すぐに頭を下げたのだ。

『…そうなの?なら、これからはやめてね。全く、いつもそれくらい素直ならいいのに』

そう言って先生はケイゴの頭を撫でる。なぜだかそれが少し不快で、ワタルは目を逸らした。

『ほら、もどるよー!』

大人たちの声が聞こえる。ワタルは大人に聞こえない声で言った。

『どうして、俺のせいだなんて』

するとケイゴは笑顔で答えた。

『俺はお前の兄ちゃんだからな。』

それ以外に、理由なんてなかった。

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