自由の檻
1話目です。
よろしくお願いします。
この話はフィクションであり、特定の団体・人物を指すものではありません。
愛とは劇薬である。
心とは空虚である。
触れることもできず、目に映すこともできない。ただ、この脆い体の中に内蔵された本能が、自分をそうさせているのだ。
生命の営みの中で人々は愛し、愛され、その生涯を終えていく。それは、螺旋状に広がる命の連鎖。そして、そのレールから外れた人間がいた。
ワタルはその細い目を開き、辺りを見渡す。新宿の駅ビルはその窓に光を反射させている。大通りの交差点を渡る人間はどこかいそいそとしており、誰もがそれぞれの目的地へと向かっているように見える。風が吹くと冷たい感覚が体を包み込んだ。冬の都会の空気は澄んでいて、先ほどまでの電車の熱気がこもった空気が嘘のようだ。額にかいた汗が冷えていく。
水曜日の今日は仕事がないので朝早く出かける必要はなかった。ただ、スーツを着て、カバンを持って、満員電車に乗り込んで、普通の人間の"ふり"をしたくなったのだ。定期的にそうすることで、名前のない牢獄から逃れられる気がしていた。だが、外見だけ普通のふりをしていても、自意識はそうさせてはくれない。いつもどこかに自分はこの世界から外れた存在だという認識がつきまとう。その思考は気づかないうちにワタルを取り込み、憂鬱の底に沈めていく。そして気づいたときには、そこから這い上がれなくなるのだ。
ここに100人の人間を集めて、100人全員がそうなるかと言えば、ならない人間の方が多いのだろう。それに気づいたのはずっと前だった。思考の癖とは厄介だ。どれだけ不条理な考えだと分かっていても、本人にとってはそれが普通なのだ。そしてその癖は簡単には治らない。ただ、蜘蛛の糸のように意識を絡め取って動けなくしてしまう。
ワタルが児童養護施設から独り立ちをしたのは、高校を卒業した時だった。家族を持たないワタルにとって家とも言えるそこは、秩序で成り立つ自由の形を模した牢獄だった。施設の大人は親切だったし、虐められていたわけでもない。だが、家族という最小限の社会的集団の代わりを担うには、その性質は歪に見える。決められた時間の食事、決められた時間の間食、決められた時間の娯楽。家庭にはない本能の秩序がここでは成り立つ。それがどうにも不気味で、窮屈だった。世界そのものが、檻のようだったのだ。
ピッポー、ピッポー。
信号機から鳴る音に耳を澄ませてみる。公共物に触れていると、自然と安心するのだ。たった一つ、自分に許された自由な社会との繋がりが、そこにある気がして。
向かい側のJR新宿駅にはスターバックスが入っている。ワタルは交差点を渡ると、自動ドアの前に立ち、ドアを開けた。
コーヒーの匂いが立ち込める室内にいる人間はまばらで、それぞれ髪型も服装も違うが、ただ一つ、その死んだような表情は皆同じように見えた。
席を取り、財布と携帯を持ってカウンターに向かう。ウインドウに飾られたケーキはみな自分の出番を今か今かと待っているように見えた。
『いらっしゃいませ!ご注文お伺いしますね』
店員の溌剌とした挨拶に、ワタルは正気の無い声で答える。
『コーヒーを一つ、ホットのショートで。』
『かしこまりました。』
待ち時間の間に周囲を観察する。茶髪を一つに括ったOL、商社のサラリーマン、徹夜をしたであろう大学生。様々な人間がいた。自分は側から見ればこれから仕事に出るしがない会社員に見えるだろう。しかし、それは"ふり"だけである。外面と内面の歪な差は、気づかれることはなくても確かに存在する。
『お待たせいたしました、コーヒーです』
どうも、と一言添えて熱々のコーヒーを受け取る。冷えた手にじんと熱が伝わる。砂糖は2個、フレッシュは一個。これがワタルのいつものスタイルだ。
席に戻り、まずは一口何も入れずに液体を舌に乗せる。深い苦味が味蕾を刺激する。ワタルは顔を顰めて砂糖とフラッシュを入れた。どうしてわざわざ始めからそうしないのかと言えば、特に理由はない。せめて言うならば好奇心だ。苦味が苦手だと分かっていても、ブラックコーヒーを飲める大人びた自分を期待してしまう。そういう癖があった。
机上に置いたスマートフォンが震える。画面を見ると、そこには一通のメールが表示されていた。
"児童養護施設同窓会のお知らせ"の文字列が並んでいる。その忌々しい響きにまた心が底に引きずられる。それを振り払うように、メールの通知を消去した。
結局、やることがなくて家に帰ってきてしまった。今日の人間ごっこはここまでだ。
『君はみんなとは違うね』
忌々しい記憶が蘇ってくる。その言葉の真意はわからない。わかりたくもない。もはや、わからないふりをしている。
悪意のない傷というものは厄介だ。つけられた側はいつまでも覚えているのに、つけた側は覚えていない。時間が経ってから追求しても、こちらが被害者ヅラをしているように見えてしまう。
ベッドに潜り、テレビをつける。
『それではみなさん、今日も行ってらっしゃい。』
報道番組のアナウンサーが締めの言葉を言い、番組は終わった。たった今帰ってきたワタルにとっては大きなお世話だ。報道番組が終わると、次は料理番組が始まる。歳をとった女性が、この野菜は今が旬なんですよ、と得意げに話している様をぼーっと見ていると、眠気が込み上げてくる。それに逆らうこともなく、ワタルは目を閉じた。
木漏れ日が草を照らし、ぬるい風が吹く。見上げると、そこには空いっぱいに緑が広がっていた。蝉の鳴き声が響き、陽炎が立つ。流れる汗を拭いながら、道を外れないように走る。
『おい、こっちに行こうぜ!冒険だ!』
誰かの声が響いていた。
とある夏の日。施設の夏休み企画で山に来ていた子どもたちは、その有り余る体力を持って遊び尽くしていた。虫取りや川泳ぎ、鬼ごっこにかくれんぼ。遊び方は無限にある。麦わら帽子を被った1人の少年は、鬼に見つからないように木の影に隠れた。
ぜえ、ぜえ。はあ、はあ。
息が上がり、苦しくなる。座り込んでもまだ胸が上下する。水色のTシャツは汗を吸い込んでその色を濃くしていた。無理やり息を殺して、鬼が去るのを待つ。
『おい!どこだー!』
鬼の声が蝉の声に混じって聞こえる。足音が高くなり、ワタルは身を縮めて木の影からはみ出さないようにする。がさがさと、葉を踏む音が聞こえていた。
『見つけた!!』
座り込んだワタルの頭上から声が降る。見上げれば、そこでは鬼になった少年がこちらを見て笑っていた。その笑顔を見て、ワタルは顔を顰める。
かくれんぼとは、唯一1人になれる時間ができる遊びだ。決められた時間内に許された自由。その時ばかりは、自分を縛る何もかもから解放される気がした。そして今、見つかってしまった自分は再び秩序の中に戻されようとしている。
『…どうしたんだ?みんなのところに戻ろうぜ』
動こうとしないワタルにそう言って少年は遠慮なく手を取って引っ張る。
『…戻りたくない』
気づけば口に出ていた。戻ればまた家族の真似事をしなければいけなくなる。決められた時間にご飯を食べ、決められた時間に寝て、決められた時間に起きる。家族とも友人とも違う、歪な集団。他人が苦手なワタルは、施設での生活にそんな歪んだ認識を持っていた。
引かれた手を振り払うこともできずに、立ち上がることも出来ずにいる。木々が作り出す影が、ワタルと少年の間に境界線を引いていた。
『…そうか。』
少年はそう言うと、突然ワタルの隣に座った。予想外の行動に少年の方を見ると、その顔はひどく寂しそうに見えた。先ほどまでの快活な声がそこから出ているとは思えなかった。
『君は、』
ワタルは聞く。
『無理に引き戻さないの?』
ワタルにとっての世界では秩序の維持が絶対だ。道を外れれば連れ戻され、叱られる。その日の気分で行動することも許されない。好きな公園で遊びまわることも出来ない。好きなお菓子をたくさん食べることだって、虫歯になるからと許されない。ただ、決められた自由の範囲内で生きることを余儀なくさせられる。子供とは、大人の決めた自由の中でいかに生きていくかを考えていく生き物だ。そういううがった認識がワタルの中にあった。
風が吹き、麦わら帽子が地面に落ちる。帽子のつばで隠れていた顔は、その自信のなさげな風貌を明らかにした。少年はその顔を見て笑う。
『なんだよ、その顔。見つかったからって落ち込んでんのか?』
少年はワタルの質問には答えなかった。ワタルの白い肌とは違う、日に焼けたそれは幾分子供らしさと健康的な雰囲気を醸し出している。
『…ううん』
ワタルが首を横に振ると、少年はズボンのポケットをがさごそと漁り、銀紙に包まれた小さな四角い物体を出す。
『手、出して』
言われるままに手のひらを差し出すと、少年は四角い物体をぽんとその上に置いた。
『これは…?』
ワタルが聞くと、少年は声をひそめて言った。
『キャラメルだよ、キャラメル。今日のおやつのやつ、取っておいたんだ。お前にあげる』
その言葉にワタルは慌てて頭を横に振った。
『ダメだよ。おやつはその時に全部食べないといけないじゃないか。見つかったら怒られるよ』
ワタルは一度お菓子を残して怒られたことがある。その時の大人は自分より大きくて、恐ろしかった。
少年はあっけらかんと言い放つ。
『なんで?別にいいじゃん。おやつをいつ食べるかくらい俺たちが決めても。』
『でも、ルールがあるから』
『ルールって、別に人に迷惑さえかけなきゃ破ったっていいんだよ』
『ええ…?』
その理論は、怒られないように安全に過ごしたいワタルにとってあまりに極端だ。
『俺思うんだ。ルールって、別に俺らを縛り付けるためにあるんじゃない。ただ、安心して過ごすためにあるんだって。だけど、いちいち全部気にしてても疲れるだろ?たまにはこうやってルールを破ったっていいんだよ。寝坊しても、お菓子をいっぱい食べても、みんなとは違う遊びをしてても、誰にも迷惑はかからないんじゃないか?』
ワタルはその言葉に暫し固まった。少年はいつも騒がしくて、大人に注意されることも多い。それでも無邪気に遊んでいるから、何も考えていないのかと思っていた。でもそれは違う。少年は、自由に縛られていない。自分で自由を選んでいる。
『君は、すごいね』
その言葉に少年は笑って手を振る。
『逆にお前は、疲れないの?』
『え?』
『毎日怒られないようにビクビクしながら過ごして、気に入られるように振る舞って。そんなの絶対疲れるだろ』
少年の言う通りだった。学校でも施設でも、ワタルは周りの顔色ばかり窺って、自分のしたいことなどわからなくなっていた。でも、
『でも、そうしないと僕は生きていけないから』
この世界において弱い者は淘汰される。そうならないように、弱ければ弱いなりに生き方を考えなければいけない。
『じゃあ、今日でそれはおわりだな!』
少年は言う。終わり?この日々に終わりなんてあるのか?いつまでも抜け出せない、このるつぼのように続く日々をそう簡単に終わらせられる方法が、どこにあるというのだろうか。
『お前、名前なんていうの?』
少年は問う。
『…鈴木、ワタル』
小さな声で答えるワタルに、少年は驚いたように目を見開いた。
『え?!お前も鈴木なのか?!俺、鈴木ケイゴって言うんだ!それじゃあ、』
そうして少年は告げた。
『今日から俺はお前の兄ちゃんだな!』




