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16話 生存という名の呪い


 地下水路の淀んだ空気は、吐瀉物と泥、そして絶望の臭いで満ちていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 アザゼルは泥水の中にうずくまったまま、自分の右足を凝視していた。


 震えが止まらない。

 泥だらけのブーツ。この足が、マリィの小さな背中を蹴った。

 その感触が、皮膚の下に寄生虫のようにこびりついて離れない。柔らかくて、温かくて、脆い感触。


(あぁ......あぁ......)


 拭いたい。削ぎ落としたい。

 アザゼルは爪を立てて、自分の太ももを何度も掻きむしった。

 ブーツの上からでは飽き足らず、生地を爪で引き裂き、皮膚が破れて血が滲むまで掻き続ける。


「......やめろ」


 頭上から降ってきたのは、ザントの無機質な声だった。


「ここで自傷しても、あいつは戻らねえ。移動するぞ。センサーに感知される」


 アザゼルは虚ろな目でザントを見上げた。

 隣では、リドが死人のような顔で立ち上がろうとしていた。

 彼とは目が合わなかった。いや、リドが意図的にアザゼルを視界に入れないようにしていた。


 まるで、そこに汚物があるかのように。


 三人は無言のまま、暗い地下水路を進んだ。

 行きと同じ道なのに、帰りの道は、永遠に続く地獄の回廊のように感じられた。

 アザゼルは足を引きずるように歩いた。右足が鉛のように重い。

 一歩踏み出すたびに、マリィの断末魔が耳元で再生される。


 『なんで!? 待ってよ!!』『痛い痛い痛い!!!!!』


「うっ......ぅ......」


 嗚咽を噛み殺しながら、アザゼルは泥の中を這うように歩き続けた。


 ***


 夜明け前。

 ギルレッド時計店の裏口に、ボロボロの三人が辿り着いた。


 ザントが鍵を開け、重い扉を開く。

 チクタク、チクタク......。

 店内には、変わらず無数の時計たちが時を刻む音が満ちていた。

 その平和で規則正しい音が、アザゼルの神経をヤスリのように削った。


「......戻ったか」


 奥の作業机から、ギルレッドが顔を上げた。

 彼は三人の姿を一瞥し、そして「誰がいないか」を瞬時に悟った。

 だが、何も聞かなかった。ただ黙って、作業用の椅子を三脚並べた。


 リドは椅子に倒れ込み、頭を抱えた。

 アザゼルは座ることさえできず、部屋の隅の床に体育座りで縮こまった。

 今の自分には、椅子に座る資格さえないと思えたからだ。


 窒息しそうな沈黙。

 それに耐えかねたザントが、淡々と事実を口にした。


「......リド、聞いておけ」


 ザントは、壁に向かって呟いた。


「アブのあの行動......マリィを蹴った瞬間の動きだが。あれは本人の意思じゃねえ」


 リドの肩がピクリと跳ねた。


「俺のセンサーログが記録している。あの瞬間、アブの脳波と身体信号が完全に遮断されていた、......脳内に埋め込まれた『防衛プログラム』か、外部からの強制介入だ、アブは、マリィを見捨てるように『機能させられた』んだ」


 それは、アザゼルを擁護するための論理的な説明だった。

 だが、リドの反応は、ザントの予想を超えていた。


 ガタッ!


 リドが椅子を蹴り倒して立ち上がった。

 彼はアザゼルに歩み寄り――その胸ぐらを乱暴に掴み上げた。


「だから、何だっていうんだ!!」


 至近距離で浴びせられた怒号。

 リドの瞳は充血し、涙でぐしゃぐしゃだった。


「操られてた? 仕方なかった? そんな理屈で、あいつが生き返るのかよ!?」


「......っ」


 アザゼルは抵抗しなかった。されるがままに揺さぶられる。


「結果を見ろよ! お前の足があいつを蹴ったんだ! お前があいつを殺したんだよ! 俺の......俺のたった一つの家族を!!」


 リドの手がアザゼルの首を締め上げる。

 苦しい。だが、その苦痛すら、今は救いのように感じられた。

 殺してくれ。いっそこのまま、殺してくれれば楽になれる。


 だが、リドは殺せなかった。

 彼はアザゼルを床に突き飛ばすと、汚いものを見るような目で彼女を見下ろした。


「......お前は、人間じゃねえ、やっぱりバケモノだ」


 その言葉は、どんな刃物よりも深くアザゼルの心臓を抉った。


「俺に近づくな、......二度と、その面を見せるな」


 リドは背を向け、ふらつく足取りで店の出口へと向かった。

 その背中は、あまりにも小さく、絶望に押し潰されていた。


 バタン。


 扉が閉まり、リドの気配が消えた。

 残されたアザゼルは、床に這いつくばったまま、過呼吸のように息を荒げた。


「はぁ......はぁ......ッ、うぅ......」


 誰も私を許さない。

 私も、私を許さない。

 いっそ死にたい。今すぐ舌を噛み切って死んでしまいたい。


 アザゼルは震える手で、近くにあった作業用のナイフを掴んだ。

 その切っ先を、自分の喉元に向ける。

 これで終わる。この罪悪感から解放される。


 ――だが。


『警告。個体ノ損壊ヲ検知』


 まただ。

 脳内でノイズが走る。

 右手がピクリとも動かない。喉にナイフを突き立てようとする意志を、身体が拒絶する。


『自殺ハ許可サレナイ、生存セヨ』


「ぁ......あぁ......ッ!」


 アザゼルは絶叫し、ナイフを取り落とした。

 死ぬことさえ許されない。

 ソロモンの呪いは、彼女に「苦しみながら生き続けること」を強制していた。


「なんで......なんでよぉッ!!」


 アザゼルは床を殴りつけた。

 死ねないなら、どうすればいい。

 リドには拒絶され、マリィを殺した罪を背負い、このままのうのうと生きろと言うのか。


 ふと、床に落ちたナイフの刃に、自分の顔が映った。

 白金の髪、整った顔立ち。

 かつて天界で「美しい」と讃えられた、天使の容貌。


(......醜い)


 吐き気がした。

 中身は薄汚い人殺しなのに、外見だけが清らかなままでいる自分が、どうしようもなく許せなかった。


 アザゼルは再びナイフを掴んだ。

 喉元ではない。

 彼女は、自分の長い白金の髪を、無造作に鷲掴みにした。


 ジャリッ。


 鈍い音を立てて、刃が髪を断ち切る。

 綺麗に切り揃えるのではない。衝動に任せて、引きちぎるように、乱雑に切り落としていく。


「おい、アブ......」


 ザントが止めようとするが、アザゼルは止まらなかった。


 ザクリ、ザクリ。


 美しい髪が床に散乱し、頭は無惨なざんばら髪になった。

 それは決意の証などではない。

 ただの自傷行為。自分の中にある「天使の美しさ」を破壊したいという、醜い自己嫌悪の発露だった。


「はぁ......はぁ......」


 アザゼルは肩で息をした。

 鏡に映る自分は、もはや高貴な天使ではなかった。

 髪はガタガタで、目は落ち窪み、泥と涙で汚れた、ただの狂人。


 だが、不思議と心は静かだった。

 底まで落ちたからだろうか。

 これ以上、失うものも、守るべき尊厳もない。


「......死ねないなら」


 アザゼルは掠れた声で呟いた。

 床に落ちた髪の残骸を見つめる。


「死ねないなら、殺すしかない」


 それは希望の言葉ではなかった。

 他に選択肢がないから選ぶだけの、消去法の結論。


「この呪いを解くには、命令のソロモンを殺すしかない。......そうだろう?」


 アザゼルはザントの方を向いた。

 その瞳は、以前のような意志の光ではなく、深淵のような暗い闇を湛えていた。

 生きるためでも、正義のためでもない。

 ただ、自分が自分で死ぬ権利を取り戻すためだけの、虚無的な殺意。


 ザントは、そんなアザゼルを見て、微かに口角を上げた。


「......ああ、お前はもう、ヒーローにはなれねえ」


 ザントは、床に落ちたナイフを拾い上げ、アザゼルに渡した。


「だが、復讐者モンスターにはなれる。......エラーだらけの壊れた計算式だが、今の俺たちにはお似合いだ」


 アザゼルは無言でナイフを受け取った。

 手にはマリィを蹴った感触が残り、耳にはリドの拒絶の言葉が残っている。

 そのすべてを燃料にして、彼女は地獄の淵で立ち上がった。


 綺麗な天使は死んだ。

 ここにいるのは、泥と罪にまみれた、一人の復讐者だけだった。

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