15話 ソロモンの楔
キィィィィィィィ......。
ビターがゆっくりとバイオリンの弓を引いた。
奏でられたのは、この世のものとは思えないほど美しく、そして冷酷な旋律だった。
その音色は、空気そのものを刃に変えた。
目に見えない「飛剣」が、アザゼルたちの周囲を取り囲むように展開される。逃げ場など、どこにもない。
「な、なんだこのプレッシャーは......!」
リドがナイフを構えるが、手が震えて止まらない。
だが、彼は震える足で一歩前へ出た。
アザゼルとザントの前にではない。
彼が背中で庇ったのは、台車の下で怯える小さな少女――マリィだった。
「手出しはさせねぇ......! テメェが総隊長だろうが関係ねぇ!」
リドが吠える。それは威嚇ではなく、恐怖を振り払うための悲痛な叫びだった。
ビターは指揮棒を軽く振った。
「怯えていますね。......恐怖、それは最も原始的で、最も扱いやすい感情です」
彼女の冷徹な瞳が、リドの背後にいるマリィを射抜いた。
「特に、穢れなき幼子の恐怖は、最高の楽器になる」
ビターが、不協和音を一音だけ、強く弾いた。
ジャァァン!!
「ひっ......!!」
マリィが悲鳴を上げた。
その瞬間、マリィの瞳から光が消えた。
まるで電源を落とされた人形のように、彼女の表情から感情が抜け落ち、虚ろな闇だけが残る。
「マリィ......?」
リドが振り返り、肩を揺さぶる。
だが、マリィは反応しない。彼女の心は、ビターの奏でる恐怖の音色によって塗り潰され、支配されていた。
「起きなさい、小さな兵隊さん。その汚らわしい異邦人たちを殺してきなさい」
ビターの命令に、マリィがゆらりと立ち上がった。
その小さな手には、床に落ちていた鋭利なガラス片が握られている。
「......はい」
抑揚のない声。
マリィは、一番近くにいたリドへと向き直った。
「マリィ、俺だ! リドだぞ!」
リドは武器を下ろし、必死に呼びかけた。
「忘れたのか!? 3年前、ゴミ捨て場で泣いてたお前を拾ったのは俺だ! 『もうお腹空かなくていいんだ』って、俺の指を握ったのはお前だろうが!」
走馬灯のように、リドの脳裏に過去が蘇る。
雨の降る裏都市の廃棄場。腐臭と汚物の中に捨てられていた赤ん坊。
周りの大人は「どうせ死ぬ」「間引きされたんだ」と通り過ぎた。
だが、リドだけは立ち止まった。泥だらけのその子が、絶望的な世界で唯一、自分にだけ無垢な笑顔を向けたからだ。
――俺は、この笑顔を守るために生きていく。
そう誓った。この汚れた世界で、彼女だけがリドにとっての「聖域」だった。
「マリィ! 思い出せ!!」
リドの叫びも虚しく、洗脳されたマリィはガラス片を振り下ろした。
ザシュッ!
リドの肩が切り裂かれ、血が噴き出す。
だが、リドは避けなかった。避ければ、彼女が転んで怪我をするかもしれないと思ったからだ。
「殺ス......殺ス......」
「くっ......! マリィ、やめろ......!」
リドは血を流しながら、それでもマリィを抱き止めようとする。
ビターは、その光景をつまらなそうに見下ろしていた。
「なんと無様な。......動きに精彩がないですね。調律が甘かったか」
ビターはため息をつくと、指揮棒を振った。
空中に浮かぶ見えない飛剣が、マリィの太ももを浅く切り裂いた。
「うっ......」
マリィが痛みに顔を歪め、体勢を崩す。
「使えない駒ですね。......これでは演奏の邪魔だ」
ビターの瞳から、興味が消えた。
彼女は指揮棒を高く掲げた。アザゼルの周囲に展開されていた無数の飛剣が、一斉にマリィへと照準を合わせる。
「処分しましょう」
死刑宣告。
リドの顔色が絶望に染まる。
「やめろォォォッ!!」
リドが飛び出そうとするが、足の傷とビターの重圧で動けない。
その時、横から影が走った。
アザゼルだ。
アザゼルが、猛烈な勢いでマリィの元へ走っている。
「アブ! 頼む! マリィを......あいつを助けてくれ!!」
リドは叫んだ。
アザゼルなら。あの不思議な力を持つ彼女なら、マリィを救い出してくれる。
そう信じた。
アザゼルもまた、心の中で叫んでいた。
(助ける! 絶対に守る! リドの大切な家族を、こんなところで死なせてたまるか!)
アザゼルが手を伸ばす。あと数センチで、マリィに届く。
――その瞬間だった。
ザザッ......ザザザザッ!!
脳内で、強烈なノイズが走った。
『警告。生存確率低下』
アザゼルの視界が赤く染まる。
脳裏に響くのは、絶対的な支配者――ソロモンの声。
『感情ニヨル判断ヲ棄却セヨ。現状ハ全滅ノ危機ナリ』
『損切リヲ実行セヨ。アザゼル』
「あ......がぁ......ッ!?」
アザゼルの動きが、不自然に硬直した。
伸ばした指先が震える。
――個体名マリィノ生存価値ハ皆無。
――優先スベキハ、戦力トナル個体ノ回収ト、自己ノ生存。
(違う! 嫌だ! 私はリドに約束したんだ! 助けるって!)
『拒否ハ許サナイ。コレハ命令ダ』
ブツン。
アザゼルの意識の中で、何かが焼き切れる音がした。
リドの目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
アザゼルは、マリィを抱き上げる体勢から、流れるような動作で身体を捻り――
ドンッ!
無表情で、マリィの小さな背中を、ビターの方へと強く蹴り飛ばしたのだ。
「え......?」
リドの時が止まった。
洗脳が解けかかり、正気を取り戻したマリィが目を見開く。
彼女はアザゼルに蹴り飛ばされ、ビターの足元へと転がった。
「アブ、お姉ちゃん......?」
マリィは信じられないものを見る目で、アザゼルを見上げた。
アザゼルは、振り返りもしなかった。
彼女は機械のような正確さで反転すると、呆然としているリドとザントの襟首を掴んだ。
『障害物ノ設置完了。撤退スル』
アザゼルの口から漏れたのは、彼女の声であって、彼女の言葉ではなかった。
「は......? おい、アブ......テメェ、何をした......!?」
リドが抵抗する間もなく、アザゼルは人間離れした脚力で床を蹴った。
マリィを敵の目の前に置き去りにし、自分たちだけが助かるための全力の逃走。
遠ざかる視界の中、リドは見た。
ビターの足元で、涙を流して手を伸ばすマリィの姿を。
「リド! 助けて! リドぉぉぉ!!」
それは、アザゼルではなく、自分を拾ってくれた一番大切な人への助けを求める叫び。
「マリィィィィィッ!!!」
リドが腕を伸ばす。
だが、アザゼルの拘束は万力のように固く、離れない。
ビターは、つまらなそうに指揮棒を振り上げた。
無数の飛剣が、マリィに向かって殺到する。
「嫌だ! 痛い! 痛いよぉぉぉ!!」
ズドォォォォォン!!
背後で、凄まじい衝撃音が響いた。
そして、愛しい少女の叫び声は、湿った肉が潰れる音と共に、フツリと途絶えた。
「あ......あ......ぁ......」
リドの喉から、言葉にならない音が漏れた。
視界の端で、赤い飛沫が舞うのが見えた。
守りたかった笑顔。
泥だらけの裏都市で、唯一輝いていた光。
それが今、ゴミのように潰された。
自分たちが生き残るための「捨て駒」として。
***
王城の地下水路。
追っ手を振り切り、安全圏まで逃げ延びたアザゼルは、リドとザントを乱暴に放り出した。
その瞬間、リドはアザゼルに殴りかかった。
「テメェェェェッ!!!」
ドゴッ!
アザゼルの頬を、リドの拳が打ち抜く。
アザゼルは無抵抗のまま、泥水の中に倒れ込んだ。
「ふざけんな! ふざけんなよ!! なんでだ! なんでマリィを蹴った! あそこなら助けられただろ!!」
リドはアザゼルの胸ぐらを掴み、泣き叫んだ。
「俺はあいつを......あいつだけは守りたかったんだ! なのになんで、お前が殺すんだよ!!」
アザゼルの瞳から、ソロモンの光が消えていた。
彼女は殴られた頬の痛みよりも、もっと深い激痛に顔を歪めていた。
「オェッ......ガハッ......!!」
アザゼルはリドに掴まれたまま、胃の中身をすべて吐き出した。
酸っぱい胃液と涙が混ざり合う。
「違う......違うんだ......! 身体が、勝手に......!」
「言い訳すんじゃねぇ!!」
リドが再び拳を振り上げる。
だが、その拳は振り下ろされなかった。
アザゼルの慟哭が、あまりにも悲痛だったからだ。
「私が......私が殺した......! 助けたかったのに......あの子の手を掴みたかったのに......!!」
アザゼルは泥水に顔を打ち付け、獣のように泣き叫んだ。
自分の足に残る、マリィの背中の感触。
一生消えない、裏切りの感触。
ザントは静かにリドの肩に手を置いた。
「......やめとけ、リド。こいつの今の動き......普通の神経じゃなかった。何かに操られてたみたいだ」
「うるせぇ! 知ったことか!」
リドはザントの手を振り払い、壁に向かって拳を叩きつけた。
血が滲むのも構わず、何度も、何度も。
「くそっ......くそぉぉぉッ!!!」
地下水路の闇に、男の絶望と、女の慟哭だけが響き渡る。
彼らは生き延びた。
だが、その代償として、チームの心は粉々に砕け散ってしまった。




