14話 勝利の味は後味が苦い
地下室に充満する紫色の毒ガスが、視界を奪い、肺を焼く。
「ケホッ......! アブ、下がれ! こいつの回転ノコギリは、装甲ごと肉をミンチにするぞ!」
ザントが叫びながら、左腕のシールドを展開してシグラの突撃を受け止める。
だが、シグラの膂力は異常だった。
ガガガガガッ!
火花が散り、ザントの金属の足が床を削りながら後退する。
「素晴らしい! その軋む音、苦悶のベースラインだ!」
シグラは狂ったように笑い、ハーディ・ガーディのハンドルを更に加速させる。
ノコギリの回転数が上がり、ザントのシールドが飴細工のように裂け始めた。
「クソッ、出力負けかよ......! 改造しすぎだろ、この変態が!」
リドが横から回り込み、シグラの脚を狙って鉄パイプを振るう。
だが、シグラはノールックで裏拳を放ち、リドを壁まで吹き飛ばした。
「邪魔だね、観客は静かに!」
速い。そして重い。
権力を持たないただの人間が、技術と狂気だけでここまで強くなるのか。
アザゼルは台車の陰で、震えるマリィを庇いながら歯噛みした。
右小指の光弾など、あの鋼鉄の塊のような肉体には豆鉄砲にもならない。
(どうする......? ここは『歪んだ騎士』の秘密を暴くための場所じゃなかったのか? 死んだら元も子もないぞ!)
そもそも、彼らがこの城に来た目的は、追っ手の目から逃れるための「安全地帯」の確保と、王国の闇の調査だったはずだ。
それが、まさか敵の幹部と正面衝突する羽目になるとは。
その時、押し込まれているザントが叫んだ。
「アブ! こいつの身体は『無理矢理』だ!」
「なに......?」
「薬物で筋肉を肥大化させ、ボルトで骨を繋いでる! 本来なら崩壊する寸前のバランスを、痛み止めで誤魔化して維持してるだけだ!」
ザントの言葉が、アザゼルの脳内で閃光のように弾けた。
崩壊寸前のバランス。
無理やり繋ぎ止められた肉体。
それはつまり――肉体にとっては「異常状態」と同じではないか?
ギルレッドの言葉が蘇る。
――『命を育み、傷を癒やす、失われた豊穣の力』
アザゼルは自分の右小指を見た。
この力が「あるべき姿に戻す」ものだとしたら。
異常に改造された肉体を、「正常な人間」に戻すこともできるのではないか?
(......賭けるしかない!)
アザゼルは覚悟を決めて走り出した。
「ザント! 一瞬でいい、隙を作れ!」
「無茶言うな! ......チッ、死んでも知らねぇぞ!」
ザントはシグラのノコギリを弾くと、あえて懐へ飛び込んだ。
自身の腹部の装甲をパージし、内部のエネルギー炉を暴走させて閃光を放つ。
「目潰しだ!!」
強烈な光が地下室を白く染める。
「グッ......! 照明の演出かい? 悪くはないが――」
シグラが一瞬動きを止めた、その刹那。
アザゼルは毒ガスの霧を突き破り、シグラの背後へと肉薄した。
狙うは、改造手術の痕跡が最も生々しい、脊椎の結合部。
「戻れ!!」
アザゼルは叫び、光り輝く右小指をシグラの背中に突き立てた。
ドクンッ!!
破壊の衝撃ではない。
圧倒的な「生命力」の奔流が、シグラの体内に流れ込む。
「な、んだ......? 熱い、いや、温かい......?」
シグラの動きが止まる。
次の瞬間、彼の身体に異変が起きた。
ボコボコと音を立てて膨れ上がっていた筋肉が、急速に萎縮していく。
埋め込まれていたボルトや金属部品が、再生した皮膚によって体外へと押し出される。
薬物によって麻痺していた神経が、正常な機能を回復する。
それはつまり――
「ぎ、あああああああッ!!??」
シグラが絶叫した。
今まで遮断していた「肉体を改造した激痛」が、一気に脳へと雪崩れ込んだのだ。
「痛い! 痛い痛い痛い!! なんだこれは、音が、音が崩れる!!」
肥大化した筋肉は削げ落ち、ただの痩せ細った男の姿へと戻っていく。
もはや重厚なハーディ・ガーディを支える筋力すらない。
ガシャーン! と楽器が床に落ち、回転ノコギリが止まる。
「私の......最強の肉体が......芸術が......!」
シグラは床に這いつくばり、自分の細くなった腕を見て愕然とした。
アザゼルの「癒やし」は、彼にとって「最強の武装解除」となったのだ。
「終わりだ、マッドサイエンティスト」
ザントが冷酷に見下ろす。
そして、機械の拳をフルスイングでシグラの顔面に叩き込んだ。
ドゴォッ!!
シグラは吹き飛び、壁に激突して動かなくなった。
静寂が戻る。
「はぁ......はぁ......」
アザゼルは膝をついた。小指の熱が引き、どっと疲労が押し寄せる。
だが、勝った。
聖騎士団の隊長格を、自分たちの力で倒したのだ。
「やった......! アブお姉ちゃん!」
台車から顔を出したマリィが、涙目で笑った。
リドも壁際で親指を立てる。
「へっ、ざまぁねぇな。......おいアブ、お前のその小指、使いようによっちゃ凶悪だぜ」
ザントがニヤリと笑った、その時だった。
ウウウウウウウウウ!!
地下区画全体に、けたたましい警報音が鳴り響いた。
赤い回転灯が激しく明滅する。
「ちっ、シグラの野郎が大暴れしたせいで、センサーが反応しやがった!」
リドが叫ぶ。
本来なら「隠れる」ために来たはずが、これでは完全に位置を知らせたようなものだ。
「マズいぞ。通常の警備兵ならともかく、本職の騎士団が来る!」
ザントが焦った様子で端末を見る。
画面上の赤い点が、凄まじい勢いでこの区画に集まってきていた。
「逃げるぞ! 目的変更だ、まずは脱出する!」
アザゼルはマリィを抱き上げ、リド、ザントと共に部屋を飛び出した。
入り組んだ地下通路を全力で駆ける。
だが、どの曲がり角を曲がっても、遠くから金属の足音と怒号が聞こえてくる。
「こっちは封鎖されてる!」
「あっちからも足音がするぞ!」
完全包囲されていた。
逃げ場を失い、袋小路のような広いホールに追い込まれた時、アザゼルたちは足を止めた。
前方の巨大な扉の前に、数人の聖騎士たちが整列していた。
そして、その中央に――
一人の女性が立っていた。
流れるような黒髪を揺らし、深紅の軍服を完璧に着こなしている。
その手には、美しい装飾が施されたバイオリンと、鋭利な指揮棒が握られていた。
彼女はただ立っているだけだった。
武器を構えてすらいない。
だというのに、アザゼルの本能が、全身の毛穴という毛穴から警報を鳴らしていた。
シグラとは次元が違う。「死」そのものが服を着て立っているような感覚。
彼女の周囲にいる聖騎士たちでさえ、彼女に畏怖し、直立不動で震えている。
「......なんだ、あの女は?」
アザゼルは震える声で問うた。
見たことのない顔だ。だが、この圧倒的なプレッシャーは異常だ。
隣にいたザントを見ると、彼はガタガタと音を立てて震えていた。
シグラの前では決して見せなかった、心底からの怯え。
「......ウソ、だろ......」
ザントの声が引きつる。
「なんで......なんで、アンタがこんな掃き溜めに......」
「おい、ザント。誰なんだ」
アザゼルが揺さぶると、ザントは絶望に染まった機械の瞳を向けた。
「......終わりだ。あれは、聖騎士団総隊長......第1番隊の『ビター』だ」
「総隊長......!?」
アザゼルが息を呑む。
それが、この国の武力の頂点。
ビターは、ゴミを見るような目でアザゼルたちを一瞥した。
その瞳には、怒りも憎しみもない。
ただ、道端の石ころを見るような、圧倒的な無関心と冷徹さだけがあった。
「......騒がしいですね」
ビターが静かに指揮棒を一振りした。
ヒュンッ。
風切り音すら聞こえなかった。
ただ、アザゼルの頬が裂け、鮮血が飛んだ。
「え......?」
アザゼルは痛みを認識するより先に、呆然と頬に手をやった。
見えなかった。
何も見えなかった。
「シグラごときの手遊びに勝って、随分と楽しそうですが......」
ビターは優雅にバイオリンを顎に当て、指揮棒を構える。
その姿は、戦場に立つ戦士ではなく、コンサートホールに立つ演奏家そのものだった。
「演奏会は終わりです。下賤な不協和音は、私が調律しましょう」
アザゼルは悟った。
さっきまでの勝利など、幻だったのだと。
天国から地獄へ。
本当の絶望は、美しい音色と共にやってきた。




