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10話 天国と地獄は紙一重

 下水路の暗闇を走り続けていたアザゼルの足が、不意に乱れた。

 背中に負ったマリィの重さが、急激に増したように感じられたからだ。いや、重さだけではない。

「......熱い」

 背中に触れているマリィの体温が、異常なほど上昇していた。

 耳元で聞こえる少女の呼吸は、壊れたふいごのように浅く、速く、ヒューヒューと苦しげな音を立てている。

「おい、どうしたアブ!」

 異変に気づいたリドが駆け寄る。

 アザゼルが足を止め、背中のマリィを確認すると、彼女の顔は熟した果実のように赤く火照り、大量の汗が髪を濡らしていた。目は虚ろで、焦点が合っていない。

「う、うぅ......怖い......こわいよぉ......」

 うわ言のように繰り返される恐怖の言葉。

 直前の戦闘、目の前で振り下ろされた剣、そして爆発。幼い心が受け止めるには、あまりにも過酷すぎる現実が、彼女の身体を内側から蝕んでいた。

「過呼吸と、極度の恐怖による急性ショック症状だ。熱暴走オーバーヒート寸前だな」

 最後尾を走っていたザントが追いつき、冷徹に診断を下した。

 だが、その機械の瞳がマリィの苦しむ姿を捉えた瞬間、眉間の装甲が微かに歪んだ。

「このまま走り続ければ、心臓が持たねえ。すぐに身体を冷やして、精神安定剤を打つ必要がある」

「そんなもん、どこにあるってんだ! ここは下水路だぞ!」

 リドが叫ぶ。

 ザントは舌打ちをし、苛ただしげに頭をかいた。彼の中にある「計算」と「感情」が激しく火花を散らす。

 彼には、心当たりが一つだけあった。

 王都内で、完璧な医療設備と技術を持ち、かつ聖騎士団の目が届かない場所。

 だがそこは、彼にとって「二度と顔を見せたくない男」がいる場所でもあった。

(.......チッ。あの偏屈オヤジに頭を下げるのか? 俺が?)

 ザントは自身の創造主に関わるその場所を、忌み嫌っていた。

 だが、視線を落とせば、自分にパンをくれ、怪我を心配してくれた少女が、今にも消えそうな命の灯火を揺らしている。

「.......クソが。借りは返す主義なんだよ」

 ザントは吐き捨てるように言い、アザゼルを睨みつけた。

「アテがある。......本当は死んでも行きたくなかったが、背に腹は代えられねえ」

「どこだ?」

「王都の『時計屋』だ。急ぐぞ、止まればこのチビが死ぬ」

 ザントが先頭に立ち、速度を上げた。

 アザゼルも、背中の高熱に焦燥を募らせながら、泥水を蹴り上げてその後を追う。

 やがて、トンネルの突き当たりが見えた。

 下水路の出口に掛かる鉄格子を、ザントが内側から鬱憤を晴らすかのように蹴り破った。

 錆びた金属が悲鳴のような音を立てて外れ、夜明け前の冷たい風が一気に吹き込んでくる。

 そこは、王都ドロステを囲む巨大な外壁の真下だった。

 見上げれば、天を突くような白亜の壁がそびえ立ち、世界を「内」と「外」に冷酷に分断していた。壁の上では、監視塔のサーチライトが規則正しく旋回し、星空を撫でるように白い光芒を走らせている。

「.......眩しいな」

 アザゼルは目を細めた。

 裏都市の淀んだ空気とは違う。ここの空気は研ぎ澄まされたように澄んでいて、どこか遠くの花の香りが微かに混じっている。

 だが、その清浄さは、汚れた身体の彼女たちを拒絶しているようにも感じられた。

「感動してる暇はねぇぞ。今の警備レベルは最高度だ。ネズミ一匹通さねぇ」

 ザントが懐から掌サイズの端末を取り出す。複雑な幾何学模様が刻まれたそれは、彼のような特殊な個体だけが扱える解析デバイスだ。

 画面には、赤い警告灯が無数に点滅し、壁のセキュリティの堅牢さを示していた。

「壁の上には自律型の警備人形オートマトン。センサーは熱源探知と魔力探知の二重構造。さらに振動検知の結界まで張ってやがる……まともに通れば、アブちゃんの小指ビームを撃つ前にハチの巣だ」

「........誰が小指ビームだ。それに、今は撃てる気もしない」

「あ?じゃあビームフィンガー?」

「.......もういい」

 アザゼルは不機嫌そうに返すが、疲労の色は隠せない。背負っているマリィは、先ほどの恐怖と逃走劇で体力の限界を超えたのか、アザゼルの背中で浅い呼吸を繰り返しながら泥のように眠っていた。

 その小さな体温だけが、アザゼルにとっての唯一の現実だった。

「リド、そこの廃棄ダクトだ。俺がセキュリティにノイズを流す。猶予は30秒」

「30秒だと? マリィを抱えて、この高さのダクトを登れってのか? ギリギリすぎるぞ!」

 リドがダクトの位置を見上げて悪態をつく。

「計算上は3秒余る。文句を言ってる間に肺を酸素で満たしておけ。.......行くぞ」

 ザントが端末を操作した瞬間、頭上のサーチライトが一斉に明滅し、壁の上から聞こえていた機械の駆動音が、フツリと途絶えた。

 巨大なシステムの心臓が一瞬だけ停止したかのような、不気味な静寂。

「今だ!走れ!」

 ザントの鋭い声と共に、三人は走り出した。

 アザゼルはマリィを背負い、死に物狂いで地面を蹴る。リドが先導してダクトの蓋をこじ開け、ザントが最後尾で舌打ちしながら続く。

 狭く暗いダクトの中を、泥と汗にまみれて這い進む。

 鉄の冷たさが膝を擦り、埃が肺を焼く。

 永遠にも思えるような閉塞感の後、出口の格子が見えた。

 その直後、背後でブウンという低い音と共に、サーチライトが再び点灯した。

 光の帯が、彼らが一瞬前までいた場所を焼き尽くすように通過していく。警報音はなく、ただ完璧な監視体制が再稼働しただけだった。

「......チッ。計算通りすぎて面白くねぇな」

 ザントは冷や汗ひとつかかず、ニヤリと笑った。

 ダクトを抜け、重い蓋を押し上げると――世界が一変した。

 そこは、ドロステ王国の「表側」。

 王都の一角にある路地裏に出たアザゼルたちは、目の前に広がった光景に息を呑んだ。

「これが.......王都......」

 リドが呆然と呟く。

 そこは、あまりにも「綺麗」だった。

 白く磨かれた石畳の道は、塵ひとつなく掃き清められている。

 整然と並ぶレンガ造りの家々の窓辺には、色とりどりの花が飾られ、朝露に濡れて輝いていた。

 街灯には暖かな色の魔法の火が灯り、広場の噴水は清らかな水を湛えている。

 どこからか、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってきた。

 裏都市に充満していた腐臭、鉄錆、血の匂いなど、ここには存在しない。

 夜明け前の薄紫色の空の下、街は静かに眠っていた。

 その静寂は、裏都市のような「いつ殺されるか分からない死の沈黙」ではなく、明日が来ることを疑わない「安らぎの眠り」だった。

 壁一枚隔てた向こう側で、人々が泣き叫び、住処を焼かれ、命を奪われていることなど、ここの住人は夢にも思っていないだろう。

「なんて......残酷なほど穏やかなんだ」

 アザゼルは、その平和な街並みに眩暈を覚えた。

 かつての天界にも似た、完成された美しさ。

 だが、今の彼女には、その美しさが何よりも恐ろしく見えた。

 この平穏は、裏都市という「ゴミ捨て場」の上に成り立っているのだから。

「平和だろう? ここはエノク様が守る楽園だからな」

 ザントが建物の影を歩きながら、皮肉げに言った。

 彼の金属の足音が、静かな石畳にカツン、カツンと響く。

「市民はみんな、女王を愛し、女王に感謝して眠りにつく。自分たちの足元で、俺たちが泥水を啜っていることなんて知らずにな」

「.......誰も、疑わないのか? 自分たちの幸福の裏側を」

「疑う理由がねぇよ。税は安い、飯は美味い、治安は良い。最高の国だろ? .....不要なゴミさえ見なければな」

 ザントの言葉は、この国の歪さを鋭く突いていた。

 悪意で支配されているのではない。「善意」と「無知」で守られているからこそ、この国は強固であり、崩すことが難しいのだ。

 リドは悔しげに拳を握りしめたが、何も言えずにただ歩を進めた。

 彼らが辿り着いたのは、王都の煌びやかな大通りから一本入り、住宅街の家の狭い隙間を通っ先にある、古いが趣のあるレンガ造りの建物だった。

 看板には汚い文字で読みずらいが『ギルレッド時計店』と、辛うじてよめる。

 ショーウィンドウには精巧な懐中時計が並べられ、チクタクと規則正しい音を奏でていた。

「ここだ。店は汚ねぇし、家主は偏屈だが、腕は確かだ。俺のメンテナンスもここ以外じゃ頼めねぇ」

 ザントがそう言いながらも、扉の前で一瞬ためらうような素振りを見せた。彼にとって、この扉を開けることは、プライドを削る行為に等しいのだ。

 だが、アザゼルの背中でマリィが苦しげな呻き声を上げた瞬間、彼は意を決して裏口の扉を、特定のリズム――トントントン、トン、トントン――で叩いた。

 カチャリと鍵が開く音がした。

 中は、時計の針が時を刻む音で満ちていた。

 壁一面を埋め尽くす大小様々な柱時計、机の上に散乱した歯車、ゼンマイ、そして古びた設計図の山。

 その光景は、ただの時計屋というよりは、何かを探求する学者の研究室のようだった。

 オイルと古書の混ざった匂いが、どこか懐かしく、落ち着く空間だ。

 アザゼルは背負っていたマリィを、奥の長椅子にそっと横たえた。少女の呼吸はまだ荒いが、屋根のある場所に辿り着いたことで少しだけ表情が和らいだように見えた。

「とりあえず、追手は撒けたみたいだな……」

 リドが壁にもたれかかり、長く重い安堵の息を吐いたその時だった。

 積み上げられた本の山が雪崩のように崩れ、その奥から不機嫌そうな男の声がした。

「3分12秒遅刻だぞ、ザント。また無茶な機動をしたな? 左足のサーボモーターから異音がしているぞ」

 現れたのは、右目に作業用の拡大鏡ルーペをつけた、ボサボサの赤毛の男だった。

 皮のエプロンには無数の精密工具が刺さっており、手には髪の毛ほど細いピンセットを持っている。

「」

 眠そうな目をこすりながらも、ルーペ越しに見えるその瞳は、異常なほど鋭くザントの身体をスキャンしていた。

「客連れでね。それに、新型の警備人形が邪魔だったんだよ、ギルレッド」

 ザントが悪びれずに言うと、ギルレッドと呼ばれた男はため息をつき、ピンセットを置いた。

「まったく......ナヴィ師匠が聞いたら嘆くぞ。『知恵は乱暴に使うものではない、美しく整えるものだ』とな」

 「ナヴィ」という名前が出た瞬間、ザントの眉がピクリと動いた。

 彼はあからさまに不機嫌そうに鼻を鳴らし、視線を逸らす。

「.....師匠の話はいい。今は修理だ。それと、こいつらの面倒もな」

 ザントの拒絶反応に、ギルレッドは「やれやれ」といった様子で肩をすくめた。二人の間には、言葉にしなくとも通じる複雑な事情があるようだ。

 ギルレッドは拡大鏡の位置を直し、アザゼルたちの方へ向き直った。

「さて.....」

 彼はリドを一瞥し、そしてアザゼルへ視線を移す。

 いや、正確にはアザゼルの顔ではなく――彼女の右小指を凝視した。


「.....ほう。珍しい客を拾ってきたもんだ」

 ギルレッドは興味深そうに目を細め、ニヤリと笑った。その笑顔は、職人としての探究心と、底知れぬ知識欲に満ちていた。

「ようこそ、『ギルレッド時計店』へ。時計の修理から、人生の相談、そして――『神の権力』の解析まで。なんでも屋へようこそ」

 彼はゆっくりとアザゼルに歩み寄り、指をさした。

「その指....微かだが、確かに感じる。....豊穣?ほほう... まさかこんな所でお目にかかるとはね.....ソロモンのお伽噺かと思っていたが」

 アザゼルは警戒して身構えるが、ギルレッドは敵意を見せなかった。

 ただ、壊れた時計を見るように、愛おしそうに呟いた。

「壊れているな、世界も、君たちも。...彼女も....よし、いいねぇ、修理の時間だ」


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