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その夜、夕食を外で済ませた後、私のマンションに戻りコーヒーを飲んでいた時、
「確かこのマンションって、二LDKの部屋もあったよな?」
と壮太が聞いた。
「うん」
「今、空いてるのかなあ?」
「さあ、どうだろう?」
「空いてたら、オレ、引っ越して来ようかなあ」
私は驚いて壮太の顔を見つめた。
「実は前から都内へ引っ越したいと思ってたんだ」
「ふうん。でもなんで二LDKなの?」
「物も増えたし、少し広い部屋に住みたくなってさ。えり子はオレが同じマンションに住んだら迷惑? ウザい?」
「ううん。全然そんな事ない。嬉しいよ」
「マジで?」
「うん。今よりいっぱい会えるし」
「そうだな。でもそうなったらもうオレ、えり子の部屋に入り浸って帰らなくなっちゃうかも知れないね」
「いいよ」
「ホントにいいの?」
「うん。もちろん」
「じゃあどうせなら一緒に住まないか? その方が家賃や生活費も安く済むし、なにかと便利だろ?」
なるほど、そういう事か…と思った。
壮太は私が無職になったものだから、負担を軽くしてやろうと思ってそんな事を言い出したのだ。
私はちょっとムッとして黙りこんだ。
「なんだよ? オレと暮らすのイヤなのか?」
もちろんイヤではない。
いつか一緒に暮らせたらいいなとずっと思っていた。
でもこのタイミングではイヤだった。
私は壮太と対等でいたいのだ。
頼る気はさらさらなかった。
「もし私の事を心配して言ってくれてるんだったら、大丈夫だよ。一年くらい働かなくたって十分暮らしていけるくらいの貯金はあるんだから」
それは嘘ではなかった。
壮太は困惑したような顔になって
「そういうつもりじゃないんだ。オレがえり子と一緒にいたいんだよ。一人はやっぱり寂しいよ。それに老後の事とか考えたら、節約出来る所は節約して、少しでも貯めといた方がいいだろ?」
と言った。
「そりゃまあそうだけどさ…」
一緒にいたい、という言葉にはちょっと感動したが、やっぱり今夜それを言い出したのは私の失業がきっかけだと思った。
「な、一緒に暮らそうよ。いいだろ?」
壮太は何かをねだる子供のように顔を近づけて、私の目をのぞきこんだ。
年の割に白髪が多いし、皺やシミもそれなりに出来ているが、可愛いさは以前とちっとも変わらない。
そんな壮太に訴えかけられると、私はいつもすぐに降参してしまうのだ。
でも今だけはダメだと思った。
私は目をそらした。
「あと一年、契約が残ってるでしょ?」
壮太も私も昨年三月にそれぞれ賃貸契約を更新していた。
「そうだよ。でも別にいいじゃん?」
「よくない。勿体ないよ」
「そうか?」
「高い更新料払ったんだから、満了までいないと…」
「うーん」
壮太は納得しかねる様子で、暫く残り少なくなったカップをじっと見つめていた。
それから
「じゃあ来年の三月に契約が切れてからだったら、いいか?」
と聞いた。
私はもう反対する理由がなかったので、
「いいよ」
と答え、
「ま、ちょうど空室があればの話だけどね」
と付け加えた。
イマイチ素直になれず、ちょっと皮肉っぽい言い方になってしまったが、壮太は気にならなかったようで、
「このマンションにこだわらなくてもいいよ。でもどこへ行くにも便利な所だから、もし空いてなかった時はこの周辺で探そう」
と嬉しそうに言った。
「うん。わかった」
つられて私も笑顔になった。
「ああ、よかった。やっとオーケーしてもらえた」
壮太はおおげさにため息をつき、コーヒーのお代わりを淹れてくれた。
壮太と連絡がつかなくなったのは、その一週間後の事だった。