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派遣切りという言葉が生まれたのはいつだったろう?
壮太からも家族からもずいぶん心配されたが、私はその都度大丈夫だと答えていた。
過払い利息の返還請求や債務整理、自己破産をする債務者が以前より多くなっていたが、新規契約者や追加借り入れをする顧客は後を絶たず、それと共に延滞者の数も増える一方だったので、仕事はますます忙しくなっていたのだ。
箸にも棒にもかからない無能な社員より、派遣社員の方がよほど会社の役に立っていた。
私たちがいなければ、回収業務が成り立たないくらいだった。
同じ派遣でも家庭を持っていたり、生活がかかっていなかったりする者は定時で上がったが、私は残業も率先して引き受けた。
壮太が来る金曜日でも頼まれれば決して断らず、部屋の前で待たせる事もあった。
でもそのせいで壮太がようやく合鍵を受け取ってくれたので、結果的には良かったのだ。
歴史の浅い会社ではあるが、大きなグループ会社の中に入っており、経営状態も順調な筈だった。
だから不景気の影響なんて皆無だと思っていた。
でも実際はそうではなかったのだ。
十二月の初め、派遣社員が会議室に集められ、三月末をもって派遣契約の延長はしない事になったと突然発表された。
人件費削減の為、今後は直接雇用に切り替え、契約社員とパートを採用する事にしたというのだ。
募集要項は対外的に求人を出す前に派遣社員に向けて発表するので希望者は履歴書を提出するように、会社としては新しい人を採用して一から教えるよりも業務に慣れた人に続けて働いてもらった方がありがたいので是非応募してほしい、との事で、いわゆる派遣切りではなかった。
勤め始めてから三年半以上経っていた。
あからさまな美醜差別はイヤだったが、それ以外は居心地の良い職場だった。
三ヶ月更新の派遣より、一年更新の契約社員の方がずっと安定している。
私を含め十人あまりの派遣社員全員が契約社員としての残留を希望した。
年明け早々の予定が延び延びになり、漸く募集要項が発表されたのは二月も半ば近くになってからだった。
その頃には経営がますます悪化しており、経験と能力を考慮すると幅を持たせてあったが、契約社員の年俸もパートの時給もびっくりするくらい安い設定になっていた。
最高額をもらえたとしても、実費定期代が支給されたとしても、収入は確実に減る。
それでも私はこの会社に残りたいと思った。
新しい職場で仕事を覚え、しっかりした人間関係を構築するまでの時間と苦労に比べたら、多少の減収くらい我慢出来る。
無遅刻で欠勤も殆どなく、毎月発表される回収成績も常にトップを争っていたので、最高額か、それに近い年俸はもらえる自信があった。
私は履歴書を提出し、二月末に面接を受けた。
形式的で簡単な面接は数分で終わった。
合否は三月初めに郵送にて通知される事になっていた。
そして私の元に届いたのは……
まさかまさかの不採用通知だった。