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三十六歳の時、十年勤めたコールセンターの閉鎖が決まった。
景気の後退と共に、外部に電話業務を委託する企業が激減したのが原因だった。
これも厄年の影響かと思ったが、幸い間隔を空けずに次の仕事が決まり、失業という事にはならなかった。
私は元々浪費家ではなかったけれど、その頃からより一層節約を心がけるようになり、昼食も手作りのお弁当に変えた。
それと同時に以前にも増して料理に凝り始め、テレビや雑誌、インターネット等でレシピを増やし、次々と新しい料理に挑戦していった。
壮太の三十七歳の誕生日にはイタリアンのフルコースディナーをご馳走した。
木曜日だったが、有給を取った。
前日に食材を揃え、前菜からデザートまで全て壮太に初披露の料理を朝から気合十分で準備し、盛り付けも工夫した。
仕事を終え、夜七時過ぎにやって来た壮太は
「すげえ。豪華だね」
と一応言ってくれたものの、いつものようにバクバクと豪快に口に運び、前菜もパスタも魚料理もそれぞれ数分でたいらげた。
私はちょっとがっかりしたが、何も言わなかった。
でも次の肉料理、ポルペットーネ(イタリア風ミートローフ)は事前に何度もリハーサルをして、ようやくうまく焼けるようになった渾身の一品なので、壮太が無造作にフォークを突き刺そうとした時、ちょっと強い口調で
「これはゆっくり味わって食べてね」
とつい言ってしまった。
壮太は手を止めて、ぽかんとした表情で私を見た。
「ごめん。深い意味はないんだけど」
と慌てて言うと、壮太は
「いや、ちょっと昔を思い出して…」
と言い、ナイフとフォークを置いた。
「一度タケルのおふくろさんに同じ事を言われたんだよ」
「岩村君のおかあさん?」
「うん。小学校の頃、一度だけタケルの家で一緒に食事した事があったんだけど、オレ、あの人にもあんまりよく思われていなくて、結構きつい口調で言われたから、いたたまれなくて半分以上残して家へ帰っちゃったんだ」
「ふうん。じゃあ子供の頃からずっと早かったのね?」
祖父母に育てられたのに、何故よく噛むように躾けられなかったのかと不思議に思った。
「いや、こんなふうになったのは親父の家に引き取られてからだよ。そうならざるを得なかったんだ」
「後妻さんか和也さんに何か言われたの?」
「そうじゃない。でもオレを見る目つきで、憎まれている事は最初からわかってたし、一万円事件で完全に敵対しちゃっただろ? だからなるべく顔を合わせたくなくて、食事は自分の部屋で取りたいって言ったんだけど、親父はどうしても許してくれなかった。それでいつも二口三口食べてすぐに席を立ってたんだ」
「育ち盛りなのに、お腹空かなかった?」
「隠れてカップ麺とか食べてたよ。でも暫くしてそれが親父にバレて、出された物を全部食べないと部屋へ行かせてくれなくなったから、大急ぎで平らげるようになったんだ。親父はゆっくり食べろって何度も注意したけど、ずっと無視してたら、そのうち諦めた」
壮太は皮肉っぽく笑った。
「悪い習慣って不思議なくらい、すぐに身についちゃうんだよ。前の学校ではそんな事なかったのに、二学期が始まって新しい学校で給食を食べるようになったら、クラスで一番の早食い野郎になってた」
「へえ、私はいつもビリ。午後の授業が始まる時間になっても食べ終わらなくて、しょっちゅう泣いてたよ」
「給食マズかったの?」
「うん。すごくマズかった」
「オレはあの学校の給食、旨いもマズいも全く覚えてないんだ。ただ早く食べ終える事しか考えてなかったから」
「もしかして、他の子と一番を争ってたの?」
「そういうんじゃない。ただ教室にいたくなかったんだ。えり子は転校した事ある?」
「ううん。ない」
「そっか。じゃあ、転校生の気持ちなんか、わかんないよな?」
「うーん、そうだねぇ」
「オレ、前の学校では自分から進んで孤立して友達が一人もいなかったから、新しい学校ではみんなに溶け込むように努力しようって、一応思ってたんだけど、転校前からオレの評判最悪でさ」
「なんで?」
「すぐに怒って暴力をふるうとか、人の物を盗むとか、風呂に入らないから不潔だとか…、和也がでっちあげの悪口を言いふらしてたんだ」
「ひどい」
「和也は別のクラスだったけど、六年生や中学生にも顔が利いたから、学年のボス的存在でアイツの発言は絶対なんだ。だから前の学校以上に居心地悪かったよ。そんな所で頭下げてまで仲良くしてもらう必要ないだろ? だから依怙地になって、前にも増して誰ともかかわらなくなったんだ」
誕生日に嫌な思い出を蘇らせてしまった。
私は余計な事を言わなければよかったと後悔した。
「ねえ、壮太。冷めちゃうから、ポルペットーネ食べて。今日のイチ押しなのよ」
「イヤだ。もう食べない」
壮太はあひる唇を尖らせて言い
「なんで?」
と聞くと
「えり子が変な事言うから、食べたくなくなった」
と言って、ぷぃっと横を向いた。
でも目は笑っていた。
「ごめんね。もう言わないから」
私は自分のポルペットーネを一口大に切って、あひる唇のそばに持って行った。
「さっ、召し上がれ」
壮太はパクッと口を開け、まだ少し不満げな目で私を見ながら、いつもよりしっかり噛んで食べた。
「どう?」
「ウマイ」
「良かった」
本当に今までで一番の出来だった。
「一口に何回ずつ噛めばいいの?」
「そうねえ、あまりたくさん詰め込まないようにして、二十回から三十回くらいは噛んだ方がいいんじゃない?」
「じゃあ間を取って二十五回な」
壮太は指を折って数え、ゆっくり味わって食べてくれた。




