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「病院で調べてもらったんだ」
暫く言いよどんだ後に、壮太の口から意外な言葉が発せられた。
「何を調べたの?」
「生殖能力があるかどうか…」
「え?」
「無精子症だってさ」
壮太の声は小さく少しかすれていた。
「精子が全く無いんだ。多分そうじゃないかと思ってたけど、はっきり宣告されるとやっぱりショックだったよ」
私は何と言っていいかわからず、ただ壮太を見つめるばかりだった。
「中三の時、進路の事で揉めたんだ。タケルが東京の高校に行くことになったから、オレも行かせてほしいって、生まれて初めて頼み事だった。親父、最初はいいって言ってくれたんだよ。だけど和也が自分も東京に行きたいって言い出したせいで、継母が猛反対して、そんなわがままを許すなら離婚するって言ったもんだから、やっぱりダメだって、すぐに撤回されたんだ。結局実現しなかったけど、市議選に出るっていう話があって、微妙な時期だったらしい。でもオレはその時何も知らなくて、どうしても納得いかなかったから、親父にしがみつかんばかりに食い下がったよ。それなのに親父はもうこの話は終わりだって取り付く島がなくて、オレの手を振りほどいて出張に行っちゃったんだ。オレ、あの家に引き取られて初めて泣いたよ」
壮太はくやしさが蘇って来たように唇を噛み締めた。
「その日の夜、それまで経験した事がないような高熱が出て、暫くすると片方の睾丸が腫れて来たんだ。ものすごく痛かったよ。だけど継母には言いたくなかったから、自分で氷を持って来て、おでこと両方冷やしながら我慢したんだ。次の日になると反対側も腫れて、オレ、絶対死ぬと思ったよ。夕方親父が帰って来た時にはもう殆ど意識なくしてた。すぐに入院して命には別条なかったけど、親父は医者からオレが無精子になってしまったかも知れないと言われたらしい。オレは何も聞かされてなかったから、そんな事想像もしていなかった。でも退院して学校に行ったら、教室の黒板に『壮太くんはタネ無しになっちゃいました』って書いてあったんだ。いかにも和也のやりそうな事だよ。オレ、無精子になったのもショックだったけど、それを学校のみんなに知られてしまった事の方がもっとショックだった」
私は黙って壮太を抱きしめた。
壮太は私の肩に顎を載せて
「だから、えり子にオレの子供を生んでもらう事は出来ないんだ」
とくぐもった声で言った。
「がっかりしただろ? ごめんな」
「ううん。全然」
私は壮太の髪を撫でた。
「確かに壮太の子供を生みたいと思った事もあるけど、それは壮太を繋ぎ止める手段にしようとしただけで、純粋な気持ちで子供が欲しかったわけじゃないの」
壮太の髪はサラサラで、私と同じシャンプーの香りがした。
私はその髪にそっと唇を押し当てた。
「おじいちゃんの退院祝いの時、姪っ子を抱っこしてくれたの覚えてる? 実はあの時、すごくヤキモチ焼いてたのよ」
「そうなんだ。それは気づかなかったな」
壮太は顔を上げて、私を見た。
「そんな子供っぽい私が良い母親になれるわけないじゃない?」
私は壮太の両方の耳たぶを軽く引っ張った。
目立つほど飛び出してはいないけれど、比較的大きめで、丸みのある可愛い形をしている。
私はこの耳も大好きなのだ。
誰にも触れさせたくないと思った。
私はもう一度壮太をしっかりと抱きしめた。
「私、おかあさんになんかなりたくないの。もしどうしてもならなきゃいけないんだったら、壮太のおかあさんがいい」
「オレの?」
「うん。そしたら別れなくてもいいでしょ?」
母親でも姉妹でも、友達でも都合のいい女でも、何でもいい。
とにかく壮太と会えなくなるのだけはイヤだった。
私は壮太の左胸に顔を押し付けて
「別れたくない」
と言った。
はからずも涙声になってしまった。
湿っぽいのは避けたかった。
私は大きく深呼吸した後に洟をすすり、涙を押し戻して壮太を見上げ、ニッと笑ってみせた。
「結婚しなくてもいいからさ」
「なんで?」
壮太はちょっと意外そうな顔をした。
「夫婦っていう結合体になると、悪い方向に変異しちゃうかもしれないでしょ? だから今のままがいいの。これからもずっと仲良くやっていこう」
壮太は頷き、ギュッと力を込めて抱き返してくれた。