10
一月末に壮太は風邪をこじらせて寝込み、エイプリル先生の最後の授業に出られなかった。
電話してみると、もう熱は下がったとの事だったが、いつも以上に張りのない声が気になった。
先生は帰国の準備で忙しかったので、授業の後に私ひとりでアパートを訪ねた。
大学のある駅から乗り換えなしで、四十分弱で着いた。
近づくに連れて緊張が高まって来て、ホームに降り立った時には軽い目眩を覚えた。
駅前の交番で教えられた二階建ての白い建物は案外すぐに見つかった。
階段を一段上がる毎に動悸が激しくなった。
壮太の部屋は二階の一番奥だった。
ドアの前で呼吸を整えてから、チャイムを押した。
応答はなかった。
少し待ってからドアをノックして声をかけると、微かな返答が聞こえ、暫く待たされた後に細く開いたドアから戸惑いを隠せない壮太の顔がのぞいた。
髪が乱れ、無精髭が伸びていた。
メガネをかけていない目は面やつれした分、いつもより大きく見えた。
「どうしたの?」
「お見舞いに来たの」
「わざわざ?」
「うん、迷惑だった?」
勝手に押しかけて来て・・・と呆れられた気がして、とても不安になったが、幸い壮太は
「迷惑じゃないよ」
と言ってチェーンを外し、中に招き入れてくれた。
さほど広くないワンルームだった。
大学入学以来ずっと住んでいる割には物が少なく、ガランとしていた。
壮太はちょっと途方にくれた感じで窓際のベッドに腰掛け
「その辺適当に座って」
と言った。
「お粥買って来たの。キッチン借りていい?」
と聞くと黙って頷き、体を横たえて目を閉じた。
まだかなり辛そうだった。
玄関を入ってすぐの所に備え付けの小さな冷蔵庫と電気コンロがあった。
食器も調理器具も必要最小限の物しかなく、料理は殆どしないようだった。
レトルトの梅粥をラーメン丼に入れてレンジで温めた。
「出来たよ」
と声を掛けると、
「うん」
と返事をしたが、起き上がる元気はなさそうだった。
「食べさせてあげようか?」
半分冗談のつもりで聞いてみたら、一瞬間をおいてから
「ん」
と短く答え、目を閉じたままで小さく口を開けた。
一匙すくって入れると、唇を少し尖らせてモグモグと食べた。
五口ほど食べた後、
「もういいよ。ありがとう」
と言い、目を開けてちょっと照れくさそうに笑った。
「昔ばあちゃんに看病してもらった時の事を思い出したよ」
「そう」
鳥取の話は極力避けようとする壮太だが、独楽まわしを教えてくれたおじいさんと、看病してくれたおばあさんがいて、ちゃんと愛情を受けて育っていたのだ。
私は胸がキュンとなったが、それを壮太に気づかれてはいけないと思い、わざと少しぶっきらぼうに
「林檎とゼリーとジュースも買って来たんだけど、どうする?」
と聞いた。
「いや、後でいい」
「薬は?」
「飲む」
テーブルの上に市販の錠剤が置いてあったので、水を持って来てジュースに付いていたストローで飲ませた。
「病人の世話、うまいね」
壮太は珍しいものを見るような目で私を見た後、天井に視線を移し
「昔、寝たままで水が飲める小さい急須みたいな物があったよな。あれ、何て言うんだろう?」
と独り言のように言った。
「ああ、アラジンと魔法のランプみたいな形の容器ね。何だっけ? 前にウチのおじいちゃんが入院した時にも使ってたけど」
「おじいさん、どこか悪かったの?」
「うん、十二指腸」
「手術したの?」
「うん。五時間くらいかかった結構大変な手術だったんだよ」
「すげえ。待ってる方も気が気じゃないね」
「そうだね。だけどそれほど危険性はないって聞いてたから、みんな本読んだり、テレビ見たりして待ってた」
「みんなって、家族全員病院に詰めてたの?」
「そうだよ」
「そっか。えり子のウチは仲良いもんな」
口調が少し寂しげだった。
「うん。普段はそうでもないんだけど、いざと言う時は父の号令で好むと好まざるとに関わらず、一致団結させられるのよ」
「この前も団結してたね」
「まあね。今思うとベタ過ぎてちょっと恥ずかしいけど」
「全然恥ずかしくないよ。すごく良くしてもらったし、すごく楽しかった」
「ホント? それなら良かった」
私たちは自然に微笑み合った。
それから数秒沈黙が流れた後、壮太が
「ここ、すぐわかった?」
と聞いた。
「うん。交番で詳しく教えてくれたから、全然迷わなかったよ」
「そう」
「駅からそんなに遠くないし、良い所だね。大学の紹介?」
「いや、タケルのおふくろさんが不動産屋で、そのツテで紹介してもらったんだ。オレ、風呂とトイレが一緒になってるのはイヤだったから、都内では案外少なくて、結局千葉になっちゃったんだ」
「そうなんだ。でもさすが壮太だね。男の子の一人暮らしとは思えないくらいきれいにかたずいてる」
「物が少ないだけだよ」
壮太は欠伸をかみ殺しながら言った。
「少し眠ったら?」
と言うと、聞こえるか聞こえないかの微かな返事をして、そのまま目を閉じ、まもなく静かな寝息を立て始めた。
私は床に座り、壮太の整った横顔を見つめた。
途中眠っている壮太の額にそっと手を触れた。
もう熱は無いようだった。
私は飽きることなく、じっと壮太の横顔を見つめていた。
そのまま眠ってしまったようで、壮太に揺り起こされた。
「遅くなるといけないから、もう帰って」
時刻は七時半を過ぎていた。
「一人で大丈夫なの?」
私は出来れば泊まりたかった。
邪な考えはなかった。
ただもっと壮太の面倒を看てあげたかったのだ。
「もう大丈夫だよ。逆にえり子がいた方が大丈夫じゃない、かも」
壮太がいたずらっぽく笑った。
「どういう意味?」
「身の危険を感じる」
「誰が?」
「オレ」
「失礼ね」
私は仕方なく重い腰をあげた。
「お腹空いてない?」
「うん。さっき林檎食べた」
「なんだ。起こしてくれれば皮むいてあげたのに」
「よく寝てたよ」
顔から火が出そうになった。
私は寝顔がひときわ不細工なのだ。
看病して、せっかく少しポイントを稼いだのに、プラマイゼロになってしまった気がした。
でも玄関先で壮太が
「今日はありがとう。嬉しかったよ」
と言ってくれたので、温かい気持ちで家路につく事が出来た。