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【純文学】

蛙鳴きて雨が降る

作者: 小雨川蛙


徒爾に降り続ける雨の中、誰かの声が響いた気がして幸吉は床ばかり映していた視線を上げた。

敷かれた砂利は細雨により湿り黒色へと変わり、辺りの木々は雫のため普段より重苦しく身を垂れていた。

雨で変わる世界を見るのは初めてではない。

しかし、今日に限ってはまるで何かを隠しているような白々しさを感じていた。

どたどたと屋敷で人が歩く音が脳の奥深くまで響き、微かな頭痛と遣る方のない息苦しさを感じて幸吉は我に返る。

今は雨粒が小さく目で捕えることにさえ難儀する雨だが、昼を迎える頃には強くなると父は言い、外での仕事を取りやめた。

故に屋敷の中は普段よりも人が多く、平時より居場所のない幸吉は仕方なしとばかりに縁側で何もせず床を眺めてばかりいた。

知恵は遅れ、手先も不器用、挙句の果てに体は弱い。

そんな幸吉をまともに相手をする人間など屋敷には居らず、また幸吉自身もそれを悟っているので、せめて邪魔にならぬよう他者から離れて過ごしている。

だからこそ、人が多い雨の日は嫌いだった。

役立たず。

誰もが口にするその一言が幸吉の立場全てを表していた。

消し去りたい記憶が蘇るのに辟易としながら幸吉は胡坐を掻くのをやめて立ち上がる。

耳に届いたあの声が幸吉には奇妙なほど美しく感じられたからだ。

外へと向かい歩を進める間に何人かとすれ違ったが、皆一様にして幸吉に話しかけたりしない。

「幸吉。傘、持っていかんのか」

ただ一人、母だけが下駄を履いている幸吉に尋ねたが幸吉は「いらん、すぐ戻る」と顔さえ見ずに答えた。

今日、初めて行った他者との会話だった。

重みさえもなく服と肌に吸い付く雨の中を歩く幸吉の耳に声が聞こえる。

「あの飯食らい、どこへ行くつもりだ?」

「そのまま消えちまえば良いんだ」

身も心は凍えていない。

悲しいとも悔しいとも思わない。

自らの知恵が遅れていると知っていたから。

「霧雨」

一つ、呟き歩き続ける。

外を出歩く者など一人も居ない村の中、雨に混じり消えゆく幸吉の呟きなど誰も相手にするはずもない。

雨が重く感じる。

声は一度聞こえたきりで、今や何故外に出たのか疑問さえ覚えるほどだ。

そうだというのに幸吉の足は自然と何処かへ向かっていた。


やがて幸吉の足がぴたりと止まる。

いつもと変わらない。

強いて言うならば、いつもより蛙の鳴き声がする湿地。

村から少し距離がある芒に囲まれたこの場所に人が訪れることは滅多にない。

「あぁ」

ため息を一つ漏らして幸吉は躊躇いもせずに奥へと向かう。

草が肌を擦り、皮膚が裂けて血が流れる。

汗と雨が傷口に沁み込むも、言いようのない気持ちに支配された幸吉の歩みは止まらなかった。

そして、不意に彼らは現れた。

ぼろ布を纏った十数人の者たちが、何かを中心にぐるりと円を描くようにして立ち並んでいた。

彼らは皆、村の女達と比べても背が低いのに、その横幅は村で最も恰幅の良い者の倍近くもあり、まるで球に手足を無理矢理生やしたかのような姿をしていた。

無言のまま幸吉が近づくと草の揺れる音に気づいたのか、一人の男が振り返り幸吉を見つめた。

彼の両目は仲違いしたかのように離れており、口は人の頭を飲み込めそうなほどに広く長い。その上、その肌は秋の落ち葉にも似た生の終わりを想起させる色をしていた。

「何の用かね?」

喉を鳴らして男は尋ねた。

答えることが出来ず沈黙する。

ぽつぽつと当たる雨に打たれ、寸の内に躊躇いながら幸吉は尋ね返していた。

「何をしている?」

問いを問いで返したにも関わらず男は気にした様子もなく答えた。

「我らの主が亡くなったのだ。あれを見ろ」

男はほとんど存在しない首を動かし円の中心へ向ける。

促された幸吉はそちらを見ると、そこには薄汚れた布団のような大布を被せた何者かの体が横たわっている。

あぁ、これは。

葬式か。

この場所で何が行われているのか悟りながら、改めて中心に横たわる者を見る。

布を通して形作られている皺は、横たわる遺体が人間のものではないと言うことを如実に語っていた。

人の顔にあたる部分が見受けられず、それどころか首さえもあるように思えない。首無しの死体に布が被せられていると言われても納得が出来る。

そして、胴体の方は明らかに人間ではありえない大きさをしており、悪戯小僧が二人隠れて今か今かと男達を驚かそうとしているのではないかと思ってしまうほどだ。

しかし、それはありえない。男達が主と呼ぶ何者かは確かに死んでおり、刻一刻と寒くなる中でも体一つ震わせない。

この異様な光景に村の連中ならば今すぐにでも逃げ出して、自分が見た全てを忘れるよう努めるだろう。

だが、ここに居たのは幸吉だった。

「人じゃあないんか」

意味もなく、感情もなく、ただ思ったまま口にした。

幸吉の言葉に男は身を震わせながら振り返り、他の者達の間にも動揺が走ったのか、低く喉を鳴らすかのような声が辺りにさざ波となって広まっていく。

雨の音が早くなり、雫一つ一つの重みが増す。

身体から滴り落ちる雨水に幸吉は身を震わせた。

あぁ、またやってしまった。

そんな後悔が身を支配した直後。

「上手く化けられていると思ったが」

雨の降る世界に溶け込むような鳴き声に似た失笑を男がする。

頭が体から落ちてしまいそうだと不安になるほど広い口を大きく開けて笑う男の姿を見て、幸吉は微かな安堵を覚えながら笑い返して告げた。

「上手く化けられていると思う」

幸吉と男のやり取りを見ていた他の者達は雨音と揺れる芒に溶け込むように口を噤み、闖入者が来る前に時を戻したかのようにして彼らの主へと視線を向けていた。

張り付いた大布の下に横たわる者を想いながら幸吉は尋ねる。

「何故、あんたらは人に化けている?」

「人の世が訪れたからだ」

男の一言は無情なほどにあっさりと全てを繋ぎ合わせる。

他者と比べ何事にも理解が遅れてしまう幸吉であったが、今、放たれた言葉だけは誰よりも重く、そして深く本質を知った気がした。

空から降る雫が地に吸い込まれているはずだった。

芒が風に吹かれ揺れているはずだった。

それでも音は聞こえず、幸吉はただ目の前で横たわる主を見つめていた。

人の世が来る。

雨粒に濡れた身を震わせながら幸吉は言葉の意味を考えるが、確かに手で掴んだはずのそれは考えれば考えるほどに指の隙間から零れ落ちていく。

故に幸吉は考えるのをやめた。

不意に強い風が吹く。

一瞬の内に現れ、一瞬の内に彼方へ消え去ったもの。

だが、風は主に掛けられていた布をはらりとめくり、その僅かな隙間から泥のこびりついた黄土色の肌と薄い水かきのついた四本の足が晒された。

息を飲む音が辺りから聞こえ、それと同時に集団が男の方を一斉に見るが、男は凍り付いたように身動ぎ一つせずに無言のまま主の方を見つめるばかりだった。

やがて彼らの内の一人がこそこそとまるで恥ずべきことをするような様子で主に駆け寄って布を掛けなおした。

再び隠された姿。

雨は相も変わらず降り続け、芒は静かに揺らいでいる。

しかし、包まれていた空気は呼吸さえ躊躇われるほどに重く、幸吉はどうしようもない息苦しさを感じていた。

「最期まで」

隣に立つ男の声。

まるで風の中に消えたと錯覚するほどに静かなもの。

「人になる道を選ばなかった」

風が強まり雨を運ぶ。

音が耳の奥にまで気味悪く入り込んでいき、肌は生を求めて冷えた体を震わせる。

けれど、ここに立っていたいと思った。

顔も名も知らぬ主に殉じたいと幸吉は願っていた。

だが。

それでも幸吉は歩を一歩下げる。

その様に気づいた男が振り返らないままに告げた。

「我らを放っておいてくれんか」

「あぁ」

切に願う男の一言に幸吉は返事をすると踵を返して歩き出す。

段々と強さを増してくる雨の中、幸吉は自らの意志で歩みながら無為と知りながらも考える。

人の世が来る。

その意味を幸吉は捉えきれない。

人の世が来る。

きっと、幸吉には決して理解出来ない物事だろう。

雨を呼ぶ蛙の鳴き声を聞きながら幸吉は尚も考える。

人の世が来る。

知恵の遅れた幸吉には誰かに意味を問うことも出来ず、また誰かに伝える術もない。

幸吉はふと家族を、村の者達を曖昧に思い浮かべた。

だが、刹那の内に全てが忘れさられる。

何を考えようとしていたか、自分でさえも分からないまま幸吉は歩き続けた。

霧雨は既に雨へと変わり、幸吉の体を打ち続けた。


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