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ケガのせいで夢と生きる希望を失った野球バカの俺が、幼馴染と再会して夢と生きる希望を取り戻す話 〜「肩のケガは治らないんだから頑張ったってもう遅いんだ」「遅くないよ! 右がダメなら左でやろう!」〜

『お気の毒ですが……もうその肩では野球を続けるのは諦めた方がよろしいかと……』


 中学三年の春。野球バカである俺——進藤しんどう球也きゅうやは、医者のたった一言で夢と生きる希望を無くしてしまった。


 夢の始まりは三歳の頃。俺は今も投手としてプロで活躍する野球選手の父さんに憧れて、自分も父さんのようになりたくて、野球漬けの毎日を送っていた。


 来る日も来る日も練習の毎日。とても大変な日々だったけど、目標の為、そして野球が好きという気持ちで頑張れた。


 そんな日々を送っていた俺に、突然不幸が襲いかかった。


 ある日、部室で悪ふざけをしていた後輩が、棚にぶつかった。その棚はかなりガタが来ていたうえ、乱雑に物が置かれていたからか、かなりバランスが悪かったようで、ぶつかった衝撃で倒れた。


 倒れるだけならいいんだが、その後輩が棚の下敷きになりそうだったんだ。色んな物が置いてある棚は、結構な重量があるのは明らかだった。


 俺はその現場に居合わせていて、咄嗟に後輩を引っ張って助けた。


 でも、引っ張った反動で俺の身体は前に行ってしまい、そのまま倒れてくる棚に巻き込まれてしまった。


 後輩の代わりに棚の下敷きになった俺は、運悪く右肩をケガしてしまい……俺の選手生命は絶たれた。


 そんな状況だというのに、部員達は誰も俺を心配してくれない所か、俺がもう野球を出来ない事を喜ぶ連中もいた。きっと俺がいなくなる事で、レギュラーの枠が一つ空くからだろう。それに、日頃から野球選手の息子というだけで、俺の事を妬む奴が多かった。


 そうして心が折れた俺は、五月に退部。それからは真っ黒な学校生活を送り――約三か月が経ち、夏休みになった。


「……変わってないな、この辺も」


 電車を何度も乗り換え、揺られ続ける事数時間。俺は山の中の田舎にある駅を出て、代り映えの無い景色を眺めていた。


 俺がどうしてここにいるのかというと、事情を知った母さんが、一人でいても落ち込むだけで良い事ない、いいから今年の夏は帰って来いとうるさいから、こうして仕方なく帰ってきている。


「野球で有名な中学に通う為に下宿させてもらってる叔父さんにも勧められたし、母さんを放っておくと後が面倒だからな……ていうか、呼び戻すなら車くらい駅まで寄こしてくれよ……」


 真夏の日差しが照り注ぐ中、俺はブツブツと文句を言いながら、家まで歩いていく。


 家は駅から歩いて二十分くらいのところにある。俺の歩くスピードは速い方だから、多分十五分もあれば到着すると思う。


 とはいえ、予定では帰るのは十二時と伝えているのに、今はまだ十一時……そのまま帰っても良いけど、ブツブツと文句を言われるのは面倒だし、どこかで時間をつぶした方がよさそうだ。


「そうだ、あそこなら人気が無いし、日陰も多くて涼しいな」


 あそこというのは、ここから五分ほど歩いた所にある神社の事だ。


 神主を務めるじいさんとは昔から付き合いがあり、ガキも頃によく境内で素振りの練習をさせてもらったんだ。うちの庭で出来なくもないが、木陰が多くて涼しいし、雰囲気が好きでよく通っていた。


 よし、そうと決まれば早速行こう。


「……本当に変わり映えがないな」


 駅前にある古臭い商店街を抜けると、辺り一面にバカみたいに広い畑が俺を出迎えた。


 ド田舎とは言わないけど、限りなくそれに近い。都会の生活に慣れてしまうと、どうしてこんな田舎で生活できていたのか不思議でしょうがない。


「到着っと……相変わらず誰もいないな」


 目的地に着いた俺は、変わらず人気のない神社に苦笑しつつ、石段に腰を下ろした。


 相変わらず暑いけど、木陰が多いおかげで、ある程度は涼しく感じられるな。


「…………」


 特に何かする訳でもなく、ただボーっと座っていると、足元に野球ボールくらいの大きさの石を見つけた。それをいつもの要領で投げようとしたが、肩の痛みのせいでまともに投げることが出来なかった。


「やっぱり……もう野球は出来ないのかな……」


 痛む右肩を左手で押さえる俺は、もう野球が出来ないという現実に打ちのめされそうになっていた。


 俺の人生は、全てを野球に捧げてきたと言っても過言ではない。友達と遊んだりせず、毎日練習漬けで……それ以外の生き方を知らない。


 俺……この先どうやって生きていけばいいんだろう……。


「はぁ……ん?」


 深い溜息をしていると、左肩を叩く感触を感じた俺は、咄嗟に後ろを振り向くとほぼ同時に、何か細いものに頬をムニュっとされた。


「あっ……」

「……茉奈?」

「ふっ……ふふっ……あはははっ! やーい、引っかかった引っかかったー!」

「…………」

「よっ、思ったより元気そうだね!」


 俺の後ろには、楽しそうに笑う一人の女子が立っていた。焦げ茶色のショートヘアーで、サイドテールと小さなアホ毛が特徴的だ。そしてやや焼けた肌がとても眩しい。タンクトップとホットパンツを身につけているからか、とても活発そうな印象を受ける。


 顔は凄く整っているが、ややお子様体型なのが玉にきずと言ったところか。


 ちなみにこの女子は、俺のよく知る人物だ。名前をあらた茉奈まな。ゼロ歳の頃から知っている、いわゆる幼馴染……いや、腐れ縁という奴だ。


「数年ぶりだってのに、いきなりいたずらかよ」

「だって、キュウったら凄い寂しそうに溜息してんだもん。だから、ちょっと場を和ませようとしただけ~」

「……そりゃ溜息も吐きたくなるって。お前は知らないかもしれないけど」

「知ってるよ。キュウのおばさんから事情は全部聞いたもん。野球が出来ない事も、人を助けてそうなったのも」


 茉奈は俺の隣に腰を下ろすと、クリッとした大きな黒い瞳を俺に向けてくる。


 キュウというのは、俺のあだ名だ。響きが可愛いからという理由で使っていた気がする。


「肩、どんな感じ? やっぱり痛む?」

「普通に生活する分には問題ないみたいだけど……もう野球じゃ使い物にならないって医者に言われた」

「やっぱりそうなんだ……」

「なんでお前がそんな悲しそうな顔してんだよ」

「悲しいに決まってるじゃん! キュウがそんな辛い事になってんだもん……」


 茉奈は膝を抱えながら、涙声で呟く。


「……って、わたしがクヨクヨしても仕方ないよね! 辛いのはキュウなんだし! というわけでキュウくんよ、今日からわたしと遊ぼう!」


 は? なんで急に遊ぶとか訳のわからない話になってるんだよ。そんな気分になれるはずないだろ。


「キュウはずっと野球漬けで、まったく遊んでこなかったでしょ? だから、今まで遊ばなかった分、この夏休みを遊び倒すの!」

「……意味がわからん」

「も~なんでわかんないかな~。一人でいたら、野球はもうできない~、これからどうしよ~って考えちゃうでしょ? だからそんな暇が無いくらい遊ぶの!」


 先程までの悲しそうな雰囲気から一転、ふんすっと握り拳を作る茉奈は、何故かドヤ顔で俺に提案してきた。


 言っている事は理解できる。でも、気分的なもの以前に、俺は野球以外は知らない事だらけだ。いきなり遊べと言われても困る。


「これからキュウがする事は、たくさん遊んで沈みまくった心を前向きにして、これからの事を考える事! その為に、この茉奈さんが一肌脱いでさし上げましょう!」

「骨になった茉奈は見たくない」

「物理的に肌は脱がないよ!? ていうか、肌を脱げる人ってそれ人どころか生き物なの!?」


 相変わらず茉奈のリアクションは大げさだ。よくもそんなに頭が回るものだと感心してしまう。あとその謎テンションにもついていけない。


 まあ……嫌いじゃねーけどさ。


「キュウの今日のご予定は?」

「十二時に家に帰るって伝えてるから、もう少ししたら帰る。その後の予定は無い」

「じゃあ、十三時になったらまたここに集合!」

「は? いや何勝手に決めて――」

「はい決定で~す! 苦情は受け付けませ~ん! じゃあまた後でね~」

「話を聞け! って行っちまった……」


 用件を伝えて満足したのか、茉奈はそそくさとその場を去っていった。


 全く、勝手に決めやがって……昔から、俺が一人で練習したいっていうのに、無理やりくっついて来て見学してたが……今でもその強引さは変わっていないようだな。


「あいつとずっと連絡取ってなかったし……なんだかんだで寂しかったのかもな……仕方ない、少しくらいは付き合ってやるか」


 茉奈の強引さに呆れつつも、ほんの……ほんのちょっっっぴり茉奈に感謝しながら、俺は帰宅の時間ギリギリまで神社でボーッとして過ごした。



 ****



「あっ! こっちこっちー!」


 荷物を家に置き、ついでに昼飯も済ませた俺は、約束通りの時間に神社に行くと、両腕をブンブンと振る茉奈の姿が目に入った。


「そんなに腕を振ってると、どこかに飛んでいくぞ」

「わたしの腕って取れるの!?」

「しかも切断部からジェット噴射する」

「それ完全に昔のロボットものの必殺技だよね!? いくらこの辺が田舎で放映してる番組が古いからって、そこまで古いのはあんまりやらないよ!?」


 適当に言っただけなんだが、茉奈は先程と変わらずのテンションで返してきた。暑い中元気なものだと感心する。


「実はわたしね、キュウは来ないんじゃないかって思ってたんだ。キュウ、元気なかったし……家に引きこもるかなって」

「お前の事だから、どうせ断ったら家にまで押しかけて引っ張り出すだろ」


 茉奈が無理やり俺について来たり、ワガママを聞かせる事はほぼ日常と化していた。だから、今回も断ったところで無駄だと思っただけだ。


「えーやだーなんでお見通しなのー? きもーい」

「帰る」

「わー! ごめんってばー! 謝るから帰らないでよぉー!」

「抱きつくな鬱陶しい」

「ふぇぇぇぇん! 帰らないって言うまで離れないぃぃぃぃ!!」

「ウソ泣きヘタクソかよ。あーもう、わかったから離れろ!」

「ふひひ~やったね~」


 しょんぼりしたり、謝ったり、ウソ泣きしたり、笑ったり……茉奈は相変わらず忙しい奴だ。ついていくこっちの身にもなって欲しい。


「それで、どこ行くんだよ」

「うーん、とりあえずお散歩?」

「適当かよ」

「だって、こんな田舎で出来る事なんて、お散歩か畑仕事とかくらいでしょ?」

「……否定できないな」


 自分の故郷をバカにするのもアレだが、この辺に娯楽施設と呼べるものは無い。どうしても都会らしい遊びをしたいとなると、最低でも電車に一時間は乗らないといけない。不便な土地すぎて笑えてくる。


「そういう訳だから、適当にお散歩デート! はい決定! というわけでレッツゴー!」

「おわっ!? 引っ張るな!」


 茉奈は俺の制止など一切聞かず、手を取って歩き始める。


 ケガをしていない左手を掴む当たり、ある程度の配慮は出来るんだと思う。その配慮の能力を、少しだけ俺の話を聞く能力に分けられないだろうか。


「久しぶりの故郷はどう?」

「ビビるレベルで変わり映えが無い」


 周りにはいくつかの民家と、広大な畑しかない。先程の駅の方に行けば、ある程度建物が増えるけど、この辺には本当に畑と古い民家しかない。


「だよねー! 発展のはの字も無いよね!」

「俺がいなくなって数年だし、劇的に変わってる方がビビるけどな」

「それは言えてる! これでもし帰って来て、高層ビルだらけになってたらどうする?」

「多分ぶっ倒れる」

「何それウケる! でもわたしが同じ立場だったら、同じリアクションになりそう!」

「…………」


 茉奈と昔のように、適当に会話をするのは良い。散歩も百歩譲って良いとしよう。だが……なぜ茉奈は俺の手を握ったまま歩いているんだ?


 べ、別に嬉しくなんかは無いぞ。正直迷惑だって思ってるからな! さっき抱きつかれたのも嬉しくなんてないぞ! これっぽっちもドキッとなんてしてないからな!


「おい茉奈、いつまで手を繋いでるつもりだよ」

「え、別にこんなの数えきれないくらいしてるんだし、今更気にする?」

「昔は昔、今は今だ」

「あれれ~? もしかして……緊張してるとか~? それとも照れ隠し~? そういえば、さっき抱きついた時も変に焦ってたし……野球バカにも、ちゃんと思春期が来たのか~。わたしゃ嬉しいぞ~」


 ぎくり……。


「だ、誰がお前なんかに緊張するか! そのまな板なお子様体型を何とかしてから言え!」

「誰がまな板でお子様体型で育つ希望もない、将来ドラム缶候補生だ!?」

「そこまで言ってねえよ……」

「言った! 言いました~! 慰謝料として十億円請求します~!」

「桁の付け方が小学生すぎるだろ」

「小学生は慰謝料なんて難しい言葉知りませ~ん!」


 茉奈は頬をパンパンに膨らませながら、凄い早口でまくし立てる。


 流石に小学生に対して偏見が過ぎると思うんだよな……頭の良い小学生なら普通に知ってるだろ。なんなら今の世の中にはネットがあるし、いくらでも学ぶ機会はありそうだ。


「ていうかさ、嫌なら手を離せばいいじゃん!」

「お前がずっと強く握ってるから離れられないんだよ」

「わ~人のせいにした~最低だ~」

「こいつ腹立つわぁ……」


 くそっ、茉奈といると調子が狂う……でも、この空気が嫌じゃないって思ってる俺もいる……気がするだけだ! 普通に嫌だからな!?


 ただ……茉奈のおかげで、落ち込んでいる暇が無いっていうのは事実だ。そこだけは感謝だな……。


「それにしても茉奈、お前の手ってこんなに冷たかったか?」

「え、そ……そんなに冷たい?」

「割とな」

「き……きっとあれだよ! 心が温かい人は手が冷たいってやつ!」

「……はっ」

「え、鼻で笑うとか地味に傷つく事しないでよ!? やっぱり慰謝料として――」

「そのくだりはもういいって」

「ちぇ~」


 ぶーぶー言う割には、俺とつないだ手を離すつもりのない茉奈。


 こんな所を知り合いに見られたら、なんて言われるか……と思ったけど、こんな田舎だから大体の住人とは顔見知りだし、俺達がガキの頃から付き合いがある事は知っているし……今更なんか言われる事は無いか。


「まあいいや。とりあえずこんな田舎道歩いてても仕方ないし、駅前にでも行くか」

「あー……えっとー……わたし、この辺をぶらぶらしたいかなー……なんて」

「こんな所を歩いててもつまんないだろ」

「わたしはキュウといるからつまんなくないもん。それに……数年振りに会ったんだし、二人きりになりたい」


 えっ……それって……。


「……なーんてね! どうどう? ドキッとした?」

「は? 今のウソ?」

「……にひひ」

「こ……この野郎!」

「わーキュウが怒ったー! にっげろー♪」


 俺をおちょくった茉奈は、楽しそうに笑いながら走りだす。


 くっそ、俺で遊びやがって! 絶対に逃がすかよ!!


「は、はっや……」

「こちとらずっと走りこみしてたからな」

「それにしたって速すぎるよ! チーターより速いんじゃないの!?」

「最速の動物に勝てたら、もう人間辞めてると思うんだが」

「え、キュウって人間じゃなくて野球バカでしょ?」

「野球バカを新しい生物にするな」


 走りだしてから数秒程で捕まった事がよっぽどビックリしたのか、茉奈は少し引いたように口をポカンと開けていた。


「おやおや、誰がドタバタと走ってるのかと思えば進藤じゃないか」

「…………」


 背後から嫌味ったらしい話し方に、心の中で舌打ちをしながら振り返ると、そこには眼鏡をかけた男子が立っていた。


 こいつは明智あけち。俺と同じ小学校の出身で、俺と同じ様に野球をしている男だ。中学はここから電車で通える中学に通い、野球を続けていると聞いた事がある。


「偉大な父を持ってると、こんな所で呑気に走り込みをしていても上達できるなんて、羨ましい限りだねぇ。あっ、そういえばケガしてもう野球が出来ないんだっけ? これはこれはご愁傷様」

「……!!」


 今にも噛みつきそうなくらい、怒りの表情を浮かべる茉奈の手を握って静止させる。


 こいつは見ての通り、かなり嫌味な男だ。特に俺への態度は悪い。どうやら俺が野球選手の息子で、その血を引く俺は、普通よりも野球センスを持っていると思い込んでいるらしい。


 明智や野球部の連中は勘違いしてるみたいだけど、俺に野球センスはない。だから、少しでも努力で補うために、毎日欠かさず練習をし続けていたんだ。


「お前こそ、こんな所で遊んでいていいのかよ」

「僕はこれから塾なんだよ。ちゃんと勉強もして良い高校に入学して、そこで盤石な野球人生を送るためにね。お前のような、野球以外を知らないバカとは違うんだよ」

「…………」

「そうそう……風の噂で聞いたけど、部員を庇ってケガしたんだってね。バカすぎて呆れちゃうよ」

「……っ! お前みたいな奴にキュウの何がわかるんだ!! 勝手な事を言うなこのメガネノッポ!! そんなんだから小学校の頃からキュウにずっと勝てないんだよバーカバーカ!!」


 ついに怒りが爆発した茉奈の手を更に強く握り、少し落ち着けと目で訴えかけると、察してくれたのか、茉奈はそれ以上は何も言わなくなった。


「……話は終わりか? 俺は忙しいんだ」

「野球を失って何も無くなったお前が、何に忙しいんだい?」

「お前にそれを言う義理は無い」

「ふっ……負け犬の遠吠えもここまで来ると清々しいね。それじゃ僕はそろそろ行くよ。くくっ……あの進藤が野球を失った……考えれば考える程面白くて仕方ない……! あははははは!!」


 明智は高笑いを残して、駅の方へと去っていった。その姿が完全に見えなくなったタイミングで、茉奈が強引に自分の方へと俺の身体を向けさせた。


「キュウ、なんで言い返さないの!?」

「明智の言い方は腹立つが、言っている事は間違っていないからな。それに、あいつが俺に突っかかってくるのなんて、昔からだろ?」

「そうだけど……わたし、キュウがあんなにバカにされて……悔しいよ……」

「俺は別に気にしてないから、茉奈も気にするな」

「…………」


 あんなにバカにされて、正直悔しいし腹立たしい。あのままぶん殴ってやりたいとも思った。でも、そんな事をしても何の解決にもならない。明智が俺を貶す理由を一つ増やしてしまうだけだ。


 まあ俺の事なんかどうでもいい。問題は茉奈が落ち込んでしまっているという事だ。いつも元気の塊で俺を振り回す茉奈が落ち込んでいるというのは、正直かなり居心地が悪い。


「そんな落ち込んでないで、さっさと行くぞ。今日は……散歩デー……デ、デデ……デート……なんだろ?」

「…………」


 慣れない事を言おうとしたせいか、完全に挙動不審になっている俺の事を、茉奈は目をパチクリさせながら見つめてくる。


 完全にやっちまった気がする。かなり強引にとはいえ、茉奈のおかげで、今日はあまり野球の事を考えずに済んでるから、感謝の意味を込めて元気づけようとしたんだが……。


「……キュウ、そこはしっかりと言わないとダメなんだよ?」

「ほっとけ」

「にひひ~デートって言うだけで照れちゃうなんて、キュウは可愛いねぇ」

「くっそぉ……」


 余計な事を言わなきゃよかった……完全に自分から地雷を踏んでしまったぞ。


「でも……ありがと、キュウ」

「……なんか言ったか?」

「なにも言ってないよ!」


 咄嗟に誤魔化すように、茉奈は俺ににこやかに笑ってみせた。


 ……素直に礼を言われると、背中がむずがゆくなる。聞こえないふりをして正解だった。


「ささっ、キュウご待望のお散歩デートの続きしよ!」

「別に望んでねーし。って、何さりげなく腕組んでんだ」

「だってデートだし? この方がキュウも嬉しいだろー?」

「そ……そ、そんなお子様体型に抱きつかれても嬉しくねーし……」

「んー? なにかなー? 聞こえなかったから、もう一回言ってごらんー?」

「すみませんなんでもないです」


 茉奈の背後からどす黒いオーラのような物を見た俺は、すぐさま謝罪をすると、茉奈はふくれっ面で腕に力を入れた。


「キュウってば、女心が全然理解できてないよね! あっ、野球バカにそんな高等技術を求める方が間違ってるよね……なんかごめんね……」

「それ謝ってないよな? バカにしてるだけだよな?」

「気のせいだと思うよー、かっこぼう」

「清々しいほど棒読みだなおい。あと自分でかっこぼうとか言うな。そもそも茉奈は男心がわかるのかよ」

「うーん、他の男子は知らないけど、キュウならわかるよ。野球がもう出来ないどうしよーって思いつつ、可愛い幼馴染とイチャイチャして内心ドッキドキのキュウくん」


 ……可愛いかは置いておくとして……そんなに外れてないのが腹立たしい。それと同時に、理解されてるんだなって嬉しく思ってしまってる自分がいる。


「キュウは単純だから、簡単にわかるんだよね~」

「悪かったな」

「もう、そんな拗ねちゃって~。機嫌直して、お散歩の続きしよ?」

「帰る」

「だから捻くれた事言わない! ゴーゴー!」


 またしても俺の言う事を全く聞かない茉奈は、俺の左腕に抱きついたまま、散歩を続行する。


 くっつかれても茉奈の体温が低くて暑く感じないのはいいんだけど、尋常じゃないくらいドキドキするから……頼むから離れてくれ……。


 昔はこんなにベタベタしてくる奴じゃなかったはずなんだけどな……。


「…………」

「茉奈? 急に暗い顔してどうした」

「え、あ……ううん! なんでもないよ!」


 おかしなやつだな……まあいいや。変に言及してまた機嫌を損ねられても困るし、散歩に集中するとしよう。



 ****



「楽しかったね~!」

「俺は疲れた」

「またそうやって悪態をつくんだから~」


 日が少し傾くまで適当に散歩をし、神社まで戻ってきた俺達は、再会した石段の上に腰を下ろして談笑していた。


 まあ……楽しかったかどうかって聞かれたら……ほんの少しは楽しかった……かな、うん。それに少しは気晴らしになった。


「さて、明日はどうしよっか?」

「明日も遊ぶ前提なのか?」

「もっちろん! 言っておくけど、わたしは今までキュウと遊びたかったのを我慢してたんだからね~? だから、今までの分を取り返さなきゃ!」


 何故か俺が悪いみたいな感じの事を言いながら、俺のほっぺを指でぐりぐりしてくる茉奈。


 俺は無理やり野球の練習に付き合わせた事など一度もない。むしろ茉奈が勝手にくっついてきていただけだ。


 それを言ったところで、多分はぐらかされておしまいだろうし、わざわざ言ったりしないけどさ。


「それでキュウ、少しは楽になれた……?」

「……おう」

「本当に? わたしの目を見て言って」

「…………」


 俺が逃げられないように、両頬をがっしりと押さえた茉奈は、俺の事をジッと見つめてくる。


 クリッとして少し潤んだ大きな瞳はとても綺麗で、吸い込まれてしまいそうな感覚を覚えた。


「……なんで視線を逸らすの?」

「いやお前……この距離考えろよ!」

「……………………あっ」


 俺の目を見るのに夢中になっていたのか、俺達の顔は目と鼻の先と言ってもいいくらい近くにまで来ていた。このまま少しでも動いたら、キスしてしまいそうなくらいだ。


「ご、ごご……ごめん!」

「いや……わかってくれればいい」

「えっと……キュウにはまだ遊ぶのが足りないと見ました! なので、明日も同じ時間にここに集合! わたしも考えておくから、キュウもなにして遊ぶか考えておいてよ!」

「あっ、おい茉奈!」

「あーあー! 聞こえませーん! じゃあまた明日ねー!」


 耳まで真っ赤にした茉奈は、まくし立てる様にそう言いながら、神社から走り去っていった。


 もしあのまま俺が何も言わないで、そのまま顔をほんの数センチ前にやっていたら……茉奈と……って、何考えているんだ俺は。


「こういう時は練習して気を紛らわす――って、出来ないんだった」


 半ば自爆気味だったとはいえ、野球の事を思い出してしまった俺は、深い溜息を漏らしながら家に帰り、自分の部屋に真っ直ぐ向かうと、ベッドに顔からダイブした。


 はぁ……茉奈がいないと、やっぱり野球の事ばかり考えてしまう。こんな事を考えるのは、ケガしてから毎日だ。


 考えたって何の解決にもならないのはわかっている。もうどうしようもないんだ。


 ……わかってても……はいそうですか、じゃあこれからは別の道に進みますなんて、軽々しく言えるかよ……。


「……そういえば、まだここには残ってたな」


 俺の部屋には、昔使っていた野球道具の他に、俺が小学生の時に出た大会で貰った賞状などが置いてある。


 こんなの、もう持ってても仕方がない。見てても辛いだけだし、明日処分してしまおう。


「ゴミとして出してもいいけど、母さんに見つかったら、なんで捨てたんだってうるさいだろうし……燃やしちゃうか? 流石にそれは難しいか……なら埋めちまうか」


 幸いにも、山に行けばいくらでも埋められる場所はある。少し掘ってその中に捨ててこよう。バレたら不法投棄って言われるかもしれないが……その時は潔く謝ればいいだろう。山の持ち主も顔見知りだし、きっと許してくれるはず。


「そうと決まれば、いつ捨てに行くかだな……昼間は誰かに邪魔されそうだし、夜中は流石に暗くて危険だし……明け方が無難だろうな」


 そうと決まれば、早起きの為に今日はさっさと寝てしまおう。茉奈に付き合ったおかげで結構疲れてるし、すぐに寝れそうだ。


 そう思っていたんだが……夕食や入浴の後、いざ寝ようと目を閉じると、また思考がぐるぐるしはじめて……全然眠りにつけない。


 こういう時は、全く別の事を考えよう。そうだな……今日の茉奈との出来事を考えよう。


 久しぶりに会った茉奈は、正直あまり変わってなかった。まあ中学への入学をきっかけに故郷を出て、それから丸二年くらいしか経ってない。そりゃ劇的に変わるはずもない。


 そんな茉奈と、手を繋いだり……腕を組んだりしながら散歩して……途中で変な邪魔が入ったけど、まあ……楽しかったと思う。こんな気持ちは、ケガをしてから一度も感じてなかった。


 それ以上に、めちゃくちゃドキドキもしたけどさ……見た目も性格も変わってないけど、ベタベタと俺に触ってくるのは、昔は無かった。なんていうか……物理的な距離感が凄い近い。


 まったく、こっちの身にもなれ……あんなにベタベタされると、流石に緊張する。野球バカでも、立派な思春期男子だって茉奈はわかってないのだろうか?


「……はぁ。気を紛らわすのに、茉奈はかなり活躍してるけど……なんだかなぁ」


 溜息を吐きながらウダウダと考えているうちに、いつの間にか俺は意識を手放していた――



 ****



「よし、行こう」


 翌朝の五時に起きた俺は、野球道具と昔貰った賞状、スコップを持って家を出た。まだ外は少し薄暗く、空気も昼間に比べて、ややひんやりしている。それでも蒸し暑さは感じるけどな。


 さて、家を出るのは問題なく出来たけど……この辺りに住んでる人は年寄りが多い。そして年寄りだからなのか、朝もメチャクチャ早い。更に大体が知人だ。


 つまり……声をかけられて、俺の持ち物に疑問を持って根掘り葉掘り聞かれる可能性があるという事だ。最悪止められてしまう可能性もある。


「こればかりは運任せとしか言いようがないか……」


 最悪声をかけられても無視すれば良いし、走って逃げるのもありだな。後で適当な理由で誤魔化せばいいし。


 そう思いながら、山まで向かったのだが――結局誰にも会う事無く、神社まで来ることが出来た。心配して損したぞ……。


「まあいいや。さっさと埋めてしまおう」


 ある程度登ったところで、俺は持ってきたスコップを使って掘り始める。右肩が痛むせいで、実質左手の力だけで掘ってるようなものだからか、かなり掘るのに手間取ってしまった。


「ふー……こんなものか」


 ある程度まで穴を掘った俺は、背後に置いてあった野球道具を拾おうとした――が、それは叶わなかった。何故なら、いつの間にか俺の後ろに一人の女子が立っていて、それに驚いてしまったからだ。


「うおっ!? え……茉奈? なんでここに……?」


 驚きながらも誰かを確認すると、まさかの茉奈だった。昨日と全く同じ格好をしている彼女は、頬を掻きながら、あははと笑っている。


「えーっと……あ、朝の散歩?」

「聞いてるのはこっちなのに、疑問形で返されても……」

「まあ細かい事は言いっこなし! ていうか、なにしてんの?」

「……見ればわかるだろ。もういらないから処分すんだよ」


 流石に言い逃れ出来ないと思った俺は、素直に白状すると、茉奈の表情から笑顔が消えた。


「それ、埋めるって事?」

「そうだ」

「そんなの絶対に許しません」

「は?」

「キュウが今までの自分を否定するような事は、絶対に許さないって言ってるの!」


 怒りの形相で俺に詰め寄る茉奈。なんで茉奈の許可を貰わないといけないんだ……。


「うるさいな。こんなのが手元にあったら、その度に毎回思い出して辛くなる。だから処分する」

「……本当にそれでいいの?」

「何がだ」

「そんな簡単にプロになる夢を捨てていいの? あこがれのお父さんみたいになるんじゃないの? キュウの夢は、ケガに屈する程度のものだったんだね」


 なんなんだこいつは。俺の事を心配してるのか、それとも責めたいだけなのかは知らないが……俺の気持ちが茉奈にわかってたまるか!


「突然夢を奪われた俺の気持ちが、当事者でもないお前にわかるのかよ!」

「わからないよ!!」


 茉奈は俺の胸に勢いよく飛び込むと、俺の胸を何度もドンドンと叩きながら言葉を続ける。


「わからない……でも……キュウとバイバイするまでの間、ずっと近くで見てきたんだよ!? センスが無いって言われても、偉大な父親の遺伝子のおかげで上手くなってるって疎まれても、めげずに努力したのを知ってる! 練習や試合をしてる時、心の底から楽しんで、目を輝かせていたのを知ってる! だから……キュウには諦めて欲しくない……野球を捨てないで欲しいの……」

「茉奈……」


 段々と言葉尻が小さくなり、それに比例するように叩く力も弱くなる茉奈の必死の説得は、俺の胸に突き刺さるものがあった。


「それに、わたしとの約束……絶対に守るって言ったのに、破っちゃうの……?」

「約束……」

「そうだよ。ちっちゃい頃に……丘の上で交わした約束。忘れちゃったの?」


 ……忘れる訳もない。あれは確か四歳の頃だ。俺と茉奈は夜にこっそりと出かけて、星空が広がる丘の上で、将来の約束をした。


 それは、俺はプロになる。そして、茉奈は俺の――お嫁さんになるという約束。


 今思えば子供らしい約束だけど、俺にとっては大切な約束だ。それを持ちだすという事は、茉奈もそう思ってくれているのかな。


「忘れてねーよ。でも……もうケガは治らないって……」

「わたしね、キュウがケガして野球が出来なくなったって聞いた時から、ずっと考えてたの。本当はもっと元気になってからか、時が来たら言おうと思ってたんだけど……今言っちゃうね。右手がダメなら……左手があるよ!」

「左手……まさか」

「うん。左でやればいいんだよ!」


 茉奈は俺の事を見上げながら、衝撃の提案をしてきた。


 正直その発想はなかった。確かに右手が使えないなら左を使えばいい……のかもしれない。けど、言うのは容易いが、それを実現するのはあまりにも大変だ。


「ただでさえ利き腕でも必死に練習しないとレギュラーを取れないのに……左でやれと……?」

「素人のわたしでさえ、凄く大変な道のりだって思うんだから、実際にそれをやろうと思ったら、とんでもなく大変なんだよね。でもね、キュウ。わたしはキュウの夢への情熱を知ってる。なんてったって、小さい頃から特等席で見続けたからね。だからこそ、イバラの道でも超えれると思って提案してるの」

「……確かにプロでもケガを理由に利き手を変えた選手はいるが……」

「でしょ!? 救いようのない、アルティメット野球バカのキュウなら出来るって!」


 この場の空気を和ませようとしているのか、茉奈はにひひと笑いながら言う。俺もそれに釣られるように、僅かに口角を上げた。


「俺の事をバカにしているようにしか聞こえないんだが」

「気のせいだと思いますよ~♪」

「ったく、相変わらず調子の良い奴だよ、茉奈は」

「ふふーん、それが私の生き方だからね! あと、時間が許す限り、キュウの野球を特等席で見るのもわたしの大切な生き方!」

「ちっ……忘れてるかと思ったのに……」

「わーすーれーまーせーんー!!」


 これからも、茉奈のおじゃま虫攻撃は終わる気配は無さそうだ。


 まあ……別にいいんだけどさ。正直、向こうで練習してる時、近くに茉奈がいないのが凄く変に思っちまってるし。


 ……茉奈め、俺に変な洗脳でもかけたんじゃないだろうな?


「やれやれ……また練習の邪魔するのか?」

「すーぐそうやって悪態をつくんだから……それがカッコいいと思ってるなら、さっさと直さないとわたしに愛想尽かされちゃうぞー?」

「別に……俺は嫌われてもいいし」


 俺はそっぽ向きながら、照れ隠しでまた思ってもない事を言ってしまった。すぐに弁明しようと視線を戻すと、涙目の茉奈の顔がそこにはあった。


「え。やだ……泣きそう……」

「う……ウソだって。ていうか……茉奈以外の女とか興味ないし」

「え? ねえ、今なんて言った!?」

「あ、いや……その……は、腹が減ったって言った!」

「ウソが下手すぎる!? わたしもキュウの事は言えないけど!」


 か、完全に口を滑らせた! いや、別に間違ってはいないんだけど……それを本人の前で言うのは完全にやらかしてる!


 って、今はこんな事でじゃれてる場合じゃない。もっと先に茉奈に言わなきゃいけない事がある。


「その……ごめんな。俺の事を心配してくれたのに、きつく当たっちゃって……」

「ううん。わたしこそごめんね。強く言いすぎちゃった……」

「でもそれは、俺の事を心配してくれたからだろ?」

「そうだけど! キュウはすっごく辛いんだから、もっと言い方を考えるべきだったっていうか……!」


 互いに頑固な一面があるせいか、互いに自分が悪いと一歩も譲らず、しまいにはごめんの応酬になってしまい――数分程そんな事を繰り返していると、どちらからともなく笑いだしてしまった。


「ふふっ……変なの! じゃあ……お互いごめんって事で、この話はおしまい! そうだ、せっかく道具があるんだし、キャッチボールしよ!」

「キャッチボール?」

「そう! 左手を慣らす為の第一歩! こういう積み重ねが大事なんだよ!」

「……そうだな。やるか」

「そうこなくっちゃ!」


 俺達は少し離れてから、キャッチボールを始める。


 初めてやる左手のキャッチボールは、全くと言っていいほど上手く出来なかった。茉奈も野球の経験はほぼ皆無だから、こっちもまともに出来なかった。


 ……つまり、俺達がまともなキャッチボールなんて出来るわけがなかったんだ。それでも……今日のキャッチボールは、人生で一番楽しかったと思えるものだった。



 ****



 キャッチボールをした日から数日経った。あれから俺は、毎日のように茉奈と二人っきりで遊んでいる。


 ある日は人気の少ない川で水浴びをして、またある日は山に虫取りをして……あと、二人でキャッチボールをして遊んだ。


 本当はもっと左手の練習をしたかったんだけど、


『今までたくさん頑張ったんだから、今はゆっくりして身体を休めるべきだよ!』


 と、凄い剣幕で茉奈に怒られてしまった。それくらい茉奈は心配してくれているという事だろう。俺としても、茉奈と二人っきりでいるのは嬉し――ごほん、悪くないからいいんだけどさ。


「くっ……むずかしい……」


 家で晩飯を食っているだけなのに、俺はまるできつい練習をしている時の様に唸り声を上げていた。


 なぜかって? 左手で箸を動かしているからだ。なるべく右手の様に動かせるようになるために、こういう事から始めているんだけど……これが想像以上に難しいんだよな。


「球也、ごはん冷めちゃうわよ」

「お、おう……」


 俺の対面に座って飯を食っている母さんに、やや呆れ気味に言われてしまった。


「まったく、左手でプロなんて……球也がそこまで野球バカとは思ってなかったわ」

「酷い言われ様だ。ていうか、この案は俺が考えたんじゃないんだからな」

「あらそうなの? 誰の提案?」

「茉奈だよ」

「……………………茉奈、ちゃん?」


 あー、そういえば母さんには、最近茉奈と遊んでいる事とか言ってなかったな。左手でプロを目指す話も、飯を左手で食っている時に聞かれた際、理由を伝えただけで、茉奈の提案だって言ってなかった。


「それ……本当なの?」

「ん? 本当だけど。そうだ、言ってなかったけど、最近出かけてるのも、茉奈と遊んでいるからだよ」

「…………」


 どうして母さんは、そんな真剣な顔をして俺を見つめているのだろう? 別に俺が茉奈と一緒にいたって構わないだろ? こっちに住んでる時は、ほぼずっと一緒にいたんだし。


「球也。落ち着いて聞いて」

「え、なんだよそんな改まって」

「母さんが今から言う事は紛れもない事実。いいわね」

「だからどうしたんだって」

「茉奈ちゃんは……茉奈ちゃんはね、もうここにはいないの」



 ****



 翌日の朝。俺は電車を乗り継いでとある場所に向かっていた。


 目的地まで、大体一時間くらいで着くはずなんだが……俺にはたった一時間が、何十年もあるんじゃないかと感じてしまうくらいだった。


「冗談だよな……茉奈……」


 茉奈はもうここにはいない――


 昨日聞いた母さんの言葉が、何度も頭の中で蘇る。全て嘘であってくれ……母さんのタチの悪い冗談であってくれ……そう思いながら、俺は電車に揺られ続ける。


 予定通り一時間程が経ち、俺はある程度栄えた町にある駅で降りた。周りにはそこそこの数のビルが建ち、沢山の人が行き交っている。


 俺が下宿しているおじさんの家はもっと都会にあるため、そこに比べると栄えてないが、実家がある田舎に比べればまだマシだろう。


 そんな都会の中にある、とある建物を目指して俺は走りだした。一秒でも早く、真相を確かめたかったからだ。


「はぁ……はぁ……」


 汗だくになりながらも、俺はとある建物の前で止まった。そこは、大きな病院だった。


「す、すみません……」

「はい。なんでしょう?」


 俺は病院の受付で用件を伝えると、受付の人が俺をとある病室へと案内してくれた。その部屋の中には……一人の女の子が、静かに眠りについていた。


「茉奈……」


 間違いない。確かに茉奈だ……一体どういう事なんだ?


「おや、君は……」

「あ、えっと……茉奈の幼馴染の進藤、です」

「はじめまして。僕は彼女の担当医の川田だ。見舞いに来たのかい?」

「はい。茉奈は……」


 病室にいた川田と名乗った白衣の男性に茉奈の状態を聞こうとしたら、それを察してくれたのか、少し気まずそうに口を開いた。


「今から十日前に、彼女はこの近辺で交通事故にあってね……」

「こ、交通事故……?」

「そうだ。轢かれそうになってた小さな女の子を助けたんだ。幸いにも女の子は助かったんだが、代わりに彼女が……命に別状は無いんだけれど、脳にダメージがあって……ずっと眠り続けている」

「脳に……」

「そうだ。手術をすれば治るのだが……難しい手術でね。高額な手術費が掛かる」

「い、いくらですか?」


 恐る恐る聞くと、川田先生は人差し指をピンと立てた。


「えっと……十万? もしかして百万?」

「千だ」

「せっ……!?」


 完全に俺の見立てが甘かった……想像以上に高額だった。


 茉奈の家は片親で、正直裕福とは言えない。昔から、日々の生活ですら中々大変だと言っていたくらいだ。そんな家が、一千万もの大金をすぐに払うのなんて不可能だ。入院費も考えれば、尚更現実味が無くなる。


「先程も言ったように、現状命に別状はない。でも……いつ急変するかはわからないし、手術をしなければ、目を覚ます確率はほぼゼロだ。最悪手術をしても目覚めない可能性もある」

「そん……な……」


 茉奈は……もう目覚めない……? もう……俺に笑ってくれないのか……? 約束も守れないじゃないか……なんでだよ……なんでこんな事に……。


「大丈夫かい?」

「は、はい……」

「ならいいんだが。検診も終わったし、僕はそろそろ失礼するよ」

「はい……」


 そう言うと、川田先生は静かに部屋を出ていった。


 部屋の中に残った俺は、静寂が包む病室で眠り続けている茉奈のすぐ近くまで行くと、部屋に置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。


「茉奈……」


 名前を小さく呟きながら、俺は茉奈の手を軽く握る。ほのかに暖かいとはいえ、やはり普通の人よりは冷たく感じる……ここ数日間の茉奈と同じだ。


「茉奈……起きろよ……これから練習に行くからさ……お前も当然見に来るよな……なあ……」


 いくら呼びかけても、茉奈からは一切返事は帰ってこなかった。それが俺にはあまりにも辛くて……気づいたら、涙が零れていた。


「……どうして……茉奈がこんな目に……」


 俺は一旦手を離して、今度は茉奈の頭を優しく撫でる。それでも茉奈は起きる事はなかった。


 ひとしきり涙を流した後、俺の頭の中に浮かんだ一つの疑問。


 俺が見ていた茉奈は、一体何者なんだろうか?


 俺はこの数日間で、毎日茉奈に会っている。でも、茉奈が事故にあったのは、十日前と言っていた。そうなると、俺が帰省した日にはもう既にこの状況だったはずだ。


 だが……俺は確かに茉奈に会って、話をしている……。


「もう一人の茉奈……」


 何がなんだかよくわからないけど、もしあの茉奈が偽物だというなら、一体何が目的なのか、問いたださないといけない。


 そう判断した俺は、茉奈にまた来るからなと言い残してから、急いで地元へと戻っていくのだった――



 ****



「さて、茉奈はどこにいるのか……」


 地元に帰ってきたのは良いが、茉奈がどこにいるかの見当がつかない。今までは神社で合流していたから、今日もいるのかと思って向かってみたが、茉奈の姿はなかった。


 神社でしばらく待っていたが、茉奈は来なかった。仕方なく闇雲に探して回ったが、茉奈を見つける事は出来なかった。


「いつもひょっこり出てきてたくせに、こういう時には出てこないのかよ……」


 日が落ち始め、辺りは夕暮れ空になってきているというのに、いまだに見つけられないせいで、焦りだけが募っていく。


 考えろ……茉奈が行きそうな所はどこだ……?


「そうだ、まだあそこに行っていなかった」


 幼い頃、俺達が約束を交わした丘の上……俺達にとって、とても大切な場所だ。もしかしたら、あそこにいるかもしれない。ダメ元で行ってみよう。


「はぁ……はぁ……」


 流石にさっきから炎天下を走り回ってるせいで、体力も限界になってきたな……でも、ここで足を止めている訳にはいかない。


 そう自分に言い聞かせながら走る事十分——約束の丘の上にたどり着いた。そこには、大きな木が一本だけ立っている。その木の下には、膝を抱えて座っている女の子がいた。


「茉奈!!」

「え……キュウ?」


 あまりにも大声で呼んでしまったせいか、茉奈はビクンっとなりながらも、俺の方を向いてくれた。その表情は、昨日まで見ていた茉奈と全く同じものだった。


「も~キュウってば、約束すっぽかしたでしょ~? 今日も遊ぶって言ったのに! それにしても、よくここにいるってわかったね。ママに聞いたの?」

「茉奈……お前……」

「あれ、なんでそんな真剣な顔してるの? そんな顔してないで、こっちおいでよ。日陰で涼しいよ~」

「ああ……」


 ぽふぽふと、短い草が生い茂る地面を叩いて、隣に座るように促す茉奈の隣に腰を下ろした俺は、深く深呼吸をした。


 俺は聞かなきゃいけない。どうして茉奈がここにいるのかを……でも、それをしてしまった結果、もしこの時間が永久に失われてしまったら……?


 ……考えていても仕方ない。腹をくくろう。


「お前……何者だ? どうして眠り続けている茉奈が、ここにいるんだ?」

「……もしかして、わたしの事……聞いちゃった?」

「ああ、聞いた。それに会ってきた」

「そっかぁ……知っちゃったかぁ……」


 ばつが悪そうに笑ってから、茉奈は俺に今まで見せた事が無いような、とても悲しそうな表情を向けた。


「お前は、茉奈なのか?」

「そうだよ。わたしは新茉奈。厳密に言うと、わたしはおばけってところかな?」


 おばけ……イマイチ言っている事がわからない。もしも茉奈が死んでるなら、化けて出てきたんだって納得……は出来ないが、まだ少しは理解できたと思う。


 でも、茉奈は今も病院で眠り続けているし……。


「あはは……意味わからないよね。わたしもよくわかってないんだけど……キュウは、わたしが事故にあったのは知ってるよね?」


 茉奈の問いに、俺は軽く頷いて見せた。


「あの日ね、わたしはキュウがケガで帰ってくるって聞いて、なにか元気付けるのに良い物がないかなって思って、街に行ったの。そうしたら、一台の車が信号を無視して走ってきたの」

「…………」

「その時に、横断歩道には小学一年生くらいの女の子がいてね。咄嗟に助けようと飛び込んで……なんとか女の子の手を掴んで歩道に引っ張る事ができたの。でも……かわりにわたしが轢かれちゃった。助けるならちゃんと自分も助かれよって話だよねー!」

「俺と……同じような理由で茉奈も……」

「わたし達、似た物同士だね!」


 わざと俺に心配かけないようにしているのか、茉奈は笑顔で言う。だけど……その身体は小刻みに震えていた。


 きっと事故の事を思い出して……そして、これからの事を考えてしまい、怖くなったんだと思う。


 そんな茉奈を少しでも慰めようと、俺は茉奈の手を強く握った。


「それでね、助けた直後に急に目の前が真っ暗になって……すごく寒くなって……わたし、死んじゃうのかなって思った。でも、わたしは死にたくなかった……キュウと会いたい。落ち込んでるキュウを元気付けたい。キュウとの約束を果たしたい。そう思ってたらね……気づいたらわたしはここにいたの」

「…………」


 正直、全く信じられない話だ。普通に考えて、そんな現象が科学的に考えて起こるとは思えない。


 でも、俺には茉奈が嘘をついているようには見えなかった……。


「し、信じられないよね? 大丈夫、わたしも信じられないから。あっ、でもでも! 実際にこうしてわたしはここにいるから! きっとこれは、神様がわたしのお願いを聞いてくれたんだと思う。あれかな……命の延長戦ってやつ?」

「そんな……自分の命がもうないなんて言い方をするなよ……」

「ごめん……」


 茉奈は小さく謝罪を口にしながら、俺の方に頭を乗せる。


 茉奈としては、場を和ませるために俺に合わせた言葉を使ってくれたんだろうけど……ちっとも笑えないって。


「それで、この事はおばさんは知ってるのか?」

「ううん、ママは知らない。ていうかね……わたしの姿って、キュウにしか見えないみたいなの。声も聞こえないみたい」

「そんなバカな……こうして茉奈はここにいるじゃないか」


 俺の手や肩には、確かに茉奈の感触がある。ややひんやりしているけど、生きている人間だってわかる柔らかさがある。


 なのに、俺以外の人間には見えもしないし、声も聞こえないって……。


「そうだよね。でもダメなの。ここで目覚めてから、すぐにわたしはお家に帰ったんだけど……ママにはわたしの姿が見えてなかった。いろんなところに行ってみたけど、他の人も同じだった」

「……もしかして、明智と会った時……あんなにくっついて、更に怒鳴りつけたのに、明智が何も反応を返さなかったのは……」

「見えてもないし、聞こえてもないからだよ。だから、あんな事を言っても無駄なのはわかってた。でも……言わなきゃ気が収まらなくて」


 正直、あの時は特に何も思わなかったけど、今考えると不自然だ。あの嫌味な明智なら、俺が茉奈と仲良くしてる所を見たら、絶対にそこを突いてくるはず……でも、何も言わなかった。


 茉奈の言う事が正しければ、明智の件は確かに納得できる……あっ、もしかして……茉奈が人が多そうな所を避けて、俺と二人きりになれる場所……人気のない川とか山、神社で遊んだのは……俺にしか見えない状態で話してたら、俺が変な目で見られるからって事か?


「それでね。キュウが帰ってくるまで数日ほどあったから、それまでは一人ぼっちで過ごしたの。この身体だとお腹は空かないみたいで、空腹で倒れちゃうことは無かったけど……寂しかった。でも、それ以上に……不安だったの。もしかしたら……キュウにも見つけてもらえないかなって……落ち込んで帰ってくるのに、わたしには何もしてあげられないのかなって……」

「茉奈……」

「でもでも! キュウはわたしに気づいてくれた! 名前を呼んでくれた! それがすっごい嬉しくて、いつも以上にはしゃいじゃったし、たくさんベタベタしちゃった! これもわたし達の絆があるからだよね!」


 いつもだったら、何言ってんだって反論の一つでも返す所なんだけど、今はそんな気分になれなかった。


「……かもな。それで……茉奈はこれからどうするんだ?」

「あー……それなんだけど……わたし、なんとなくわかるんだ」

「なにがだ?」

「タイムリミット。ほら……見て」


 茉奈は繋いでいるのとは逆の手を俺に見せる。


 え……なんか、少し透けてないか……? 俺の見間違いか……?


「手が少しずつ透けてきてるでしょ? このままわたしは消えていく運命なんだと思う」

「そんな……!」


 消えるって……消えたら茉奈はどうなるんだ? またどこかに現れて、一人ぼっちで彷徨うのか? それとも、本体の茉奈が死ぬのか?


 ふざけんな……そんなの絶対に嫌だ……どうすればいいんだ……!


「茉奈、教えてくれ! どうすればお前は消えなくて済むんだ!?」

「落ち着いてキュウ。神様の奇跡は、ずっとは続かないって事だよ……きっともう止められない。消えたらどうなるかはわからない。また眠りにつくだけなのか、それとも死んじゃうのか……でもいいの! キュウと話せて、元気づけられたから!」

「…………」

「キュウ……ちゃんと夢、叶えてね……ずっと見守ってるから。わたしがおばけになってまでアドバイスしたんだから、叶えなかったら承知しないよ!」


 口では強気で前向きな事を言っているけど、握っている手が――いや、手だけじゃない。身体が震えている。そんな茉奈の事を、俺は優しく抱きしめた。


 ……何がどうすればいいんだ、だ……野球バカの俺にやれる事なんて、一つしかないじゃないか。


「……キュウ……わたし……怖いよ……もう、こうやってお話しできないのかな……ずっと一人ぼっちになっちゃうのかな……死にたく、ないよぉ……」

「茉奈は死なない。俺が茉奈を助ける」

「助けるって……どうやって?」

「プロになる。プロになれば……年棒で沢山の金がもらえる。その金を、茉奈の手術費に使う」


 プロになれば、多額の金が入ってくるけど、正直俺は金にはあまり興味が無い。普通の暮らしが出来る分があればいいと思っているくらいだ。その金を茉奈の為に使えるって思えば、これほど有意義な使い方はない。


「そもそも、元からプロにはなるつもりだったんだし、その目的がより叶えなきゃいけないものになっただけだ。それに……茉奈を助けないと、茉奈からの約束が叶えられないだろ……」


 さっきから、クサイセリフを言ったり、抱きしめたりとかしてるせいで、心臓がバックバクで、俺が先に死にそうだ。


 でも、ここで言わないで結局もう言う機会がなくなったら、俺は一生後悔するだろう。だから……今まで素直になれなかった分、今だけは俺の気持ちを包み隠さず伝えよう。


「キュウのお金を、わたしに使って良いの?」

「別にいい。それで茉奈が助かるなら」

「……ほんの数日前まで、あんなに落ち込んでたくせに、大きく出るじゃん?」

「まあな。もう落ち込むのは終わりだ……それに……茉奈が一緒にいてくれたおかげで、前を向こうって思えたしな」


 ただでさえ利き手じゃない方でやるというハンデを背負っているんだ……人よりも何十倍も努力しなければならない。そんな俺に、グダグダと考え事をしている時間なんてない。


「にひひ……まるで白馬の王子様みたいにカッコイイじゃん! ほんの少し前までは、デートって言うのにも緊張していたキュウとは思えないね!」

「……ちゃんと伝えなくて、あとで後悔はしたくないからさ。まあ、思い出したら恥ずかしさで悶絶するかもだけど」

「なにそれチョー見たい!」


 何とか元気づけられたようで、茉奈はさっきの暗い顔が嘘だったんじゃないかと思えるくらいの笑顔のまま、俺を見上げながらからかってから、再度俺の胸に顔をうずめた。


 それから俺達は、思い出の地で寄り添いながら、色々な会話をした。


 小さい頃の思い出……最近の楽しかった事……将来は何をしたいか……。


 特に未来の話を重点的にしていたら、いつの間にか日は完全に沈み、満天の星空が空に広がっていた。


「……あの約束をした日も、こんな星空の下だったね」

「そうだな……」

「あっ……そろそろ時間みたい」


 そう言う茉奈の身体は、ぼんやりと光り始めながら、だんだんと透明になり始めていた。


「……そうか」

「じゃあ……ちょっとの間、バイバイだね……」


 ちょっとの間。それは一年なのか、五年なのか、十年なのか……それはわからない。でも、これはきっと永遠の別れではないはずだ。


 俺はそう信じながら、茉奈からほんの少しだけ身体を離すと、茉奈はジッと俺の事を見つめる。


 その視線に応えるように、俺は少しずつ茉奈の顔に自分の顔を近づけていき……そっと唇を重ねた。


「……すぐに起こしてやるからな。だから、大人しく待ってろよ」

「キュウ……うん……うん! ありがとう……! ずっと待ってる! キュウ、大好きだよ!」

「俺も、好きだよ……茉奈」


 その言葉を最後に、茉奈は光の粒となって、その場から消えて――空に昇っていった。


 俺は光となった茉奈を見つめながら、優しく微笑んで見送った。きっと茉奈は、俺が泣いてるよりも、笑っている方が安心して眠れるはずだと思ったからだ。


「……いつまでも感傷に浸ってる場合じゃない……よな」


 光が完全に消えたら気が緩んだのか、一筋の涙が俺の頬を伝った。


 ケガをしてから、俺は散々泣いた。絶望した。そんな俺は、今この時を持って死んだ。これからは……茉奈を救う為に、そして俺の夢をかなえる為に……プロになるんだ!



 ****



「出るかな……」


 家に帰ってきた俺は、すぐに自室へと駆けこむと、スマホを操作して、とある人へと電話をかけた。


 まだ寝ている時間じゃないと思うんだけど……出るかな。


「あ、もしもし。父さん?」

『球也? お前から電話してくるなんて珍しいな』


 電話の向こうから、聞き慣れた父さんの声が聞こえてきた。


 テレビで活躍しているのを見てるから、元気なのは知っていたけど……こうやって声を聞くと、より一層元気そうだと感じられる。


「そうかもな。今大丈夫?」

『ああ。すまない、最近色々と立て込んでいて、連絡が全くできなかった。肩の調子はどうだ?』

「投げようとすると痛むけど、日常生活に支障はないよ。野球じゃもう使い物にならないみたいだけど……」

『そうか……』


 電話の向こうの父さんの声が少し暗くなったのがわかった。


 父さんは昔から俺に野球を強要する事はなかった。俺の好きな道を歩ませる為に、野球を無理やりやらせないと決めていたそうだ。


 でも、俺が野球をやると言った時はやっぱり嬉しかったみたいで、ずっと俺の事を応援してくれていたんだ。


 ケガをした時も、シーズンが始まったばかりなのに、俺の元に急いで来ようとしていたと聞いた時には、目頭が少し熱くなったものだ。


「俺、父さんに言っておきたい事があるんだ」

『なんだ?』

「俺……やっぱり父さんみたいなプロになりたい。でももう右肩は使い物にならない……だから……左でやろうと思う」

『…………』


 ——沈黙。


 やっぱりプロの目から見て、そんなのは無謀だって怒られるだろうか。いや、無謀だろうが何だろうが、俺はやるって決めたんだ。


『………………それは、覚悟の上か? お前もわかっているかもしれんが、利き手を変えるというのは、想像以上に大変だ。それに、いくら練習してもダメな時もある。それでもやるのか?』

「やる。やらなきゃいけないんだ」


 間髪入れずにそう答えると、父さんの少しくぐもった笑い声が聞こえてきた。


『ふっ……ふふっ……即答だな。俺に似て野球バカだよ、お前は』

「そりゃ父さんの息子だからね」

『この話、母さんにはしたのか?』

「してるよ。それで、今左手に慣れるように、箸を左手で持ったり、ボールを左で投げたりしてるんだけど……何かいい練習方法が無いか聞きたくて電話したんだ」

『そうか。それなら、俺の友達の選手に、ケガを理由に利き手を変えた奴がいるんだが……そいつがどんな練習や訓練をしたのか聞いておこう』

「え、いいの!?」


 俺としては、父さんへの報告と、プロの父さんからどうすればいいかアドバイスを貰いたくて電話をしたんだけど、まさかの提案に驚きを隠せなかった。


『当然だ。夢に向かって進む息子を応援しない父親がどこにいる。少し時間はかかると思うが、それでもいいか?』

「全然いいよ! ありがとう父さん!」

『これぐらい気にするな。他に用はあるか?』

「いや、ないよ。報告とアドバイスを貰いたかっただけだから」

『そうか。最近暑いからって、腹出して寝るなよ』

「わかった。父さんも残りのシーズン頑張って」

『ああ。じゃあな』


 通話を終えた俺は、スマホをベッドに投げてから、それを後追いするようにベッドに倒れこんだ。


 まさか俺と同じ様な境遇の人からアドバイスを貰えるなんて……ラッキーなんてレベルじゃない。このチャンス、絶対ものにしてやる……!


 茉奈……待ってろよ。俺は絶対にプロになるからな!



 ****



 翌日から、俺の特訓が始まった。


 最初は身体作りをするために、右肩に負担がかかりにくい筋トレや走り込みをしつつ、左手の動かし方を身体に覚えさせた。


 それと同時並行で、父さんの友達という選手に教わった、左への移行の為の練習を続けた。


 その選手はもちろん俺も知っている、凄い投手だった。聞いたところによると、オーバーワークで肩を壊してしまい、それでも諦めきれなくて左投手に移行したそうだ。


 そうして夏休みが終わり、二学期が始まった。


 俺の特訓を目撃した野球部の連中が、わざわざ俺の所に来てバカにしたり、無理に決まってるだろって言ってきた。それでも俺は、一切耳を傾けずに練習に励んだ。そんなくだらない事に割く時間はないからだ


 晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日も――俺は毎日トレーニングをした。全ては茉奈の為、夢の為。


 それから半年程たったある冬の日、なんとシーズンが終わってオフだからという事で、父さんが友達の選手と一緒に俺の所に来て、俺の練習をたくさん見てくれた。


 そのおかげで、ある程度は左で投げるのが形になってきた。


 とはいえ、まだ形になっただけだ。これから球速を強化したり、変化球の練習もしなければいけない。口で言うのは簡単だけど、これが想像以上に大変だ。


 大変だけど……俺は諦めずに練習した。筋トレをし、走り込みをし、投げ込みをし、左手の感覚を養う訓練をした、


 あと、練習の合間を縫って、茉奈の見舞いにも通い続け、最近は何があったかを茉奈に報告する日々を送り続けた。


 そうして中学を卒業した俺は、実家から通える範囲内の高校で、野球が強い高校に入学した。この高校に入学する為に、過去一と言って良いくらい勉強したのはここだけの話な。


 結論から言ってしまうと、俺は高校生活では鳴かず飛ばずだった。ある程度のピッチングは出来るようにはなってきたけど、レギュラーになるまでには至らなかった。もちろんドラフトで名前が出る事も無かった。


 正直かなり堪えた。茉奈と別れたあの日から死に物狂いで練習したのに、俺の努力は一切報われなかったんだから。もう駄目なのかと頭をよぎるくらいには辛かった。


 でも……心が折れる事はなかった。今も茉奈は俺を信じて眠り続けている。こんなところでへこたれている場合じゃない。


 そうして高校を卒業し、俺は大学生になった。


 大学でも野球を続けていたんだが……ようやく努力が実を結んだのか、三年生の時に、ついにレギュラーに選ばれて、公式戦に出場した。そこで完封試合を数回、更には完全試合まで達成。


 その成績が評価された俺は、無事ドラフトに指名されて、大学卒業と同時にプロの世界に飛び込んだ――



 ****



「あー疲れた……みんなテンション凄かったなぁ……」


 プロ生活三年目。俺は先程までのチームメイトや監督陣達のはしゃぎっぷりを思い出し、思わず苦笑してしまった。


 今日は日本シリーズの最終戦。俺は先発を任されて九回まで投げた……のはいいんだけど、まさかの九回裏、ツーアウト満塁で一点差という状況に追い込まれた。まさにスポコンのお約束とも言えるような状況。


 そんな状況でも、俺はいつも通りの投球をして……無事に三振を取り、俺が所属するチームの優勝に貢献した。


 優勝は確か十年振りだったはず。そのせいか、監督やコーチがもう大はしゃぎで……ビールかけがとんでもない盛り上がりをした。


 ちなみに、相手のチームにはあの明智が所属していた。途中でKOされて交代した時の悔しそうな顔が、今でも鮮明に思い出せる。


「今年のシーズンもあっという間だったなぁ……そもそも、ここまでがあっという間だった」


 ケガをしてから、ケガをする前よりも無我夢中で野球に取り組んでいたせいか、あっという間に月日が経ってしまった。もうあれから十年経ってるんだよな……。


「感傷に浸ってないで、さっさと帰ろう」


 俺は疲れているのにもかかわらず、閑静な住宅街を駆け抜けていくと、少し小さめの一軒家の前で止まった。表札には、進藤と書かれている――まあ俺が建てた家だ。


 その家のドアのカギを静かに開けると、真っ暗だった部屋にパッと明かりがついた。


「おかえり、キュウ!」

「ただいま。まだ起きてたのか? もう日が変わるぞ」

「そりゃ起きてるよ~旦那様が優勝して、しかも完投選手! そんな人を待たないで寝ちゃうとか、奥さんとしてダメダメでしょ!」


 俺を出迎えてくれた女性——進藤茉奈は、何故かドヤ顔でぺったんこな胸を張っていた。


 まあ……その、あれだ。見ての通り……茉奈は無事に手術を行い、特に後遺症も残すことなく、こうして無事に目覚める事が出来た。それから間もなく、俺は茉奈と結婚し、都内の家に住んでいる。


 ずっと眠っていたせいであまり成長できなかったのか、十年前とあまり見た目が変わっていないけど……俺の立派な奥さんで、世界一大切な女性だ。


「嬉しいけど、今は一人だけの身体じゃないんだから……あんまり無理はするなよ」

「にひひ、大丈夫だよ。ちゃんとそこはしっかりしてるから」


 そう言いながら、茉奈は大きく膨らんだお腹を優しく撫でる。


「あ、今お腹を蹴った! きっとわたしの言葉に賛同してるんだよ!」

「さっさと寝ろって、文句を言ってるかもしれないぞ」

「あー……悪態ばっかりつくキュウに似たら文句言ってるかも?」

「やかましいわ。ったく……こんな所で立ち話も身体に触るし、中に行くぞ」

「……なんか、本当にキュウって過保護になったよね~」


 そりゃそうだろ……ずっと眠り続けていた相手をこれ以上苦しませたくないって思ったら、誰でも過保護になるって。


「そうそう、二人でお祝いしたくてご飯用意したんだよ! もしかしたら食べてくるかもって思ったから、軽めのものだけどね」

「マジか、ありがとう。一緒に食べよう」

「うん! ささっ、いこいこ!」


 俺は茉奈に手を引かれながら、リビングへと足を運ぶ。


 こうして俺は……いや、俺達は夢を叶える事が出来て幸せだ。


 とはいえ、これがゴールじゃない。これから生まれてくる子供の為に、より一層努力しなければいけない。


 でも……どんな苦難だって超えられるよな。なんていったって、俺の隣には、ずっと大切な茉奈が一緒なんだから。


「キュウ、なにニヤニヤしてるの?」

「茉奈、これからもよろしくな」

「え、なに急に……ちょっとキモイ」

「流石に酷くねえか?」

「ウソウソ! これからもずーっとよろしくね……わたしの大切な野球バカさん!」

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。元々連載にしようかと思っていたお話を短編として投稿させていただきました。


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それと、ただいま別のラブコメを連載しております! いじめのせいで絶望していた主人公が、幼い頃に離ればなれになってしまった幼馴染兼婚約者と再会したのをきっかけに、幸せな生活と楽しい学校生活を目指して頑張るお話です。時にざまぁ、時にイチャイチャするお話です。


ページ下のリンクから読めるので、そちらの方も応援していただけると嬉しくです!


それでは、また別の作品でお会いできることを祈っております。

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