表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

過日

作者: 御坂紫音



 焙煎される珈琲豆の香りが相変わらずゆったりと充満していた。卓上のモーニングメニューを一瞥しすみません、とカウンターの奥にいるマスターの娘さんへ声をかける。

 本日の珈琲はモカの様だ。

「スペシャルミックスと、ホットサンド。それとコーヒーを両方共ホットで」

「お飲み物はいつお持ち致しましょうか」

「一緒で大丈夫です」

以前と変わらない注文。あえてモーニングセットは頼まない。量がいまいち物足りない気が毎回して。少し減った輪切りのレモンが浮かぶグラスの縁をなぞる彼に聞くまでもなく、開いていないメニュー表はテーブルの端に寄せた。

喫茶ま〜ぶる。ここに来るのはいったい何度目だろうか、既に数え切れないほど同じ注文を繰り返した。

「いつぶりだっけモーニングなんてさ」

ズボンのポケットからタバコを取り出し子気味良い音を立てて火をつける彼は、切れ長の瞳を細める。

「当分来てなかったよね」

私にも、と当然の様に掌を向け貰いタバコをするのもいつぶりか。

「え、最後じゃん。いいの」

「これで辞めるつもりだしいいさ」

 とんとん、と数回葉っぱを詰めて余った先端を折り込む。彼のライターを無言で拝借して、きんと甲高い音ともに蓋を開ける。

「お前がタバコ吸うのもいつぶりだっけ」

 軽く息を吸って先が赤くなるのを確認すると、差し出されていた掌の上にそれをのせた。

「ここに来たら吸いたくならない? コーヒーにタバコとホットサンドとか最高」

 喫茶店ならではのコーヒーかすが入ったラバー付き灰皿を二人の間に手繰り寄せる。

「そうかも」

「でしょ。それに最後だしいいんだよ、私もこれできっかり終わり」

 ゆったりと煙を肺に入れると瞼を下ろした。

 付き合いたての頃の休日はほぼ毎回と言ってもいいほど通ったここも、どことなく懐かしく感じるのは時間が過ぎた証拠だろう。

 ま〜ぶるの中にいると時間を忘れそうになる。マスターがカウンターの奥で珈琲を入れ、キッチンでマスターの奥さんがサンドイッチをいそいそと用意する。娘さんは出来上がるのを待っている間、トレンチを腕に抱えてぼんやり出入り口を眺めていた。家族経営の小さな喫茶店。いつかこんな風にカフェでも開きたいと笑いあったこともあったような気がする。

 朝の十時まではクルトン入りのサラダが先に運ばれてくる。普段なら先に食べるのだが、なんだか今日はそんな雰囲気ではなかった。

「お待たせ致しました。以上でおそろいでしょうか?」

 煙草が半分くらいに減ったところで、注文した品がテーブルに並べられた。ふんわりと珈琲の酸味が鼻腔を掠めて空腹をくすぐる。

「はい。大丈夫です」

 そう答えると娘さんは伝票を置いて踵を返した。

 いただきます。一足先に煙草を吸い終えた彼は呟きコーヒーカップに口をつける。わたしは一旦灰皿に煙草を置きシュガーポットから角砂糖をひとつ、ふたつ。今日はみっつにしておこう、とぽとぽとミルクも追加してかき混ぜた。

「入れすぎだろ」

「糖分補給よ」

「香りくらい楽しめよ」

「いいの。雰囲気が好きだから」

 正直なところせっかく香り良く挽いてくれたのものをダメにしているのは分かっているが、どうしてもブラックを飲む気分にはなれなかった。味見をしてもう少しミルクを入れるか悩んでいるうちに、煙草の灰が長くなってしまったことに気付いた。名残惜しいがフィルターギリギリ、最後の一口を深く吸って灰皿に押付けた。

 おしぼりで軽く手を拭きいただきますとぽつり。クルトンから先に口に運び、もしゃもしゃとサラダを食べ進めていく。今日はイタリアンドレッシングらしい。彼はこれよりもシーザー派なので一切手を付けてない。

 そして程よい温度になったホットサンドに齧りついた。こんがりいいきつね色になった自家製食パンのパリパリの表面とは裏腹に、ふわふわの卵と柔らかいハム。お手製のマヨネーズとの相性は抜群だ。至ってシンプルではあるがそれ故、一つ一つの材料の味がしっかりしていて、一度食べたら忘れられない。パン粉をなるべくばらまかないように気をつけつつ、具材がはみ出ないように食べるのにももう慣れたものだった。

「上手くいくといいね」

 彼が一口大に切り分けられたサンドイッチに手を伸ばしたタイミング。わたしが食事中に喋りかけたのが物珍しかったのかその手は止まった。

「……ああ、そうだな」

「新居はどんな感じなの?」

「少し手狭だけど、駅チカだし充分」

「あの荷物全部入るの?」

「おいおい片付けるさ」

「整理整頓下手なのに」

 黒く染められた髪は昔とは正反対の誠実そうな見た目で、黙々と食事をする姿とよく似合っている。初めの頃はガサツそうな金髪にじゃらじゃらと揺れるピアスを付けて、ちまちまと食事をする姿がなんだかちぐはぐで面白かった。そんなギャップも今や見た目と馴染んでしまって、本当に私が知っている彼なのか分からない様な気がしてしまう。

「変わったね」

「ヒトだからな、そりゃあ。半年も経てば少しは変わる」

「どうだか。私はなーんにも変わらないよ」

「自分がそう思うだけだろ」

 彼はまだなにか言おうとしたが、もう一切れを押し込んで共に飲み込んだ様だった。

「おかわりいかがですか?」

 気付くと鈍色のコーヒーポットを娘さんが持って私たちの横に立っている。にこやかな表情に促されるまま頷いて、すっかり空になってしまったカップをテーブルの端に寄せた。

「あ、俺は大丈夫です。先に出ますんで」

 いつもならもう一杯、砂糖をたっぷり入れて嗜む彼なのだがゆるやかに断った。そのまま伝票を手繰り寄せると、キーケースから鍵を取り外す。

「そろそろ電車の時間だから。多分、昼過ぎに業者が荷物取りに来るから宜しく」

 まだ、皿の上のサンドイッチは半分ほど残っていた。

「そう」

「もう吸わないしやるよ」

 私も吸わないんだけど、とテーブルの上に置かれたライターを見て苦笑いを浮かべた。

 本当に変わってしまったと思う。再び注がれたになった珈琲カップに口を付けて静かに頷く。

「元気でね」

 一呼吸置いて呟いた時には既にレジに居て。砂糖とミルクを入れ忘れたことに気づき顰め面になってしまう。ぐっとこらえて氷の溶けきったお冷を口に含む。仄かなレモンの香りも薄まっている。

 彼の言った通り半年もあれば人は変わってしまう様だ。一切手のつけられていないサラダとサンドイッチの皿を寄せて頬張る。これだけ残るのならモーニングにしておけば良かった。今の私には少し多い気もする。

 美味しいと共感してくれる相手は窓の外を見ても既に居なくなっていた。ついついため息がこぼれてしまう。

 見た目が怖そうでも丁寧だった彼はどこにいったのだろう。すっかり都会に染まったのか、田舎の喫茶店の味は口に合わなかったのだろうか。

 彼が出てしまうならあまり得意ではない珈琲なんておかわりをしなけれ良かった。じゃばじゃばと砂糖とミルクを追加しつつ色んなことが頭を巡ったが、涙すら出てこない事に気付いて失笑がこぼれる。確かに私も変わったらしい。喧嘩して部屋の中でわんわんと泣いていた事が嘘の様だ。

 何が悪かった訳でもない。

 ただ当たり前を当たり前で過ごしすぎて、ゆっくりと時間をかけてすれ違ってしまっただけの事。

 私も来週にはこの町を離れる。きっとそれが二人の進むべき道で、道中にほんの少しだけ一緒になっただけなのだ。それにしてはあまりにも充分すぎる時間を過ごした気もするが、結局、あと半年もすればこの表現しにくい感情も薄まるはず。

「すみません、いちごジュース追加で」

 見当たる所に娘さんは居ないので、カウンター奥のマスターに声をかけた。返事はないが、小脇にあるミキサーをもってゴソゴソし始めたので注文は通っている。

「こんな置き土産、要らないんだけどなぁ」

 綺麗に磨かれたデュポンを指先で弄びつつぼんやりと呟いた。ががが、と壊れそうな音をミキサーが立てている。

 


 

 

 


 

 

 


 



 


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ